見出し画像

#48 京都大学を中退した医学部生が世界一周してみた

旅の第二交差点ーネパール⑤

2009年1月のある日、ぼくの人生は大きく動いた。

2006年から京都に住み始めて以来、自分を罵り続けて3年が経ったある日のことだった。


その日は、これといった理由もなく、友達と京都東山の川沿いを歩いていた。

天気は大層な曇り、月は満月である。


なぜその日、その時機だったのかは分からないのだが、とにかくぼくはその友達に告げていた。


少し前から頭には浮かんでいたが、当時の自分から考えればほとんど実現不可能で、砂粒のように小さな将来の希望を、彼に告げていた。




「おれは、医学部に行って、医者になりたい」




 そして、そう言った瞬間に、身を構えた。


馬鹿げている、と罵倒されるのに備え、目を合わさず、身を固くして彼の言葉を待っていた。


 3年間怠け続けた男に何ができるというのだ、という風に否定されることが一番怖いことであるはずなのに、なぜか先に口を動かし、そして怯えながら返答を待っていたのだ。


 すると意外にも彼は、やれよ、とぼくの破天荒な計画に暖かく賛同してくれた。


 ―こんなぼくにでも、目指すだけの権利はあるのだな


 そんな思いからか、体に入った力を一気に緩め、安心と満足感の混じった羊水に身を沈めたような、ぼんやりとした気分に包まれていくのがわかった。




そして、その時、曇っていたはずの空が澄み渡り、満月がその大きな体躯をぼくたちに曝け出したのだった。





しかし、実を言えば、そんなやり取りを終えてもなお、依然として正答を得ていなかったのは、「なぜ医者になりたいのか」という根本的な疑問だった。


往々にして、漠然とした欲求が生まれると、すぐに行動を起こしてしまうような人生を送っていたぼくだったが、この時ばかりは深く考えた。


―最初は、思い付きだったのかもしれない
―でも、なんで、思い付いたのだろう


こう辿って行くと、答えに到達出来るような気がしていた。


とにかく、当時のぼくは本当に自堕落を体現するような生活を送りながらも、それを変えることが出来ず、自己嫌悪の念は異常なまでに強かったと言える。


自分という人間に価値なんて無いだろう、本気でそう考えたこともあった。
しかしながら、そう思う一方で、そんな状況だからこそ、人からの好意というものには、とても敏感になっていた。


どんなに些細なことでも、ぼくが人の役に立てば、その人は「ありがとう」と言ってくれる時があった。


もちろん、そんな行為と好意の一体一対応ばかりではないのだが、それでも他者の「ありがとう」という感情に対して、自分の価値が生まれてくるような気がしたのだ。


そんな瞬間が、唯一たまらなく嬉しくなる時だった。


そして、さらに考えた。


どうすれば、その喜びを沢山集められるのか。


その時、最初に浮かんできたのが「医者」という職業だった。


もちろん、あらゆる職業で、各々の役割があり、それぞれ人の役に立っていることは言うまでもないのだが、とにかく、この時ぼくの脳内に突然割り込んできたのは、「医学部に入る」ということだった。


そして、より深く、より深く思考を掘り下げてゆくと、そこに両親の顔が浮かび上がってきた。


―そうか、医者になりたいのには、親の影響があったのだ


思えば高校生当時、親はぼくが医学部に進学することを望んでいたのだが、実際にそうなることはなかった。


10代で将来の職業が決まってしまうことに恐怖を覚えるのと同時に、また医者になるという覚悟も、その時出来るものではなかったのだ。


結果的に、反抗・反発という形で意思表示をし、親元を離れて京都大学に進学してしまった。


そして、親の意に反して下宿している京都の地で、ぼくはなにをしていたのだろうか。


考えてみれば、そこには後ろめたさと懺悔の気持ちだけが残っていた。


体が震えだしてしまう程の罪悪感に、身悶えするばかりだったが、もし医者になることが出来れば、この3年間の悪行も少しは成仏させられるのではないか、といった建前的な考えが生まれていた。


結局、社会に対する献身の感情、そして親に対する弁償の感情、どちらが主体なのかまでは判断が付き兼ねたが、とにかくそれらの気持ちから、医学部に再入学することを決めたのだった。

続く

第1話はこちら
https://note.mu/yamaikun/n/n8157184c5dc1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?