【★note名作記事】まとめ〈1〉人形に関する記事を紹介しました
こんにちは、山田星彦です。
この記事は、私が運営している「★note名作記事」というマガジンの近況についてまとめ、みなさまにご報告するものです。
(注)
・この記事では、紹介した作品の内容についての記述を含んでいます。元の作品を読んだ上で、この記事を読んでいただけると幸いです。
・作品について感想や考察を書いていますが、それは私の個人的見解であり、作者さまの意図と必ずしも一致するものではありません。あくまで、鑑賞する上での参考として取り扱いください。また、作者さまのご意向にそぐわない内容などございましたら、すぐに対処しますので、その旨ご報告ください。
・お名前や記事名の一部を省略して表記した箇所がございます。誤表示を避けたり、見やすさを重視したものとご理解ください。
紹介した作品
今回は3人の方の作品を紹介させていただきました。
①あまざき葉さん[掌編小説 身代わり]
この活動で最初にご紹介させていただいたのは、あまざき葉さんの[掌編小説 身代わり]という記事です。
葉さんは他にもたくさん不思議な小説を書かれていますが、僕はこの小説がいちばん好きです。
僕自身も人形に興味があり、可愛らしく、でも時に不気味なその独特の存在感に惹かれるのですが、この小説では、そんな人形が持つ魔力を余すことなく描いておられます。
この作品には、人形作家の男が登場します。その男は、妻を自分の人形の一体のように扱っているのですが、みなさんはこんな男をどう思いますか?
「悪い夫だ」「妻がかわいそう」
と思われた方が多いと思いますが、僕はこの夫婦の関係を「たまらなくロマンチックだ」と思いました。
なにか、生身の人間同士の夫婦間には芽生えることのない愛情や美しさが、このふたりの間にはあるように感じられたのです。(もっとも、作中では破綻しているのですが…)
現実の夫婦も、どこかでお互いを自分の人形であって欲しいと思っているのではないでしょうか。すくなくとも、たまには綺麗に着飾って、黙って側にいて欲しいと思うことがあるでしょう。ですが、相手も生きているので、なかなか思い通りには動いてくれません。もしかしたら、人間が人形に惹かれるのは、そんな叶わぬ所有欲を満たしてくれるからかもしれませんし、案外、夫婦円満の秘訣は、時々相手の人形になることなのかもしれませんね。
とまあ、僕の人形考察はこのくらいで底が見えてしまうほど浅いのですが、こんなものは、この小説のほんの触りの部分について語ったに過ぎません。
この小説では、そこから物語が展開して、驚きの結末を迎えます。
この記事の冒頭で、「ネタバレを含むから、まずは作品を読んでください」と書きましたが、絶対に作品を読まずにこれを読んでいる人がいるので、その結末はここには書きません。それくらい、読んで欲しいんです。
なので、オチをバラさないよう僕の感想だけを書くと、はじめて結末を読んだとき、僕は「やられた!」と感じました。「タイトル、そういうことか~!」と唸りました。ほんとに、一本取られたという気持ちで、むしろ清々しさすら感じました。
そして、この結末は僕にとってはハッピーエンドでした。僕は人形が好きだから、人形に肩入れしてそう感じたわけです。
やっぱり人形には、人間の持っていない魅力がありますね。
②大西けいさん[「ぬいぐるみ」と「人形」]
次にオススメしたのが、大西けいさんの[「ぬいぐるみ」と「人形」]です。
大西さんはこの記事で、人形作家というお立場から「ぬいぐるみ」と「人形」の違いについてお話されています。
「人形は持ち主から自立して存在していて、ぬいぐるみは持ち主に愛されることを求めている」と僕は解釈したのですが、たしかに言われてみるとその通りだと思います。
日本人形も西洋人形も、人に触られるという前提で作られていません。飾って眺める対象です。だから、繊細で壊れやすい部分があったりするし、とうぜん、見る人との間に一定の距離があるから、「触れてはならないもの」という意識を人間は抱くのでしょう。
ぬいぐるみは逆に触られることを前提に作られていて、汚れたら洗えるし、抱き心地なんかも意識して作られるものと思います。
この扱われ方の違いが、人形とぬいぐるみの自立性の違いになっているというのは、たいへん納得いたしました。
ただ、大西さんはこの枠組みの中でのみ、作品を作られているわけではありません。
記事によると、ぬいぐるみの素材を用いつつ、人間からあるていど自立した作品作りに取り組まれているそうです。素材はぬいぐるみでも、我々が受ける印象は人形に近いということです。
たしかに、紹介されている作品を見ると、「可愛くて思わず抱き締めたくなる」というより、「森の中で見たことのない生き物を見つけた」というような、不思議な佇まいをしています。悪い意味でなく、一瞬、近寄り難い印象を受けました。
この「ぬいぐるみのようで触れない」というものを見て、僕はふと、逆のパターンがあったことを思い出しました。
