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(小休止)私はなぜパンを焼き料理をするのか

(前書き)
 今、「人間ぎらいだった私へ」と名付けた自分史の振り返りが、停滞しています。
 それは、きっと、まだわたしが「人間ぎらい」だから。きっとまだ「人間ぎらい」から抜け出せていない、だからこそ、この自己開示だらけの文章を一般公開することをはばかり、有料記事にすることで門戸を閉じようとしているのです。

 さて、自己分析はさておき、今日は、息抜きに何かエッセイでも書いてみようかと思います。


 最近、わたしは、パンを焼くことと料理をすることに精を出しております。
 どうして人は、パンを焼き料理を作るのか。食べるものは、買えばいくらでもあるこの現代社会で、わざわざ手作りのパンを焼き、料理をすることに、何の意味があるのか。

 自分の食べるものを自分で作る、ということは、人類史を振り返れば、きっと当たり前のことだったと思います。そりゃ、自分で採ってきた木の実や植物、魚や小動物を、安全に食べられるように火や水で煮炊きして、食べるのは当たり前だろう、と。自分で、でなくても、自分の仲間とともに、そうやって料理して、食べ物を食べてきたのでしょう。

 しかし、資本主義の時代がやってきました。料理は、家族や仲間が行うものではなく、社会が行うものになりました。お金を介した人間関係で、全く見知らぬ他人であっても料理をする人を信頼し、食べ物を口に入れるようになりました。そう、具体的には、ファストフード店やファミレス、個人のお店などで、ふつうにメニューを見て注文して食べますよね。それなりに安全な食べ物が食べられることを、当たり前のように信頼して。
 スーパーのお惣菜も、コンビニ弁当も、別に知り合いが作っているわけでもないのに、誰がどんなふうに作っているのかも知らないで、ふつうに食べます。ふつうに。

 でも、そういうのって、なんだか違和感があるのです。食べ物が、ただ、空腹を満たして、一定の栄養素、カロリーを摂取するだけのものだったら、それでいいのかもしれませんが…。なんでしょうね、わたしは、食べ物にそれ以上のことを期待している。

 パンは、昔から好きでした。コンビニやスーパーに売っている袋詰めのものではなく、パン屋さんで売っているパンです。それも、チェーン店のものではなく、個人でやっているパン屋さん…。そういうお店のパン屋さんが、とても好きでした。
 なぜか、というと、パン屋さんのパンには、「魂がこもっている」ように感じたのです。魂、というか、こだわり、というか…。そこには意志が、強い意志が感じられました。「わたしはこういうパンが好きだ」「みんなにも、このパンを食べてほしい」という、そういう、純粋で、まっすぐな気持ちが、パンからは感じられました。それはひとつの芸術でした。パン屋の店頭に並んでいるパンを見渡すと、パン屋さんの趣味が、価値観が、一気にわかってしまうのです。昔ながらの甘いパンが好きな人、デニッシュを愛している人、フランスパンに並々ならぬこだわりがある人、格好いい高加水のパンが好きな人…。
 個人でやっているパン屋さんの中には、「明らかに利益のためのパン」がひとつも見当たりませんでした。利益のため、つまり、あんまり味は美味しくなくても、ジャンクで身体を壊しそうな高カロリーパンでも、とにかく見た目がよくて、美味しそうで、大きくてコスパがよさそうに見えて、売れる、というパンです。やっぱりパンは大きい方が売れるのでしょうか、過発酵気味で、ぼよぼよに膨れ上がってしまったパンも、平気で店頭に並んでいたりするのを見ると、ここのお店はプライドがないのか、とか、利益優先で美学がないのか、と思って、憤りを感じてしまいます。まあ、それでも、買う時は買うんですけどね。

 わたしは、パンから、作り手の美学を感じます。そして、わたしも、パンに対して妙な理想をもっています。憧れ、といいますか。こういうパンが格好良くて、こういうパンは「ださい」、という、独断と偏見に満ち溢れた価値基準を持っております。

