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相撲取る野見宿禰の埴輪に垂仁天皇歓喜

やまとみずほの国に生まれて  第ニ十九話

第二十八話「狭穂姫忘れ形見のため垂仁天皇出雲大社建立」は正鵠を射る。鵠川は用水路にしか見えない小川だ。大型水鳥の生息環境にはそぐわない。鵠は白鳥の古語だが、白鳥がいたから鵠ではない。鵠には的の中心の意味。第十二話「倭面土は伊面津(橘港)金印隠しました」の正宮はにあった。鵠は橘湾の最奥に位置する天然の良港であり、海人族の首都にふさわしい。

真相は当麻蹴速が言うことを聞かないから、野見宿禰に討たせたのだろう。しかし、垂仁天皇纒向珠城宮跡の奥には相撲神社が鎮座し、判官贔屓なのか當麻蹶速塚腰折田公園加えて、葛城市相撲館まである。しかし出雲国にはほとんど記録がない。第二十六話「八咫鏡と草薙剣を宮外に祀る崇神天皇」の三輪山の奥にダンノダイラの磐座がある。ここが八雲立つ本当の出雲だ。

麓の十二柱神社に野見宿禰塚の五輪塔があり、狛犬を相撲取りが支えるばかりか、赤く埴輪に適した埴土山が野見宿禰の出身地を裏付ける。垂仁天皇の和風諡号は伊久米伊理毘古伊佐知命だ。伊国の久米氏即ち久米直にむこ伊理したが、崇神天皇の後継者だった同母弟の倭日子は早逝した。当時立太子の制度もなく末子相続だから予定外だ。ただし久米直の奥さんの記録がない。

日本書紀は久米氏を大伴氏の配下のように記すが、古事記では同等の扱いだから大人の事情がある。倭日子を皇太子扱いと考えるのは、近習の生埋めを悲しみ、垂仁天皇が殉死の禁令を出したから。そこを救ったのが埴輪を発明した野見宿禰だ。垂仁天皇皇后の比婆須比売の陵墓に採用されたと記録されるが、これは後裔の土師氏が始祖を神格化するための創作が後世の評価だ。

出身を出雲国と偽る引換条件と勘ぐる。土師氏は菅原氏秋篠氏大江氏と改めるし、野見宿禰の後胤に葛城氏も列する。他に生母一族の名が入るのは第六代孝安天皇の大倭帯日子国押人命。そして同乳同母の兄は天押帯日子。二人のかかさんは第五代孝昭天皇皇后は世襲足媛だ。これはもう「たらし」一族じゃないか。隋書に姓は阿毎、字は多利思北孤と記すは、天帯日子か。

伊佐知を中国史ならば倭佐知と記すだろう。「と」を抜いたら山幸。海幸。

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