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フリーになった私の話

私にはこれまで大きな看板がありました。名刺には私が勤めていた会社のかわいいキャラクターのロゴマークが描かれていました。私の住んでいる地域では誰もが知っている会社です。その看板の下で、私は43年間仕事を続けてきました

大きなものに守られていたなと思います。私は地元のマスコミで働いていました。アナウンサーとしての仕事が長かったので多くの人に自分の名前を知っていただいていたと思います

父の愛情あふれる愛に包まれてその傘の中にいた幼い頃のように、私は成人して会社と言う大きな傘の中で恵まれて仕事をしていたと思います。

仕事を始めた頃は、テレビ業界が伸び盛りの時代でした。私は企業と時代に守られて生きてきたのです。

そして今、テレビからネットにメディアが移りつつある中で私は、第二の人生のスタートを切る事になりました

65歳で定年と言う大きな節目を迎えて、看板が無くなった私はどう生きていこうかと考えたのです

自分の好きな事を趣味として極める日々を送るのも一つの選択だと思いました。しかし、私は仕事を通じて得た様々な経験や知識を生かして、今の自分が出来ることをやり続けたいと思ったのです。43年間の仕事人生の蓄積を無駄にしないで、打ち込む何かが欲しかったのです。

定年してからも私の中ではずっと創作のマグマが燃え続けていました。エネルギーを燃焼させる場所が必要だったのです。

定年の半年前から準備を始め、自分の居場所をどのように作るのかを考えました。どこかのプロダクションに所属するのも一つだけれど、自分自身でかじ取りをしたかったので、たった一人の会社を作ろうと思いました。

会社の名前を何にしようか、そこからがスタートです。「ワイワイ楽しんで仕事をしよう」と自分の名前の頭文字をとって「オフィスY&Yワイワイ」にする事にしました

そして私には何ができるのか、自分自身に問い直し、自分の可能性を探ったのです。
それを元に、PRのためのパンフレットも作成しました。
プロフィールやポリシー、そして出来る仕事を列記して、4つ折りにできるコンパクトなチラシを作ったのです。

自分が発想し、制作し、発信する。その作業は改めて自分自身を知る機会にもなりました。

私は何がしたいのか、私には何ができるのか。そして周囲は私に何を求めているのか、大いに悩み考え、自分探しをしたような気がします

そして自分の能力を必要とする場所を探すために、営業活動を始めようとした矢先に、コロナ禍とバッティングし、高齢の母の介助もあって、今は思うような活動が出来ていません。しかし、これから少しずつ扉が開かれていくと思います

リタイヤしてから、何もアクションを起こさないまま、沈んだ毎日を送っていたならば今の私は無いと思います。
私は次に大きく羽ばたくためのエネルギーを蓄えるようと、毎日noteの投稿で自分磨きをしています

文章投稿や音声配信を欠かさないことで爪を研いでいるのです。

私が出来るのは言葉を使って人を笑顔にすることです。ナレーションや司会、講演、セミナー講師、コーディネイターなどを主な仕事として、言葉を大切にトライしていこうと思っています

私は第二の人生で、自分が生き生きと輝くために、これからもこの仕事を続けていこうとアナウンサーとしてのフリー活動をスタートさせました

【毎日がバトル:山田家の女たち】

《好きな事やっとおみ自分で決めたんじゃけん》


「始めたことは頑張るのみよね、あんた定年したらゆっくりすると思とった、何でもしたいことするんじゃろとね、でも仕事をすることがあんたがしたいことじゃったんじゃねー

「私の決断はどうじゃろか」

「人それぞれよ、ゆっくりしたい人も居るし、あんたみたいな人も居る、まあ、好きな事やっとおみ、自分が決めたことなんじゃけん

母は少し呆れながら、私を応援してくれているようです。私は自分の決断は間違っていなかったと思います。これからどう進むかです


一徹や昭和女の年始め

私たちは親子して仕事や趣味、考え方に一途な所があります。
まっすぐなのです。母は昭和一桁、私は昭和29年生まれ、年の差はありますがお互い昭和の女です。母はそんな親子を詠みました。
私たちは今、二人三脚でブログを発信する事を日常の一つの柱にして、仕事をするように楽しんで日々過ごしています

最後までお読みいただいてありがとうございました。たくさんある記事の中から、私たち親子の「やまだのよもだブログ」にたどり着いてご覧いただき心よりお礼申し上げます。この記事が気に入っていただけたらスキを押していただけると励みになります。

私のアルバムの中の写真から

また明日お会いしましょう。💗

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