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欠陥製品


あの祖父の部屋のことは、子供の頃から今に至るまで、頻繁に夢に見ている。

少女時代の私にとって、彼の部屋はまるで宝物庫だった。

古く朽ちかけた山程の洋書、
若い頃に外国で買い漁ったという懐中時計や葉巻の数々、
私の家にはなかった古いドット絵のファミリーコンピュータ、
分厚い望遠レンズの付いたずっしりと重いカメラも、
全てが独特の空気を纏い、何故かいつも西陽を受けたイメージで、魅力的で。

特に、祖父のネクタイピンがずらりと敷き詰められた重厚な宝石箱が、私のお気に入りだった。

ルビー、サファイア、エメラルド、ダイアモンドにオパール、ガーネット、オニキス、赤珊瑚に黒真珠。

まだ幼い私が、遊びに来るたび部屋に篭っては、いつまでもいつまでも見惚れている横で
「おじいちゃんが死んじゃったら、これは全部お前にあげよう。
おばあちゃんとお母さんには内緒だぞ」
と、彼が悪戯に笑ったのを覚えている。

壁や天井は焦げ茶色く、床は一面がボルドーのカーペットで、空気が少し淀み、むせ返るような不思議な重さがあった。

まるで彼の好きだったチョコレートを、箱に詰めて30年くらい置いて、もう食べられなくしてしまったかのような
いや、飲めもしない5歳の私に自慢して見せた、古びたウイスキーの、小さいボトルの中身のような

そんな洒落て時間の止まった匂いが、何も変わらない記憶通りの部屋が、大人になってからも、いつ訪れたとしても、夢の中と同じようにそこに在った。


祖父は、不思議な人だった。

今でこそ私は、老いた男性の多くが一般的にどういった出で立ちをしているかということを把握しているので、彼の見目がいかに非凡であったかを理解できる。

孫の私がこんなことを言うのは滑稽かもしれないが、祖父は、かなり容姿の良い老人だった。

若い頃はさぞかし女性にもてたんじゃないだろうか?

90に差し掛かろうというのに髪は豊かな濃い色の銀髪で、彫りが深く、どこか日本人離れした、大学教授のような雰囲気を纏っていた。
腹のあたりの肉付きの良さも、かえって若々しさを感じさせる。
育ちの良さもあるだろう、どんなに気を抜いた服装をしていても何故か品があり、細い縁が鈍く光る眼鏡は、全体に知的な印象を与えていた。

実際、彼は聡明だった。
日本人なら誰もが知っているような大学を出た後、曽祖父が戦前に築いた商社を継いで、今の形まで大きくしたのだ。

そのために祖母との結婚後は今の田舎に落ち着いたが、本当は大学に残りたかった、と、まだ幼い私にこぼした時の顔が、やけに鮮明に記憶に残っている。
あの頃は、意味もよく分かっていなかったが。


東京に出て行った私を毎日心配しているような祖母とは違い、
祖父は、私にそこまでの興味を持ってはいなかったような気がする。

もちろんある程度の愛情は受けてきたと思うし、それなりに手も金もかけてはくれたのだが、それでも、彼の意識はいつもどこか遠くにあるように感じられた。

私が帰省すると、祖母の方は目を輝かせてこちらを見つめ、私の話す言葉のひとつひとつに夢中で耳を傾けたが、
祖父はというと、ほんの少し嬉しそうに近況確認を済ませた後、すぐにテレビに目を戻し、私の知らない外国の映画をただじっと眺めていた。

私は今でも彼のことを、まるで、画面の向こう側にいる人のように思うことがある。

正しくは、彼にとって、私が画面の向こう側にいたのだろうけれど。



昨夜、母から電話があった。

祖父がもう2ヶ月ほど、水しか摂らず、点滴を打って生きているという。

もう立つこともできず、日に日に衰弱していくばかりで、
祖母はすでに、あの部屋で祖父を看取ることを決めたらしい。

医者が言うには、身体機能には何の問題もないが、ただ気力が無く、食事を摂ろうとしない。

毎日、「早く死にたい」とだけ、繰り返していると。


私以外の他の親族は、おそらく最期となるであろう面会を皆すでに済ませたそうだ。

私だけが、何も知らされていなかった。

母はこういう時、いつも私にだけ手遅れなほどの段階になってから報告をするのだが、それはまた別の話になるので置いておく。

母の話を聞きながら、私はだんだんと悲しくなってきて、ポロポロと涙をこぼしてしまった。

なのに、全くつらくはない。

苦しくも、逃れたいとも思わない。

ああ、これ、何かに似てる。

多分、さっきまで観ていたドラマの、好きだった登場人物が死んでしまった時の、あの感じだ。

次の瞬間には、裕福だった彼が、私に少しばかりの財産を遺していたはずだということを思い出していた。

その時、ほんの少しだけ、祖父のネクタイピンが、心臓を削ったような気がした。


あんたが、一番、誰よりおじいちゃんに似てたわよね。

母がそう呟くのを、受話器越しに聞いた。



まだ幼かった私にとって、彼の部屋が特別だった理由がもう一つある。

あれは小学校に入って間もない頃だったと思う、夏休みの真っ只中、弟や従姉妹たちと、かくれんぼをしていた時のことだ。

実は新しいもの好きの祖父が買った、当時では最新型の、かなり大型のパソコン台の下に、私は隠れていた。

鬼になったまだ幼い弟が、すがるように私を呼ぶのを聞きながら、

私はふと、奥の方の机と壁との隙間に、何かの雑誌の束が隠れているのを見つけた。

その表紙は、全体的に燻んだこの部屋の雰囲気には凡そ似つかわしくない鮮やかな色調で

胸やスカートの中身をさらけ出し、悩ましそうに微笑う、自分よりもいくらか大人びたセーラー服の少女たちが写っていた。

精悍な祖父の顔つきと、妙に気の抜けた彼女らの表情が、ぐるぐると交互に私の頭を回る。

弟の声が遠ざかるのを待ち、蒸し暑い絨毯とパソコン台の間に挟まって、

指先で、私は一番上のページを摘んだ。