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狂言『犬山伏』/犬牽エッセイ・シリーズ《人喰い犬用のドッグトレーニングとは?》

 日本の伝統的なドッグトレーナー犬牽イヌヒキを継承する筆者が、その目線でアレコレを見境なく語るエッセイシリーズ。
 今回は狂言の演目犬山伏イヌヤマブシを取り上げる。

○本編に入る前に、今回登場する単語をおさらい☟
(もう知っているよという方は飛ばしてもらって大丈夫です!)

①犬牽
 徳川幕府に仕えたドッグトレーナー、主に鷹犬タカイヌを担当。始まりは仁徳天皇の時代まで遡るが、江戸時代の終わりと共に伝承が途絶える(後に筆者が復元)。
②鷹犬
 鷹狩の際に獲物となる鶉や雉などを発見しては追い出す/自ら捕らえることを役割とする犬達のこと。
③鷹狩
 猛禽類専門のトレーナーである鷹匠/鷹飼が育てた大鷹や隼そしてハイタカを野に放ち、獲物を捕らえてもらう狩猟方法。
町犬・里犬・村の犬
 現代の地域猫のように、往来を自由に生きていた犬達のこと。江戸時代が終わるまで日本では犬を飼うこと自体が大変稀な行為であり、人々は野外に生きる彼らに食べ物や寝床を提供し触れ合っていた。犬牽は彼らの中から特に人間に対して友好的な個体を鷹犬として迎え入れる。

 さて、皆さんは『犬山伏』という狂言の演目をご存知だろうか?
 似た名前で有名な『柿山伏』という演目があるので間違えやすいが、内容はまったく異なる。
 確かに『犬山伏』にも山伏は登場するが、こちらには題名通りに犬が登場するのだから。
 成立した時代は定かではないが、新作でもないので江戸時代には完成していたと見ていいだろう。
 私がこの演目を知ったのは、大学生の時。当時の私は資料数も多くない犬牽の文化と歴史を穴埋めする為、明治時代以前の日本における犬と日本人の関係性=中でもドッグトレーニング史について研究を行っていた。
 その最中に出会ったのが本作『犬山伏』というわけだ。
 ここで簡単にだが、ストーリーを起承転結でまとめておこう。
 ネタバレを気にする人はいないと思うので、一応最後まで☟

・起
 
出家(僧)が行きつけの茶屋で休憩を取っている。

・承
 そこに山伏がやってきて茶を注文するが、熱いだの温いだのと文句をつける。更には出家の態度が気に入らないといちゃもんをつけて、自分の荷物を宿まで持っていけと言う。

・転
 出家は断るが山伏は横暴な態度を変えず、どうしたものかと思案していると馴染みの茶屋の主人〝験比べ〟(修行で得た力による対決)で決着をつけようと申し出ろと持ちかける。その内容は〝人喰い犬〟を祈りで懐柔した者が勝ちというもので。犬が苦手な出家は断るが、主人は犬の名前がだから名前を呼べば大丈夫と言う。結局出家はこの話に乗り、策略に気がつかない山伏も乗る。

・結
 出家は虎=トラという音が入ったお経を唱え、犬を懐柔することに成功。一方の山伏も祈るが効果はなく、犬は唸り声を上げついには吠え飛びかかる。そして最終的に山伏は、そそくさと茶屋から逃げ出してしまうのだった。

 『犬山伏』について唯一と言っていい考察を行ったのは、今のところ民俗学者である南方熊楠著「虎の字を書いて吠え犬を却く」(『南方熊楠全集5』収録)だけかもしれない。
 彼は本作と類似したネタが『醒睡笑』『東海道名所記』に載っていることを指摘した。
 つまりどちらも内容は「虎という文字を手のひらに書いて荒ぶる犬を懐柔しようとする→犬が盲目,犬が勉強不足で効果がなかった」というもので、更に遡れば元ネタは中国にある呪術=言うことをきかない犬を虎の力を宿した拳で掴みコントロールする行為だとまとめた。
 要は、一種の民間療法的な中国のドッグトレーニングが本演目の元祖というわけだ。
 ちなみにだが、ギリシャ神話のヘラクレスもケルベロスを手懐けるためにライオンの毛皮を纏って腕による絞め技的ドッグトレーニングを行ったとアポロドーロス『ギリシャ神話』に記されている。
 大型ネコ科動物の力を纏いて犬をコントロールしようとする展開は、案外人類史にとってかなり深く古い部分に根があるのかもしれない。

