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「帰る」という感覚だけが、わたしにこの地が故郷だと思い込ませてくれていた。

昨年の春、急に思い立ったかのように21年前まで8年ぐらい住んでいた町をひとりであるいた。これまでも友達に会ったり、定番のお祭りなどで何度か町自体には行っていたが何の用事もなくこの場所に降り立ったのはひさしぶりだった。

どうか、ここを故郷(ふるさと)と呼ばせて欲しい。

わたしは父の仕事の関係で幼少期に何度か引越しをした。生まれたときは両親は大阪に住んでいたので生まれて初めて住んだのは大阪だった。幼稚園に入るタイミングで引越し、小学校5年生まではこの地元と呼んでいる場所にいた。その後も栃木、埼玉と2つほど転校をしたが、いまでもわたしは出身を聞かれると「ここ」だと言っている。

幸い、11歳まですごしたこの土地は両親の出身地の近くでもあり、長期休暇の際には必ず帰っていた。「帰る」という感覚だけがわたしにこの地が故郷だと思い込ませてくれていた。地元のあるあるも、風習も、忘れないように必死で辿りながら記憶を守る。自分がここの土地の人間であるということを認めてもらうために必死だった。

20年ぶりのその場所はあまり変わっていなかった。よく遊んでいた神社、当時住んでいたアパート、裏の河川敷、小学校の通学路、友達の実家、町工場、時間がとてもゆっくりだった。たしかにそこには懐かしいと感じる風景がある。

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ずっと孤独を味わっていた転校生の気持ち

もう20年以上も前になるので詳しくは覚えていないのだが、転校はとにかくつらかった。最初の転校はそれまで仲の良かった友達と離れることがつらかった。2回目の転校をしたあとは、自分だけ昔からの友達が近くにいないことがつらかった。

そして距離が離れるたびに地元の友達だと思っていた人が自分のことを忘れていく悲しさは、物心ついてからはじめての「どうせわたしなんか」だった。当時は携帯電話はおろか、家にパソコンすらない時代だったため、離れた友達と連絡を取る手段なんて文通しかなかった。転校先では全国に友達がいるのいいな!ってよく言われてたけどちっともよくなかった。

方言もちがう、文化も違う、クラスの勢力図や雰囲気を観察し、グループからはずされないよう必死に愛想をふりまくしかなかった。どこに行ってもすぐに友達はできた。いじめられたこともない(あるのかもしれないけど特に自覚はない)。でもどこにいてもどこかでわたしは部外者のように思えてしまい、当たり障りのない関係でやり過ごしあまり学校では心を開けなかった。

2回目の転校は、1回目の転校から半年後だった。たまたまキッチンのカウンターの棚のカーテンを開くと、見知らぬ街のパンフレットが置いてあった。いつもそんなところは開けないのに、その日はなぜか開けた。そして子供ながらに「もしかしたら」と気付いていた。その数週間後に2回目の転校が父から告げられた時、母も泣いていたような気がする。転校したくない!とは両親にも絶対言えなかったし、兄弟もいないわたしには誰にも想いを共有できるひとはいなかった。いまおもうとそれもだいぶ苦しかった。

いまだに必要以上に空気を読んでしまう癖と、コミュニティや対人関係において、自己開示が苦手で、自分はここにいていいのか、自分は認められていない存在なのではとすぐ思ってしまいなかなか周囲に心を許せない癖は、たぶんこの頃に染みついたものだと思う。

人と深く関わるのが怖い、のかもしれない。

親友がいない、というのが昔からのコンプレックスだった。

自分が地元の親友だと思っていた友人に、自分の知らない親友ができていく。高校で一番仲が良かった友達は、高校卒業から4年後に突然この世からいなくなった。いまでもその連絡を受けたときの衝撃を鮮明に覚えているぐらいショックだったが、当時となりでその悲しみを支えてくれた人も今ではもうすっかり赤の他人だ。「親友」「特別」と名付けるとわたしの目の前から消えてしまうのではないかと思ってしまい怖くなった。

