理系のふつうの大学教員がカウンセリングを学んだよ
この note では、ナラティヴ実践協働研究センター(NPACC)が主催したオンライン講座『カウンセリング・トレーニングコース』の修了を機に、2年間にわたってカウンセリングを学んだことが、理系のふつうの大学教員である私の人生にどのような影響を与え、成長や変化を促したのかについて、気がついたこと・理解が深まったこと・興味関心を持ったことなどをまとめてみたいと思います。
私は、関東圏の私立大学で理系(化学)分野の教育と研究に携わる教員です。大学の教員として、日々、週に数コマの学部・大学院の授業を担当したり、研究室で学生たちの研究を指導しています。ここで「教育に携わっている」というフレーズは、もしかすると私について、「教えることが好きなプロフェッショナル」という印象を、少なからずもたらすものかも知れません。
しかし私たち大学の教員は、「教えること」についての専門的なトレーニングを受けないまま、授業運営や学生指導に携わるようになることがほとんど。「教えること」が、それほど好きではないことも少なからずあるように思います。ナラティブ・セラピーに出会い、このカウンセリング・トレーニングコースで学びはじめるまでの私も、「教えること」についてはもちろん、「学生たちと積極的に関わること」についても、十分な自信が持てないまま、「教員としてやっていけるのだろうか…」との不安や焦りを感じる日々を過ごしていました。
そのような私が今、カウンセリングについての学びによって大きく変化・成長したのではと実感しているのは、大学教員として学生たちと関わるときの「在り方」について、「確かな自信を持てるようになったこと」であるように思っています。私にとって、学生たちの人生のひとときに立ち会うこと・成長に関わることは、「不安に感じること」ではなく、「喜びや楽しさを感じること」であると言えるようになったことに、あらためて、嬉しさを感じています。
さて、私がナラティブ・セラピーとはじめて出会ったのは、今から3年前の20230年2月頃、中国武漢で新型コロナウイルスの感染が徐々に拡大する状況が確認されて、その脅威が日本にも少しずつ陰を落とし始めた時期になります。その頃の私は、先述したように、「教えること」「学生と積極的に関わること」について自信がないことを悩みつつ、教育関連の書籍を手当たり次第に読んでみたり、暗中模索・悪戦苦闘しながら日々の授業運営・学生指導を取り組んでいる時期でした。
そんなとき、ある集まりで偶然出会ったキャリア・カウンセラーの方と居酒屋でおしゃべりしているときに、「ナラティブ・セラピーというものがあるんです」ということを教えてもらう機会がありました。私はその当時、心理支援・対人支援のさまざまな仕事があることは知りつつも、そこで用いられるセラピーやカウンセリングというものは、心の悩み・困りごとを抱えた方々に対して心理の専門家のみが用いているものであり、「大学教員としての自分の立場・領域からはかなり遠いもの」という理解で捉えていました。
しかしこのときに、ナラティブ・セラピーというものが、私が学生の頃に少し興味をもっていた「社会構成主義」を土台とする取り組みであると聞て、ちょっと面白いかもと思い始めました。あとは酔った勢いで、「ナラティブ・セラピーを学ぶにはどうすれば良いですか?」と、そのキャリア・カウンセラーの方に尋ねてみたところ、「ナラティヴ実践協働研究センターというところで定期的にセミナーを開催しているので参加してみては」とのアドバイス。心理支援・対人支援についての素人である私が参加して良いのだろうかとの躊躇はあったものの、「教えることや学生と積極的に関わることに対して自信のない私」を少しでも変えることができればという期待が勝って、ナラティヴ実践協働研究センター『カウンセリング・コース』への参加を決意しました。
カウンセリング・コースでの2年間にわたる学びの中で、私の人生に最も影響を与えたのは、「他者の在り方に敬意をもって寄り添うこと」や「他者の語りに真摯に耳を傾けること」など、私たちが誰かの助けになろうとするときに大切にするべき「在り方(being)」であるように思っています。このコースでテキストとして用いたデヴィッド・パレの「協働するカウンセリングと心理療法」のなかでも、心理支援・対人支援の実践的な「おこないかた(doing)」に先立つものとして、その根底にあるべき「在り方」の大切さが何度も何度も繰り返し強調されていたことが印象に残っています。
一方で、このような「在り方」について、たとえば、もしテキストに「他者の在り方に敬意をもって寄り添うこと」や「他者の語りに真摯に耳を傾けること」についての大切さを説く文章があり、それをもし「読む」という取り組みだけで終わっていたならば、「確かにそうだよね」と納得はするものの、私の考え方や行動の根本を変えるには至らなかったかも知れません。2年間のカウンセリング・トレーニングコースのなかで、講師を務められたコウさん(国重先生)やカツキさん(横山先生)、そして、さまざまな領域で心理支援・対人支援に取り組まれている受講生の皆さんとのディスカッションを通して、他者の困りごとに向き合い続けることの難しさ、他者の変化・成長に関わることができる喜びなどを学び合ったことが、私が大学教員として学生たちと関わるときの「在り方」について、大きな影響を及ぼすことになったように思います。
たとえば、私がカウンセリング・トレーニングコースの学びで印象に残っている「在り方」のひとつとして、「人が問題なのではない、問題が問題なのである」という態度があります。大学で授業運営や学生指導に携わっているときに、しばしば、講義を欠席しがちだったり、授業中に寝ていたりなどの学生が気になることがあります。このような学生たちについて、以前の私は、「問題のある学生」と一括りにしたまま、寄り添おうとすること・真摯に耳を傾けようとすることに、難しさを感じていました。カウンセリング・トレーニングコースでの学びは、そのような私を、「学生を問題として捉えてしまうこと」に対してはザワザワした違和感を感じるように、「学びを妨げている問題を学生と共に探りながら授業改善の手がかりを見つけようとすること」に対して心地よさを感じるようにと、大きな変容をもたらしました。
インストラクショナルデザインなどで著名な教育工学の研究者であるロバート・ガニェは、学習で得られる成果について、その質的な違いにもとづいて「言語情報」「知的技能」「認知的方略」「運動技能」「態度」の5種類に分類することを提唱しています。私がカウンセリング・トレーニングコースの学びで成長を実感した「大学教員として学生たちと関わるときの在り方」は、この5種類のうち、「態度」に当てはまるのではと考えています。ガニェによる定義を私なりにまとめてみると、「態度」という学習成果の性質としては、「個人的な選択の機会があるときに、ある事柄や状況を選ぼうとする・避けようとする感覚を身に付けていること」だと思っています。
ガニェの「学習成果の5分類」では、「態度」の形成・変容を促す方略のひとつとして、「モデリング(他者の行動や結果をモデルとして観察することにより、学び手のふるまいに変化が生じること)」というものがあります。2年間に渡るカウンセリング・トレーニングコースのなかで、講師を務められたコウさんやカツキさんをモデルとして、相手に圧を与えない丁寧な言葉の選び方・ほっと安心できるお話のされ方を模倣しようとしてみたり、さまざまな領域で心理支援・対人支援に取り組まれている受講生の皆さんの想いを伺ったことが、私の「態度」を変容させるモチベーションになりました。
もし、学び手との関わり方にモヤモヤを抱えている教育関係の方々にこの note を読んでいただいているようでしたら、理系のふつうの大学教員である私がカウンセリングを学んでみたこのような経験談が、少しでも皆さまの助けになればと願っています。
最後にこの場を借りて、コウさん、カツキさん、ヨウコさん、そして、共に学んだ受講生の皆さまに、感謝の言葉を述べさせていただければと思います。2年間、本当にありがとうございました。
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