 さて熊楠先生の指摘はもっともだが、私が犬牽として『犬山伏』を観るとまた違った視点が見えてくる。
 『犬山伏』には当時の犬と日本人の向き合い方、基ドッグトレーニングの姿勢がよく表れているように見えて仕方がないのだ。
 つまり本作は☟

犬と向き合うのに大切なのは、高圧的な態度(山伏)か?
はたまた、温和な姿勢(出家)か?

という現代ドッグトレーニングでもよく議題に上がる問題を、しっかり取り扱っているように私には見えた。

 順を追って、解説していこう☟

 まず茶屋の主人が人喰い犬を祈りで懐柔した方が勝ちという勝負を提案した際、出家は犬が苦手だと嫌がる素振りを見せる。
 その理由は、犬は着物にじゃれつくからだと。
 実はこれ、明和から天命にかけて活躍した犬牽・水野伝十郎もまったく同じ発言を伝書鷹犬見立仕込様口傳タカイヌミタテシコミノサマクデンに記している。ちなみに私はこの伝書を基盤にして、現代へと犬牽を復元した。つまり水野伝十郎は、私のお師匠というわけだ。
 そんな犬牽達は犬の意思や本能を重要視し、その権利を守ることを優先していた
 それは犬との向き合い方、そのスタートラインにも及ぶ。明治時代以前の日本の往来に棲んでいた、町犬・里犬・村の犬達。犬牽はその中でも友好的な個体だけを迎え入れていたが、その判別方法は食べ物を見せることで寄って来るか否かだった。人と密接に暮らすという新生活/ストレスに耐えられる個体を探す為にも、常日頃近所の人々から食べ物の提供を受け伸び伸びと育った友好的な犬を迎え入れる/判別することが重要だったのだ。
 そして迎え入れられた犬に、犬牽は尽くす。一日の大半を共に過ごし、夜間も出たがれば共に外出する。行きたい方に共に行き、鷹が獲物を獲っても取り分は犬側にもあった。
 このような向き合い方を日々欠かさず送ることで、犬達は元来の性格を伸ばして更に人間に対して友好的な個体へと成っていく。その証の一つが、着物にじゃれつくことだった。
 さて、出家である。犬が苦手だと言うからには、食べ物など彼らに見せるはずがない。それでも彼に犬が寄って来るのは、普段から争いを好まない物静で温和/他者との友好的な姿勢を保っていたからだろう。
 謂わば、出家は無意識に犬牽にとって重要な犬との向き合い方=物静かで温和で友好的な姿勢/態度をしていたということである。まぁ、本人にその意図はまったくもってないのだろうが。
 
 一方の山伏は登場から横暴で、出家にも茶屋の主人にも高圧的な態度が目立つ。
 私が面白いと思ったのは、実際に舞台を観た際に犬に祈る時の声も数珠を鳴らす音も大きかったことだ。これでは、どんな犬でも警戒してしまうだろう。
 そもそも大前提として、本舞台に登場する人喰い犬は人喰いなどでは決してないのだ。
 まず第一に、人を喰らうような犬が茶屋の側で暮らしていたらまず商売など出来るはずがないではないか。主人としては引っ越すか、何とかして排除しようという考えにも至るはずだ。しかしどちらも、実行には移されてない。
 第二に当時の犬と日本人の関係を考えれば茶屋の主人は飼主ではなく、ただ犬の生活圏内に店を構える一ご近所さんに過ぎないだろう。にも関わらず出家や山伏の前に犬を連れ出せているのは、常日頃から食べ物や寝床を提供し友好関係を築いている/築けているからではないだろうか。

