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我慢と辛抱の違いは何か

写真にあるのはYANAGIHARAジムの小学生。
彼を含め多数の小学生や、幼稚園児に道徳授業を教えてきた。

ある日表題にある「我慢と辛抱の違いは何と思う?」と聞いた。

優秀な我が子供達は、言い方は違えど答えを当てた。

我慢とは虐めに合うとか、無理やり寒い所に置いてかれた、という
自分の意思とは裏腹な辛くて理不尽で、嫌な事を耐える。

これが「我慢」。

辛抱は、例えば将来ボクシングのチャンピオンになる!と決めた場
合、朝早く起きて一時間走る事から始まる。正直辛い。

その後学生は学校へ、仕事してる人はバイトに行く。その後ジムで
3時間は練習やストレッチ。帰ったら晩御飯を食べず失神か気絶、
というのが、A級選手の当たり前の1日である。

こんな辛い事を、正しい目的や夢を達成する為、辛いけれど耐える
事が「辛抱」。

何と小学生は、この様な答えを子供ながらに、拙い言葉で答えた。

辛いことが包まれた時、目標が達成するのではないだろうか?

だから知ると分かる、は違い、知って分かった上で行動する、知行
合一が必要だと思う。

今度うちを辞める20歳代の社員がいる。
最近友達の経営者から、よく20歳代はタチが悪いと聞く。

「労基に行って欲しくなければ金を出せ」。
「建築会社の元請けに行って欲しくなければ金を出せ」。

各々違う友達だが、共に300万取られたそうだ。私に相談すれば、
こんな事は朝、飯を食う前に片付けたのに。

そう思いつつ、どうせその子も更に悪い大人に食われるのは、世の
性である事を、以外と知らない。

簡単に言えば親が悪いのだが、当然素晴らしい子もいる。

さて両者の違いは、子供の質問に答えてあげると、その答えを深掘
りしてさらに掘り下げて、熟慮した上で聞いてくる。

こういう子が友達に恵まれ、大人にも引き立てられる。

対して言葉は敬語だけれど、我慢も辛抱もしない者に限り「そこが
社長違うんですよ」などと言う。一番組織には要らない者だ。

自分が絶対の様に振る舞い、苦労を知らないので、平気で口答えを
する。

私が若い子に、物を言わせやすい環境を作った甘さかもしれない。

しかし、両親の躾がしっかりしてる子は緊張感を持ち、礼節を重ん
じ私と接するので、やはり教育は家庭にあり、子供が悪いのは親が
悪い、とも言える。

子供にはお茶の出し方を教え、叱りのに、自分は会社のお客様の前
で、膝を立てお茶を出す。

余談だが大阪では昔、暗黙の了解だが、交渉中に片膝を立てると、
「これから一言間違えたら喧嘩しますよ」という合図だった。

ここまで教えて治らないのは、環境を変える気がない。

腐ったみかんが更生するのは、更生したその人の強い意志、家族の
正しい愛があるからだ。

腐らず素直な子に勉強を教え、腐ったミカンを放り出すのが公平と
思う私は、駄目なものに尽力しない。

何故か。

何度も同じ事を言わせる人を、バカというが、実は素直さがない、
聞いていない、子供の頃ろくな道徳を受けてないので、正論を教え
ても自分が不利になると謝らず、拗ねるか反論する。

不良は治る場合もあるが、思考回路が全く違う者は、言葉が通じな
いのと同じで、話すと話の整合性が狂い、論点が本題から外れる。

自分の言い分を100%通す為、自分が絶対だと言い張り、その議論
が人生や道徳に於いて、必要であるか?そういう事を考えない。

長期的な視野での思考、解決、最善策を語る為の会話が出来ない。

ボクシングをいつかやめる。野球をいつかやめる。バレーを・・。
それは本人の意思なので大いに結構。

しかし、そんなノリで入社した奴に、給与を払い続けた私の身に、
どうか一度なって見てほしい。

この手の人間を作る政治や教育、家庭がどうなったら出来るのか。

ボクシングジムの教育だけでは、もう答えもベストも出せない。

私の悪い所は、何個も同時に事をやってしまう事だと思う。
だから俯瞰して長期的に、プランを立てている。

普通の人なら人間不信でノイローゼになる事象が、この数ヶ月で私
の身に何度も起きた。

しかし普通でない私は失いつつあった、ハングリー精神と闘争本能
を再度得た。

その上、一年だけ死んで一年と一日後に生き返ろう、とも思ったが
ミスした時のリスクと「
人は自分で死んでいい権利はない」という
私の名作が嘘になるので辞めた。

私は子供の頃、我慢してばかりの小学生だったと思う。ゆえに我慢
も辛抱も同じと思い、兎に角、愚痴一つ言わずひたすら耐えた。

小学生半ばになると、どんな事でも黙って、そこから逃げなければ
何とかなると感じた。

大人になりネゴシエーションや、世の裏も表も見て世を知り、我慢
を辞め辛抱はしたが、こんな事は稀有な事で、あってはならない。

学校は我慢も辛抱も教えないので、自己主張で筋の通らない理屈を
違う、と言うと「いや間違ってるのはそっちっしょ」などと上司に
言う、悪い意味のアンファンテリブルを増やした。

世の中は反省しベストな道を探す事が、無から生まれた人間のやる
事ならば、反省も変化もなく、自分の都合の良い主張を述べ、自分
の事だけ考える事は、日本という美しい歴史に断じて必要ない。

「知ったような事を言うな、テメエの分を知れ」。
 昔の人が言った言葉に間違いはあるめえ。

人間というのは、完璧ではない出来損ないが、死ぬ迄に一つでもい
いから、人様のお役に立つには、何を知り行動すればいいかを考え
る為、反省する能力を与えた。

これは、地球上で人間のみが付与された才能である。

少なくとも生産性のない、自分を悪者にしない為に他人を責め自分
さえ良ければいい、と思う風潮はある時は犯罪より罪である。

少なくとも入社する時、辞めて次は何してこうする。そして自分は
こうなる。

こんな思考の者に幸せが来る筈はなく、子供を教える権利などあろ
うはずもない。

ゆとり教育という、名前からして世界中に笑われる教育を、鬼の首
を取ったように創る教育者に、五体不満足で生まれた家庭や、酒乱
で母を殴る家庭の理不尽さは、絶対に分からない。


私は伊達に気の短い暴れん坊だけではなく、コジキから大臣迄と、
様々な人の表と裏、良いところと、悪いところを見てきた。

だから、未だこう言う読みは、一度も外したことがない。

ないが、この読みが外れる世にならない様、何をすればベストか。
まだまだ考えないといけない。そう考えさせる1日だった。

アンファンテリブルの、成功しない若者バージョンが増えていると
言うような話を、昔不良で手の付かなかった、友達や後輩が言う。

「それは杞憂だよ」と言う世が、早く来る事を切に願う。


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