 この「ものさし」は、きっと、幼い頃からの「パン経験」から生み出されたものだと思います。それだけ、価値観のこもった、魂のこもった質の良いパンを、小さい頃から食べさせてもらっていた証拠でしょう。

 パンに込められた魂は、なんだか、時間が経ったり、遠くに運ばれたりしてしまうと、少しずつ薄れていってしまうように感じます。パンは「水物」なのです。新鮮さが失われるとともに、味わいはのっぺりとし、輝きは薄れ、作り手の意志が伝わりにくいパンになっていってしまうように感じます。

 出来立てほやほやの、焼きたてのパンが並ぶ店頭、そして、まだほのかに温かみの残るパン…。それが、もっとも素敵なものです。そこには価値が、人間性が、愛が込められています。パンは、魂を込めて作られたパンは、だから、空腹を満たすこと以上に、価値があり、わたしを心の底から喜ばせてくれるのです。

 だから、わたしはパンを焼きたいのです。自分のパンを、自分の魂を込めたパンを、自分で焼いて、自分で食べるのはもちろん、わたしの大切な人にも、それを食べてほしいのです。決して体を害さない、美味しいパンを。

 料理もそうです。他人が作った料理には、なにが込められているのか、わかったものではありません。日頃のストレス? 職場環境への不平不満? 仕事を早く終えて家に帰りたい? そんな思いで作られたものを、決して口の中に入れたくないのです。ただただ、料理への愛、こだわり、価値観、それから、食べる人への思いやり…。そういうものが、込められている料理が、最高なのです。しかし、そういう料理を、社会で探すのは大変です。そんな、食べる人に対する無私の愛情をもちながら、料理をし、お店を経営する人は、そうそう見つかりません。思いやりというものを、全く知らない他人に対して持ち合わせるのは、きっととても大変なことなのだと思います。お客さんに対して、仲間や家族のような親密感、愛情をもって接することは、生半可なことではありません。顔が見えなければ、なおさらそれは難しいことです。

 今は、家族でさえも、思いやりのある食卓をつくることは、難しいかもしれません。それは、作り手が、色々な情報に惑わされて、料理にとって最も大事なことを、見失ってしまいがちだからだと思います。そして、食べ手の側も、作り手の思いを理解する心を欠いているかもしれません。特に、努力をして食事を準備しなくても、コンビニやスーパーで、すぐに空腹が満たせる時代です。手料理より、工場の味の、のっぺりとした味の方が、ある意味、気楽で、なんのしがらみもない、貸し借りのない「安心する」味なのかもしれません。

 食べ物は、貸し借り、人間関係のしがらみのかたまりです。なので、時には、そこに愛を感じ安心を感じる一方で、重い愛情、束縛、圧迫を感じて、母の手料理を拒んだり、拒食症になったり、過食嘔吐したり…。そういうことにもつながるのだと思います。

 パンも料理も、意志、意志の戦いです。自分の魂を、どれだけ磨き上げられるか、価値観を徹底できるか、自分の自我を無くして、どれだけ相手に見返りを求めずに奉仕できるか、そういう修行です。どれだけ自分を他人のように愛せるか、どれだけ他人を自分のように愛せるか、です。そういう修行のような行為なので…わたしは、パン作りと、料理に、熱中しているのです。

 わけがわからない文章だったら、申し訳ありません。しかし、なんだか、わたし自身では、自分の熱中の意味を、上手に言語化できたような気がして、少し満足しています。

 さて、みなさんは、料理になにを込めますか?

                        やまのうえのきのこ

昨日焼いた、カマンベールチーズとレーズンの高加水パン。
焼き上がり。
ライ麦とココアのパン。
焼き上がり。


野菜スープ。
蕎麦と中華きゅうり。
豚肉と昆布の炒め物、アスパラおかか和え、ご飯。

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