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家族をつないだ白磁の皿

◇◇ショートショートストーリー

5月のある日、健二がポストを覗くと、手漉き和紙の上品な封筒が届いていました。送り主を見て驚きました。10年以上音信不通だった弟からでした。

健二は弟を東京に送り出した日のことを思い出しました。


旅立つ日に健二は弟に、こう言いました。「俺はこの工房が好きよ、爺さんが作ったこの工房を親父の代で終わらせるわけにはいかんけんなー、お前は好きなことやったらええわい、お前なりに頑張れや」


二人が生まれたのは焼き物で有名な愛媛県伊予郡砥部町です。
父は、砥部焼の窯元の二代目でした。陶工の仕事が何より好きな父は兄弟で窯を継いで欲しいと思っていました。

砥部の窯元たちは悩んでいました。焼き物離れです。薄くてモダンな器を好む人たちが増え、丈夫で重い砥部焼は売れ行きが低調だったのです。


弟は父親の頑張る姿を見ていて、しんどさが分かるだけに、後を継ごうとは思いませんでした。そして父とは正反対のインターネットの世界に興味を持ち、専門学校に通っていました。

父が望む道を選んだ長男の健二と思い通りの道を進もうとする次男の正司。二人には喧嘩が絶えませんでした。

お父さんは長男に技術を伝承しなければと丁寧に教えていました。健二も伝統に新しい風を吹き込まなければと一生懸命でした。
弟は二人を見ていていつも疎外感を味わっていました。


しかしモノづくりのセンスは正司の方が秀でていたかもしれません。高校の美術科に通っていた頃、全国の焼き物コンクールでグランプリを取ったことがありました。


専門学校を卒業した正司は父や兄と十分に話し合うことも無く、東京の企業に就職しました。

「俺は俺なりに、絶対成功してやるけん、砥部焼とはお別れじゃわい」と成功するまで故郷には帰らないと決めていた正司。
それから10年、やっと自分の事務所を持つことができたのです。


手紙にはこう書かれていました。

「兄さん、長い間ごめんな、俺、今度、東京で事務所を構えることになったんよ、それでな、兄貴、俺の門出にお祝いに配る皿を作ってくれんかな、デザインは兄貴に任せるけん、よろしく頼むわ、記念品は砥部焼にしたいんよ」

健二は早速デザインを考え始めました。

弟との思い出を振り返りながら心を込めて制作しました。1か月後、焼きあがったサンプルを弟に送りました。


正司はその皿の見て、兄の優しさに目頭が熱くなりました。皿のデザインは正司が高校生の時に賞をもらった作品に似ていたのです。

「兄貴、いいのに仕上げてくれたな―、俺のデザインがブラッシュアップされとる、やっはり兄貴は凄いわい」

そして裏には、懐かしい窯の印と「感謝」の二文字がありました。
それは父の筆跡でした。白磁に藍の色で小さく描かれた感謝の文字が涙で滲みました。



【毎日がバトル:山田家の女たち】

《砥部焼は好きじゃけん気に入った》


リビングでマイカップを使ってコーヒータイムのばあばとの会話です。

「私はねー、感動したよー」

「どの辺に・・・」


「いろいろあるけど、跡継ぎ問題はどこもあるよねー、私は砥部焼が、好きじゃけん余計に、気に入ったよ、砥部焼は、長い間使っても飽きんわい、このコーヒーカップは私が絵付けしたけん、愛着もひとしおよ」


私も砥部焼が好きじゃけん、ショートショートで書いたんよ


「あんた、本当に色々気になるもん書いたらええよ、どんどんお書きや」


我が家では、毎日の食事に砥部焼を使っています。砥部焼も伝統的な白磁に藍の絵付けがしてあるものから、新しい感性で制作したモダンなものまで様々です。これをきっかけに愛媛県の砥部焼を多くの皆さんが知っていただいたら本当にうれしいです。


【ばあばの俳句】


ステイホーム心にゆとり更衣(ころもがえ)


自宅からなかなか外に出られないと言う、憂うつな日々も、考えを変えて、ゆとりがあるのだからこの時間を有効活用しようと、衣替えをして楽しんでいる様子を詠みました。




すべては発想の転換ですよね。洋服の整理をしながらコーディネイトを考えて、ステイホームを楽しむゆとり持つこと、大切だと思いませんか。



「ばあばの俳句」「毎日がバトル:山田家の女たち」と20時前後には「フリートークでこんばんは」も音声配信しています。お聞きいただければとても嬉しいです。

たくさんの記事の中から、「やまだのよもだブログ」にたどり着いてご覧いただきありがとうございます。


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私のアルバムの中の写真から

また明日お会いしましょう。💗

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