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無造作紳士 ーL’aquoiboniste-


「神様、どうか助けてください」

物心ついたころから、わたしが朝起きて一番にすることといえば、繰り返し繰り返し、頭の中でこう唱えることだった。

パパとママが死んだすぐ後は、まだよかった。
叔父と叔母は優しかったし、家は前よりも広くなった。

でもしばらくすると、わたしがリビングにいる間、2人はまるでそこに誰もいないかのように振る舞うようになった。

子供の頃一番いやだったのが、授業やら病気やらで、どうしても必要なお金を叔母にせがまなければいけないことだった。
当時、わたしにおこづかいという概念はなく、何か欲しい時や必要な時には、その都度わたすから言いなさい、と言われていた。
そうしておけば、わたしが何も言い出さないことを、叔母はきっと知っていたと思う。

わたしと周は、できるだけ叔父や叔母に見つからない場所で、2人で過ごした。

春は、桜並木の川沿いにある橋の下。
夏は、庭のむこうの紫陽花の群生の陰。
秋、学校の裏山、金木犀に囲われた木立の中。
冬、児童館の裏、ポプラの木の下。

パパもママも友達もいなかったけれど、代わりにわたしには周がいた。

わたしがその日あったことを話すのを、うっすらと微笑みを浮かべ、ときどき相槌を打ちながら、いつもただ聴いていてくれた。

周の存在をただ隣に感じているだけで、わたしは不思議と心が温かくなって、
泣きそうになるくらい、いつもしあわせな気持ちでいられた。

わたしは、ひとりぼっちじゃなくなった。


だけど大人になって、周は家を出ていった。
一緒に住みたいと駄々をこねたが、叔父や叔母が許すわけはなかったし、周に嫌われるのも怖かったので、そのままわたしは家に残った。


「花世は髪がキレイだよね」

彼が一人暮らしを始めた、三軒茶屋の古い古いアパートにわたしが出向くようになって何度目かの夜、何の脈絡もなく周が言った。

「そうなの?」

「多分、他の子みたいに染めてないからだね」

「染めると、ずっと染めてないといけないのが面倒なだけだよ」

「ふうん。でも、その髪の色がすごく似合うよ、花世は」

「そうなの?」

「そうだよ」

指先で、長い髪の先をくるくると弄んでみた。
野暮ったくて暗いだけだと思っていた髪が、キラキラと艶めいて見える。
光に透かすと、絹糸よりも細く細く、よく見たらそれは漆黒ではなくて、少し薄茶がかった色味だと私は初めて気がついた。

「周の髪こそ、素敵。本当に真っ黒だよね」

「それは、俺の心が真っ黒だからだよ」

「そうなの?」

「そうだよ」


もう話は終わったとばかりに、周は読んでいた本に目を戻し、それ以降はいつものように私の話を聞くだけの態勢に戻った。

周は今日も、私の身体に一切触れようとしなかった。
ただ黙って私のそばにいて、私のことをじっと見ていた。

この髪を持って生まれてきて良かった。
神様、ありがとう。

きっと周は、私のことを大切に大切にしてくれているから、手を出さないんだ。だけどいつか、髪を撫でてもらえたらいいな。

そんなことを思いながら、周が譲ってくれたベッドで、私は眠りについた。
これ以上に満ち足りた夜を、今も私は知らない。
この手で、幸せに触れたような気がした。


次の週、バイトの帰り、周が見たことのない女と腕を組んで歩いているのを見かけた。

背中の真ん中くらいまである茶色い髪は、しっかりとコシと色味があり、光には透けずつるんとして、だけど強く、滑らかで美しい。

周は、今までに見たことがないような顔で彼女に笑いかけていた。

私はすぐさま家に帰り、押し入れに隠した陶器の貯金箱をたたき割って、その足で美容院へ向かった。
長い長い髪をばっさりと肩まで髪を切り落とし、真っ黒に染めた。
仕上げのブローの後に見た、大きな鏡に映る自分は、まるで知らない大人の女に見えた。


昔見たアニメの中で、主人公の男の子が、ヒロインに惚れ薬を飲ませて彼女の心を手に入れようとする話がある。
ドジな主人公は、惚れ薬の効くタイミングに合わせてヒロインの前に姿を現すことができず、彼女はたまたま通りがかった恋敵の方に惚れ込んでしまった。

縋り付いて甘えるヒロインに困り果てた恋敵は、惚れ薬の持ち主に「どうか彼女を元に戻してほしい」と頼み込む。
ヒロインが「私に好かれるのはそんなに嫌か」「私のことが嫌いなのか」と泣きながら恋敵に尋ねると、恋敵はまっすぐ彼女の目を見てこう言った。

そんなことないよ、僕だって君のことが大好きさ。
だけど、こんな道具で君の心を手に入れるなんて嫌なんだ。

正気に戻ったヒロインは「ますますあなたのことが好きになったわ」と彼の手を取り、二人で去って行く。
後には、めそめそと泣き崩れる主人公が残された。


もし私が惚れ薬を持っていたら、迷うことなく、間違いなく周に飲ませるだろう。
私はどうせその程度の人間だ。

家に戻った私は、真夜中になってもなかなか寝付けず、少し風にあたろうと窓を開けた。
物置を少し片付けただけの小さな部屋だが、私にとってはそれなりに快適な空間だと言える。子供の頃には周がこっそりと遊びにも来てくれた。
周が出て行った後は、空いた周の部屋を使わせてほしいと叔母に頼み込んだが、それは許されなかった。