中高校生の頃、世間でも学校でもみんながなんでそんなに簡単にお互いを親友と呼べるのかがわからなかった。プリクラの「ズッ友だよ♡」とか「☆Best Friends☆」などのスタンプはただの記号として毎日消費しているだけだった。頑張って周りに合せていたけど、もしかしたらわたしのこんな気質のせいで傷つけてしまった友達もいるかもしれないし、わたしは周囲との関係を大事にしたいだけなのに自分で壁をつくってしまっていたのかもしれない。そうやって考えれば考えるほどひとりで殻に籠り、高校時代はよく音楽に逃げていた。

もう少し大きくなってから知ったことも沢山ある。もしかしたらわたしが相手に興味を持つことは、相手にとって嫌なことなのかもしれないという感覚を一度味わってから、何かアクションを起こそうとするたびにそれがずっとトラウマとして今でも私の心を曇らせる。

わたしだってずっと誰かの何かになりたかった。

ひとりでなんでもできる、ひとりが好き、そんなんじゃない。自分が傷つくのが嫌で、誰かといることより、ひとりでいることを無意識に選んでしまっていたのだ。わたしだって好きでひとり上手になったんじゃない。

この頃にはもう転校した経験なんて全く関係ないのに、それまでに形成された私の中の闇はまだ続いていた。

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だからこそ、わたしは居場所を求め続ける。

贅沢な話だろうと言われるかもしれない。それなりに不自由なくここまで生きてこれて何を大げさに言っているんだと思われるかもしれない。

絶望するたびに諦めていたなら今頃どうなっていたか想像もつかないが、ドリカムの曲ばりに何度絶望しても、どうしても10001回目の一筋の光を探してしまう。この期に及んでもまだ他人と繋がることを諦められない人間であることは、ある意味自分にとっては救いだったかもしれない。

いつぞや「あなたは、自分の居場所を早く決めたいという気持ちがつよい」と誰かに言われたことがある。たしかにそうなのかもしれない。びっくりするぐらい不器用でこうやって内省すればするほど辛くなるけど、それは今までこんな自分や周りと向き合うことから逃げてたシワ寄せなんだなと、いい大人になってからようやく気付くことができた。そしてきっと今まで自分の故郷や居場所をつくれなかったのは、そんな私の覚悟が足りてなかったからだ。

ここまでの話を聞くと自分の過去や境遇を呪っているようにも見えるかもしれないが、別に一切この境遇を呪ってもいないし、むしろこうやっていろんな場所で時を過ごしていたからこそ出会えたモノや人、できた思い出、人生の選択も沢山あったので、どちらかというと感謝の気持ちのほうが強い。

アイデンティティが迷走して少し生き辛さを感じる体質にはなってしまったけれど、大人になってからは少しずつ自分に素直になれるようになったし、マイペースだけど居場所をつくる努力をできるようになったと思う。この経験があるからこそいろんな多様性を認められるようになった、これが今の私である。

「故郷は場所ではなく、あなたでした」

ある曲の一節に、こんな歌詞がある。

振り返れば故郷は場所ではなく、あなたでした

そうか、物理的な場所だけじゃなくてその時誰かと一緒に過ごした時間や想い出もいつか故郷になるんだ、と思ったら少しだけ心が軽くなった。

これからもまだ自分の中の故郷は誰かと増やしていけるかもしれない、いや、もっと増やしていきたい。そう胸に誓いながら、私は今日も新しい心の故郷(ふるさと)を探し求める。

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※ある曲というのはこれ。シチューが飲みたくなる冬にぴったりのやさしい歌です。聴いてみてね。「GLAY / ホワイトロード」

※写真はひとりで歩き回った時に撮影した地元の写真です。
 カバー写真の看板は私が小学生の頃からずっとあるやつです。大量の手の陶器は萬古焼の人形の廃棄物。

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