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 こちらは『狂言全集』の挿絵として掲載されている『犬山伏』の場面を抜粋模写したもの☝おおよそ犬には見えないと思うが、しゃがんでいるのが人喰い犬役の役者だ。
 挿絵には引綱=リードが茶屋の主人役の役者に握られているが、私が拝見した舞台ではなかったように思う。それでも二人に対面させられ、更に会ったことがない出家でも名前を呼べば大丈夫という時点で人喰いというレッテルは完全に消滅していると言っていいだろう。
 となると本演目の人喰い犬は単に神経質で、対応を間違えれば時に咬む犬のことなのかもれしない。
 「鷹犬見立」にも記されているが、神経質な犬は仔犬時代に人から追い立てられたり暴力を受けた結果とされている。そんな犬をコントロールしようと大きな音を高圧的に出しても、当然唸り吠え最終的には飛びかかるという行動を誘発させるだけだ。
 つまり『犬山伏』のラストは、犬側のシグナルに耳を貸さない山伏/高圧的な態度の敗北で幕を閉じたことを示しているのではないだろうか。

 犬にとって唸るは第一段階の威嚇であり、それで相手が去らなければ吠えるという第二段階、そして最後の直接攻撃へと移り変るからだ。
 相手のシグナルをしっかり見ずに、ただ横暴に人間中心的な考えで声や音を立てるだけでは犬と向き合うことは出来ない。
 大切なのは高圧的でコントロールしてやろうという態度ではなく、むしろ冷静に落ち着いた姿勢で犬に寄り添うこと(名前を呼ぶという行為が本演目ではそれの比喩)というわけだ。
 中国では犬を力によってコントロールする呪術的なドッグトレーニング方法が、日本では犬に寄り添う物語に変化した可能性・・・犬牽にも見られる犬と日本人の関係性、その深さと強さを改めて感じた考察だった。
 そして人間以外の影響を強く受ける、現代の人間社会。
 あの山伏のように、私達は他者=人間以外の存在に対して高圧的に生き過ぎてはいないだろうか?
 まくしたて、コントロールしてやろうと横暴に思い上がってはいないだろうか?
 もう一度、先人達の向き合い方を学ぶ時が来ているのかもしれない。

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 さて最後に、私は本作を国立能楽堂は令和四年一月一四日の【狂言の会】和泉流の演目として拝見した☝
 なので今回のnoteで取り上げた物語展開や所作や小道具などは、上記流派の物を参考にしている。
 他の流派でも上演されることがあるようなので、是非機会があれば観てみたいと強く思う次第だ。
 実は『犬山伏』を大学時代に知ってからというもの観劇の機会を窺っていたのだが、上演機会も多くなくあっても遠かったり用事が入っていてダメだったりとすれ違いが多々続いてきた。
 だが二〇二二年、ついに新年早々拝見する機会を得たのだ!年末偶然小田急線の駅でポスターを見かけたのだが、これこそ運命というやつだろう・・・。

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 上演場所は渋谷区は千駄ヶ谷にある国立能楽堂☝ただ渋谷と言っても場所としては新宿駅にほど近く、領内は凛とした雰囲気が漂っている。
 恥ずかしながら初めての国立能楽堂に一人はしゃいでしまったが(外観を撮るのも忘れてしまったので上記画像はWikipediaから拝借)とにかくとにかく、大変良い劇場だった。
 なんとすべての席には字幕画面が付いていて、ストーリーの展開や難しい単語などをしっかり解説してくれるので初めて来た人にも大変優しい設計になっている。
 その為ストーリーをまったく知らない状態で当日連続上演された『連歌毘沙門』と『髭櫓』も面白く拝見出来、改めて狂言という文化の奥深さを知れた一日となった。 

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 こちらはパンフレット☝その月の基本的な公演/演目すべてのストーリーや解説が載っているので、大変お得感がある。
 あと『犬山伏』の詳しい内容について記されている本がそもそもに少ないので、今後も貴重な資料として重宝しそうだ。 

 皆さんも是非、狂言に足を運んでみてほしい。
 自分たちのルーツ、更には人間とは何か?どう生きるべきか?を知り考えるきっかけとなる体験が待っているはずだ。
 舞台上で演じられるのはずっとずっとずっと昔の物語ではない。
 今の、そして未来の私達の物語なのだから。

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