涼しくなったうなじを夜風がそっと撫で、空を仰ぐと、私の新しい髪が溶けていきそうなほどの漆黒の闇が広がっていた。

目をこらすと、星がキラキラと瞬いている。
そのうち一つだけ、異様なほどに明るく、燃えるように光る星があった。

声をあげる間もなく、星はこちらに向かって落ちてきた。

すぐに、それが星ではなく、真っ黒い燕尾服を纏った、背の高い男であることに私は気がつく。

光り輝くその男は、ゆっくりと空中を闊歩しながら、しかしあっという間に部屋の窓際まで辿り着き、私の目を見つめ、すでに開いている窓ガラスを礼儀正しくノックした。
周だった。

これは夢だろうか?
私はボーっとしたまま、魔法にかけられたようにするすると身を引き、彼を中へと迎え入れた。

「ステキな夢」

そうつぶやくと、周はシルクハットを脱ぎ、恭しくお辞儀をしてそれに答えた。

「いいえ、夢ではないですよ。私は魔法使いです」

「周って、魔法使いだったんだ」

「シュウではありません。あなたの心の中を映し、あなたに合わせた顔が見えるようにしています」

「好きな人の顔に見えるってこと?」

「好きな人とは限りませんが、生まれたばかりの赤ん坊には、私の顔はのっぺらぼうに見えるでしょうね」


男がステッキを振ると、ポンッ、とアニメのような音がして、フカフカとした一人がけのソファが現れた。
まるで自宅に帰ってきたかのように、彼はゆったりとそのソファに腰掛け、パイプタバコにマッチ棒で火を付ける。

「魔法使いなのに、火はマッチでつけるんだ」

「あいにく私は、何でもかんでも魔法に頼るとろくな大人にならない、という教育を受けてきたんです」

そう言って、彼は私の顔にタバコの煙を吹きかけた。
まともな大人は、真夜中に若い女の部屋へ押し入ってタバコを噴かしたりしないのでは、と喉まで出かかった言葉を飲み込み、私は尋ねた。

「それで、魔法使いさんがわたしに何のご用ですか」

「私は、このたび魔法使いを引退するんです」

「そうですか・・・それはおつかれさまでした」

「それで、この魔法の力を誰かにプレゼントしようと思っていまして」

「え、受け渡しできるものなんですか」

「実はそうなんですよ」

「もしかして、わたしにくれるんですか」

「ええ。あなたは可哀想な少女だから」

「わたしって可哀想なんですかね・・・」

「私は魔法使いですからね。可哀想か可哀想じゃないか、それくらいは一目でわかるんですよ」

周の顔を纏った魔法使いはパイプから煙をふーっと吹き、それはドクロの形になったかと思うと、そのまま私の顔にかかって消えた。
チョコレートみたいに甘くて濃い匂いがした。

「で、どうですか。欲しいですか、魔法の力」

「ほしい。ほしいです、何でもします。ください」

「それならよかった。だけど、そんなに欲しがるのは何故ですか?あなたが叶えたい願い事とは何ですか?」


言葉に詰まった。

さっき、流れ星に願ったお願い事はこうだ。

「周が私に触ってくれますように」
「周が私に触りたいと思ってくれますように」
「周が私だけに触りたいと思ってくれますように」

これは、神社に行った時や夜空を見上げた時、満月の夜、子供の頃からいつもいつも頭に念じてきた、もはや習慣のようなものだった。
だけど、あの茶色い髪の女を見た今となっては、周とどうなりたいか、周と何がしたいのか、もうよく分からない。

今まで私の世界には、周しかいなかったから。

今、間違いなく言えるのは、私は、あの茶髪の女と同じにだけはなりたくないということだ。
嫉妬とも少し違う、この感情の正体も、私はまだ知らない。

「私、これまで幸せじゃなかったと思う」

床の一点を見つめ、絞り出すように、私は言った。

「どうでしょうね。まあ、ご両親を亡くされていますし、そこら辺の普通のお嬢さんよりは、確かにアンラッキーだったと言えるかもしれませんね」

「うん。あの頃は死ぬかと思うほど悲しかったけど、今では、幸せになれたと思ってた」

「思っていた…」

「そう。だけど、そうじゃなかったって分かったの。わたし、やっぱり、ちっとも幸せじゃなかった」

「幸せというのは、相対的なものですからね。自分を外から見て、周りと比べてしまったらキリがないと思いますけれど」

「でも、私はもう今の私に満足できないの。知ってしまったら、もう終わりなの」

短くなった黒髪をぎゅ、と握りしめて、私は真っ直ぐに彼の顔を見た。
触りたい。そのついでに、殴りたい。
何をどうしたいのか、やはりよくわからない。

周の顔をしたその男は、私の顔を真っ直ぐに見つめ返してこう言った。

「魔法は、あなたを幸せにするためのツールです。
 どうか、使い方はお間違えなきように」


彼は立ち上がって私に近づくと、ゆっくりと跪き、ステッキを差し出した。
ほんわりと、鈍く光っている。
触ったら火傷してしまうような気がして、私はおそるおそる手を伸ばし、指先でそれに触れた。


目覚めた時、私はベッドの上で大の字に伸びていた。
朝の光がジリジリと頬を焼く。
数秒は、自分が誰なのかも思い出せなかった。

誰に対しても、どんなことに対しても期待はしない、という子供の頃からの習慣のおかげで、さほど失望はしていなかった。

当たり前だ。漫画じゃない。ドラマでもない。自分でも、途中からこれは夢だろうなと身構えていたと思う。

暫くして私は、右手に触れる、ツルツルとしたプラスティックの感触に気が付いた。
少しの間、その手触りを楽しんだ後、お願い、大丈夫、期待はしてない、でも、とその何かを持ち上げる。
目の前に、掌サイズの、黒くて細い杖が現れた。

脳味噌が胃の中で、グルグルと混ざる。
心臓のところには、小さく、けれど確かな、温かい光が宿るのを感じた。