それは、江戸川乱歩の『人でなしの恋』という小説です。
内容について記述しますが、この作品は、「夫が夜な夜な一人で蔵に入って行くので、女と逢っているに違いないと思った妻がこっそり忍び込んでみると、そこには夫に撫で続けられて、やけに肌が滑らかに光る、一体の日本人形があった」という物語です。
夫は人形を愛人として、蔵で夜な夜な邂逅し、その肌を優しく撫でていたわけですが、これは「ぬいぐるみのようで触れない」のまさに逆で、「人形なのに触ってる」状態です。
そう言われれば、僕はこの小説を読んだ時、「人形を撫でる」という男の行為に、ものすごい背徳感を感じました。やはり僕も心のどこかで、「人形は触ってはならない」という意識があったのでしょう。
しかし、同時に僕は、人形を撫でる男を想像して、自分まで恍惚とした気持ちになりました。人形の肌の滑らかさや、ぽってりとした重みが自分の手にも伝わってくるようでしたし、ましてそれが禁じられた行為となると、その快感は何倍にも膨れ上がって感じられました。
人形の魅力を伝える名作ですので、ぜひ合わせてお読みください。
③五歳児おともねこさん[私のひとり遊びとお人形]
最後に紹介したのが、五歳児おともねこさんの[私のひとり遊びとお人形]です。
おともねこさんは数ヶ月更新されておらず、もうnoteをやめてしまわれたのかもしれません。なので、僕のこの記事のことに気付かれてない可能性もあるので、作品の内容は極力書かず、僕の感想を書かせていただきます。
僕がおともねこさんの記事を読んで思ったのは、「人形は感情を出し入れ出来る器である」というこです。
おともねこさんは、人形に自分の感情の一部を託して会話をさせることがあるそうなのですが、これはまさに、人形が「感情を持たない空っぽの器」だからできることです。明らかに感情を持っている人間や動物に対しては、そのようなことはできませんよね?もともと相手が持っている感情と、託そうとする自分の感情がぶつかってしまいます。
このように、人形は空っぽの器となる一方で、人形にはそれぞれの人格があり、当然、その時その時の感情が人形には宿っていると、我々は感じることもあります。というより、ほとんどの時は、そう感じているでしょう。
つまり人形は、時には空っぽの器として存在し、時には一個の人格として存在するわけです。
これは非常におもしろい観点だと思います。
そしてこれは、物語の登場人物にも同じことが言える気がします。当然、どのキャラクターにも人格や感情があって、それが読者に伝わって共感を呼ぶわけですが、それだけでは強く自己投影できているとはいえません。
「きっと今、このキャラはこんな想いに違いない」とか、「自分なら、この場面、絶対にこうする」というふうに、そのキャラクターに成り変わって、自分が物語の登場人物になったように感じることがあります。自己投影ができている時です。
これは、キャラクターがその心の中に、読者の感情を受け入れる余白を作っているから起きる現象です。まさに、空っぽの器として機能していると言えますね。
人形もキャラクターも、人間の都合に合わせて、うまく感情の有無をコントロールしてくれる存在と言えそうです。これもまた、人形が持つ、人間には真似のできない魅力なのでしょう。
おわりに
今回は人形をテーマにした3つの記事をオススメさせていただきました。
蛇足になると思い、本来、サラッと紹介する予定だったこの記事が、とんでもなく長大なものになってしまいました。ですがそれも、3つの記事がどれも、読めば読むほど含蓄に富んでいて、おもしろかったからこそだと思っています。
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そして、僕も人形に興味を抱いているので、つい盛り上がってしまいましたね。
僕が好きな人形は、「ハンス・ベルメール」の作品です。危険でエロチックな香りが充満しています。
そして、エリーちゃん!
彼女には、立派な人形にはない哀愁があります。彼女をモデルにしたポートレートです。よければ、ご覧ください。
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最後になりましたが、紹介させていただきました作家さま、そして、読んでくださったみなさま、本当にありがとうございました。
この活動をはじめて間もなく、まだまだ手探り状態なのですが、これからも素晴らしい記事をオススメしていきます。
どうぞ、お付き合いください!
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【コメント歓迎】
ぜひ、あなたの感想もお聞かせください。山田星彦への質問・要望などもお待ちしています。
また、
あなたにとって、人形はどんな存在ですか?
人形に関する作品で好きなものはありますか?
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