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掌編小説 身代わり

「ねえ、一緒にこの家を出ましょう。もう、見ていられないわ」

ひとりきりのはずの部屋で、どこかから声がした。振り返ると、人形がこちらを見つめている。柔らかに弧を描く眉の下、ガラスの瞳はいまにも瞬きしそうだ。白磁のふっくらした頬を、豊かに波打つ栗色の髪がふちどっている。たっぷりとギャザーの入った淡い青色のドレスを着て、アンティークのチェストの上に腰かけている。

人形は、人形作家の夫が初めてつくったものだった。「初恋の相手のようなものだ」と言って、それだけは手もとに置いていた。

夫はその容姿同様、線の細い人だった。結婚したての頃は、きめ細やかな気配りや仕事ぶりに驚いたものだが、それは感じやすさの裏返しでもあった。夫は感情をコントロールするのが苦手なようで、こちらが予想もつかないことに苛立っては、荒い言動を取るようになっていた。

わたしが夫に意見すると、必ずつらく当たられた。言葉も時機も選んでなるべく刺激しないように心がけていたが、何かがさわるのだろう。初めは口だけだったが、そのうち手や足が出るようになった。このときもひどく殴られたあとで、腕の腫れを氷で冷やしていたところだった。

わたしは動く人形に徹していればよかったのかもしれない。実際、彼の展示会に同行したときに「先生がつくられたお人形そのもの」と言われることも多かった。そんなときはだいたい、夫はまんざらでもないといった表情を浮かべる。わたしは彼の世界観の一部であることが求められ、はみ出すことも、こわすことも許されてはいなかった。

「『一緒にこの家を出ましょう』だなんて、どうしてあなたがそんなことを?」
「もう彼は、昔の彼じゃないの」

人形は、かつて夫が自身に向けていた情熱を覚えていた。夫が仕事に没頭するのは、他の人形に気持ちを注いでいるということでもある。人形にはそれが耐え難かった。だが、さびしさを訴えようにも、夫がこの人形に触れることは今ではめったになかった。

「あのひとと話してみる?」
「今の彼にはどんな言葉も届かない。あなたならわかるでしょう?」

この人形は、わたしがこの家に来てからずっと手入れしてきたのだ。日々、美しく見えるように髪をとき、季節に応じて衣装を替えて。どこか友人のように思う気持ちもあったし、ひとりの男性を共有する女どうしという複雑な連帯感もあった。わたし自身を重ねていた部分もあるかもしれない。こうして話が通じるようになったのも当然のように感じられた。

ちょうど夫は顧客との打合せに行って留守だった。帰ってくるまで数時間はある。出るなら今だ。極論に走らなくたっていい。まずは距離を置いて、落ち着いてこれからのことを考えよう。わたしは身のまわり品をボストンバッグにまとめて肩にかけると、人形を赤ん坊のように慎重に抱き、足早に門を出た。

息を切らしながら駅前の大通りまでやってきたとき、突然人形が鉛のように重くなった。わたしは思わずふらつき、車道に転倒した。人形がわたしの腕から飛び出す。トラックがもうそこまで来ていた。

「だめよ、待って」

とっさに人形をかばおうと体を伸ばす。大きなブレーキ音のあと、衝撃が走った。まわりで悲鳴が上がる。指先を動かしても空気が触れるばかりだ。遠のく意識で、人形がどうなったかということばかり気になっていた。

目が覚めると、四角く切り取られた青空があった。聞き慣れた声がする。

「ごめんなさい。わたしのせいで、こんなことに」
「いいや、謝るべきはぼくのほうだ。きみが助かってくれてよかった。目が覚めた」
「あなたの大切なお人形だったのに」
「きみの身代わりになってくれたんだ。ただ手を合わせるばかりだ。美しい姿もかけがえのない思い出も、ずっと胸のなかにある。じゅうぶんな修復はできなかったが、せめて彼女が安らかに眠れるように供養してもらおう」

四角い青空のなかに、頭がふたつあらわれる。逆光で影になっていたが、目が慣れてみれば、それは夫と〈わたし〉だった。

どうして。わたしはここにいるのに。声が出ない。腕も脚も思うようにならない。ああ、つながってすらいない箇所もあるのだ。ばらばらの体が、ひとつの棺に納められただけで。

「ありがとう。本当に、ありがとう」

青空の面積が次第に小さくなっていく。〈わたし〉が鼻をすすりあげ、最後に薄く笑った。




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山田星彦さまの世界観や作品間の響きあいをともに味わっていただけるとうれしいです。



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