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New北九州 新市長と現市議と市民の未来は?5市合併前の元市議の孫から見る想いラスト

これは下記連載part3のラスト編となります。

前編からの続きだが、文を書く時も同じく、元々何をする時もノープラン。

「北九州の高田純次」と呼ばれる私だが、これで最後。是非お付き合いして欲しい。

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part3の続き

子供がオギャーと生まれた時、脳細胞は、大人と同等の数だけ存在
する。

ただ、それがまだ機能していないだけ。だから3歳迄に両親の言動
や行動が脳に伝わり、子供の脳へ、厳や愛が伝わり魂が宿る。

人としての根本が出来るのが、大体14歳と言われ、25歳で基本的
な人格が形成され、40歳迄惰性で生きる。

だから私は子供。
特に幼稚園の年長か、小学1年でうちのジムの門を叩いて入る子に
は、大らかで面白い環境で育てる様にする。

小学1年、2年生くらい迄は、一歩ジムを出たら「バイバーイ」と
手を振り合い、ボクシングも伸び伸びさせる。

本当に悪い事をしたら叱るが、この年頃で悪い事をする子は、まず
いない。

YANAGIHARAジムの子供達

私が2歳半までの事を、母や両親の祖父母から聞いた話を纏める
と、本を読んであげたら、何回ももう一度読め、と言う。
面倒で1ページ飛ばしたりすると、大変だったと聞く。

「お婆ちゃん、飛ばした所もう一回読んで。」と言ってたそうだ。

だから今も本が好きで、記憶力がいい。この連載も祖父の下り以
外、ほぼ記憶で書いた。

良い事は覚え、悪い事は忘れるので、過去に不幸や辛かった記憶
は本当にない。

北九州市議の優秀な友が「北九州の人口減に、危惧しない北九州、
これは市民性です」と言われ、嗚呼なる程。

そう考えた私は、北九州を昔に戻すのではなく、No.1でもなく、
only oneの街にしようと思った。

YANAGIHARAホールディングスという権利能力なき団体を作り
まずはLINEグループで約70人程、私のみが招待できるグループを
結成。

ここにはマスコミから刑事、芸能人に経営者。サラリーマンもいれ
ば、主婦もいる。

共通点は「理念の合う心の綺麗な人」のみ。
400万円をかけオフィスを作ったが、このオフィスの所有者が後に
守銭奴と分かり、此方から決別。即座に、賃貸契約を解除した。

僅か2年も経ずに、400万をかけたオフィスと造作はそのままに、
すぐに出て行った。

お金は稼げばいいが、心の濁った人と関われば、自分の心、私に付
いて来る者、従業員に選手の心も濁り、私が一番大事にする「信」
を失う。

私は昔から、決断とトイレに食事、風呂や電話を取る事に関しては
誰よりも早い。

故にこの度、ディベロッパーとしてデビューし、4900万円の土地
をキャッシュで買う時も、1分で決めた。

私が生まれて初めて買った土地は、何故か建設予定のビルが建つの
を待たずして、周辺の価格が急騰している。

周りの地主に感謝され、何故かオフィスに来る人は、心の綺麗な人
ばかりになった。

金融業を営んでる時、私を尋ねる人の9割は、当然の事だがお金を
貸して欲しい人ばかり。

ここで人を見る目を養いながら、ボクシングを通じ、相手の心を読
む事も覚え、選手を指導しながら教育に関心を持った。

政治は前述した様に、左から右の思想全てを通し、見てきた結果、
私は是々非々で、物事を判断する事となる。

人と揉める事を辞めると、友人にビルを建てるよう言われ、生まれ
て初めて借金を申し込むと、奇跡的に1発で数億円の融資が通る。

この世に、神や仏はいる、と今思う。
だから、むさぶる様に東洋哲学の本を読み勉強。

勉強をし、行動に移すと、やればやる程、理念や志の同じ人ばかり
が集まる様になった。

因果応報とか類は友を呼ぶ、という諺を、子供の頃から本を読んで
くれた祖母に感謝すると共に、手放すことから始まる事を身を持っ
て知った。

北九州市長選を終え、溜まっていた事を一つ一つ処理し、日本で一
番優秀な弊社顧問、高木健至弁護士や、心の許せる友人に、これは
王道か、これは世の為になるか。

迷った時、時に優しく、時に叱って諫言してくれる人を横に置き、
間違った道を歩まぬ様に、何が正で何が悪で、どこで清濁合わせ飲
むか、チェックする。

55歳の今、少しだけ分かり、行動し今まで冠った、余計な鎧兜を
外し、身軽になりこれからご迷惑をおかけした北九州と本業のボ
クシングに邁進する日々を送ろうと決めた。

ディベロッパーとして、お金じゃない。北九州をよくする為にどの
地域をどうするか。

県議や市議の多忙さを考え、また公人では出来ないケースを、どう
善処し北九州市や市長に市議、市職員と、市民の皆様に役立つか。

これをライフワークとして、今後生きて行く事が、やっとできる様
になる。

思えば、世の中が朧げにわかったのが、50歳。

男は仕事が無い事が、一番の不幸だ。お前はそろそろ人物になれ。
晩年になり、そう言った父。

「何が楽しみで生きてるの?」と聞くと「あんた達子どもが立派に
成長してくれる姿を見てる時」と言う母親。

私は卑怯者だから、妻も子も取らず独身である分、従業員やトレー
ナー、ボクシング界、選手と会員とその父兄。
そして北九州市民を家族だと思い、出来うる限りお役に立ち、死ん
で行きたい。


故 細川松義

私の育ての親である、故細川松義は、市の為、弱者の為と口は悪い
が、いつも凛とし、常に堂々と、どんな悪とでも向かい合った。

私はどんな相手でもどんな危険な折衝ごとでも、この人の息子とし
て、運転手、秘書として、師と思い365日横にいた。

「おい、柳原!明日朝の7時に迎えに来い」。
そう言われ、自分の仕事を放り投げ、この人の横にいた。

「うちのオヤジが正しいんぞ」。
いつもそう思い、隣で相手の目を見据えていた。

大臣だろうが親分であろうが、セリフはいつもこうだった。
「俺がこうと言ったらこうや!北九州の事は俺が決める」。

そう言って、胸を張り、堂々としていたこの育ての親父を、私は心
の底から好きだった。

死んだ後も、この人を追いかけて、生きて来た。

北九州モノレールや、北九州空港が出来る時、全て汚れ役を買い、
貧乏くじを引き、妻に逃げられ財産一つ残さず、49歳で死んだ。

晩年は私が一番横にいた。平成30年5月31日、19時34分。

仕事の代理で福岡に行き、泊まり込みで仕事を終え、良い報告がで
きると思い、新幹線に乗り博多駅を出た後、死んだと電話がきた。

僅か数十分差で、死に目に会えなかった。
この世に神も仏もない、と思ったあの日から、25年。

私はこの人に、到底及ばない。
師としていつも背中を見せ、教えてくれた。

今、凄く分かる。
素敵でかっこいいいオヤジだった。

この人を追いかけ志半ばで死に、やり残した事を「オレがやろう」
と思う。

見返りは絶対に求めない。

それがこの人の生き方だった。
私は誰が何と言おうとこの人の志を、正しく継ぎ、正しく生きる。

北九州がやっと始まったぞ!
未来を捧げる子供達へ。





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