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「ハムレット」と「こころ」 ー近代文学の始まりにおける"宿命"ー

 福田恆存に「人間、この劇的なるもの」という評論がある。これは福田の文章の中で最も優れているものではないかと思うのだが、その中で福田は、近代文学というものはその始まりに位置する、シェイクスピア「ハムレット」、セルバンテス「ドン・キホーテ」の二作で、既にその可能性は徹底的に探索されつくされていた、と言っている。
 
 何故「ハムレット」と「ドン・キホーテ」なのか。それは特に、作品内部に批評性が盛り込まれて、しかも作品全体が見事な統一を保った物語性があるから、という事になるだろう。「ハムレット」は「演劇の演劇」であり、「ドン・キホーテ」は「小説の小説」である。具体的には、それぞれの主人公、ハムレットの批評性、ドン・キホーテの批評性というのが問題となっているわけだ。

 これに関して説明していると長くなるので、これ以上は説明しない。ただ、「小説とは面白い物語を作る事」と安易に考えている人には、近代文学とはその発生からして複雑な構造を有していた、と一言言っておきたい。単に面白い物語を作る、という平板な思考を越えたところから近代文学は発していたのであり、「小説=物語」というのはあまりに安易であると思う。
 
 さて、福田は「ハムレット」と「ドン・キホーテ」を例に、どんな事を言おうとしていただろうか。特に福田が注目しているのはシェイクスピアの「ハムレット」だ。
 
 ハムレットは復讐譚である。ハムレットという王子が父の復讐を果たすために義理の父を殺す、という物語である。しかし同時にハムレットは「最初の近代人」であり、苦悩し、懊悩する存在である。彼は苦悩し、懊悩し、自己の内面に耽溺して、復讐という運命を忘れたい男でもある。
 
 「ハムレット」という作品は、分裂した作品とも見る事ができる。ハムレット本人の内面と、ハムレットの外面的行動、つまり復讐という行為が、分裂しているのである。この分裂は端的に、作品内のセリフ
 
 「To be, or not to be」
 
 というセリフに現れている。復讐を行うか、行わないか、どちらにするか迷っているわけだが、これは行為と思案というよりももっと深い歴史的な意味がある。福田はそうした読み方をしている。
 
 私は「人間、この劇的なるもの」を読みながら、シェイクスピアはその作品において「宿命」というものを描いていたのだな、と痛感した。ここにおいて宿命とは、人間がその人生行路を決められて、実際にそうなるという、"人生の必然"を意味している。
 
 人生の必然はハムレットにおいては言うまでもなく、復讐という行為である。ハムレットが高貴な生まれである事、彼が亡霊を見た事、それら外的な要因によってハムレットの運命は決定される。これに抗う事はできない。だが、ハムレットは同時に、自らの意志で運命に逆らおうとする近代人でもある。ハムレットは分裂する。
 
 先に、「ハムレット」という作品は分裂していると私は書いたが、正確には作品そのものは分裂していない。作品は分裂しているように解釈もできるが、実際には統合されている。どう統合されているのかと言うと、ゲーテが指摘したように、シェイクスピア劇においては自由は必然に必ず敗北する。そのような形で、作品は統一されている。
 
 ハムレットで言えば、ハムレットは結局は復讐を「行う」のである。くよくよ悩むが、彼は最後に復讐を行う。そしてその道筋で死ぬわけだが、これが悲劇であるのは、ハムレットは無意識下で、自らの死を意識し、それを望みさえしている彼が存在するからだ。このあたりは福田が強調して書いている。
 
 ハムレット本人は二重に分裂しているが、作品そのものは分裂していない。作品は統一されている。だが、近ー現代人からすればこの統一が逆に"謎"になるのである。これが"謎"になるというのが、今、我々が生きている観念的な立ち位置を示しているのだが、通常、人は自分たちの思考の常識を疑わない。そして、かえってシェイクスピアの劇の作り方の方が謎に思えてくるのである。
 
 ※
 夏目漱石を例に出そう。
 
 福田はそう言っていないが、私は、夏目漱石というのは、西欧におけるセルバンテス、シェイクスピアに近いものがあると思う。要するに、日本近代文学の可能性は夏目漱石の作品によって既に徹底的に汲み尽くされていたのではないかという事だ。
 
 漱石の作品以降、漱石以上の優れた作品は日本には出ていない。そしてこれは、漱石の作品が、日本の文学作品としてはもっとも「悲劇」に近づいたから、というの私の見立てだ。
 
 有名な「こころ」という作品を例に取ろう。主人公の「先生」は、若い頃、親友が好きだった女を取ってしまって結婚して、その罪悪感を心に抱えている。先生は、好きだった女と結婚して、外面的には幸福な夫婦として暮らしているが、明治天皇の崩御、乃木希典の自死によって彼が抱えていた罪悪感が触発され、先生は自死する。そういうストーリーだ。
 
 漱石はシェイクスピアほどの作家ではないかもしれないが、漱石の作品においては、漱石なりのやり方で、つまりは近代日本(明治)なりのやり方で、自由意志と、意志を制御し、意志を破壊する必然との統合が作品において成し遂げられている。それを次に考えてみよう。
 
 「こころ」における必然とは何か。それは先生が自死しなければならない、という倫理である。これは江藤淳が指摘していたと思うが、おそらくは封建社会の延長なのだろう。この倫理は、乃木希典によって現実に体現された。乃木希典は戦争時に明治天皇から賜った軍旗を戦敵に取られた事を気に病んでいた。彼は明治天皇の崩御を知ると、妻と共に自刃した。
 
 現代の我々からすればそんな事で自殺するのは意味がわからないだろう。しかし、あの頃にはそうした必然ー宿命というものが生きていたのだ。
 
 先生の自殺は、先生の倫理であった。それでは先生の自由意志とは何だったか。それはもちろん、彼の恋愛であり、彼が親友を裏切る形で相手を奪ったという行為である。ここでは、ハムレットのような内面ー自意識の探索は行われていないが、その代わりそれは、先生の欲望(恋愛)という形で現れた。
 
 欲望は主体の求めるものとして、近代に大きく開花した。だが、近代以前の倫理を色濃く受け継いでいた漱石は、欲望を破壊し、宿命を全うする倫理によって作品全体の構造を作り上げた。大きく言えばこれはハムレットが、復讐をしなければならない、というのと同じ事だ。両者共に、必然によって自由を破壊する物語構成を取った。この事は彼らが近代初期の文学者である事と、大きく関わりがあると思われる。
 
 必然が自由を制する形で、物語は見事な統一を達成した。それでは、必然は何故、近代以前に必要だったのだろうか? はっきりした答えは分からないが、私は小野塚知二の「経済史」を基本に考えている。
 
 近代以前は社会を保持する為に、各人は欲望を制限する事が必要だった。今を生きる我々にもその名残は見いだせる。古い人ほど「我慢」であるとか「忍耐」とかいうものの大切さを語る。これは過去の、欲望を制限する考えの名残りだろう。
 
 しかし資本主義が興隆して、生産性が増大すると、欲望がむしろ、社会を回すための燃料となった。今の我々はもはや欲望を肯定する事に躊躇していない。乃木希典は今の我々には全く意味のわからない生き物のように見える。
 
 現代に生きる我々はだから自由しか知らない。自由は素晴らしい、と人は言う。だが、本当にそうだろうか? 自由だけしかないなら、物語の形としては一つしかない。自由=欲望の成就である。
 
 ハムレットが復讐をやめて趣味に走ったらどうだろうか? あるいは、ハムレットは復讐に関しては司法に任せて、自らが危険を犯す試みをしなかったらどうだろう? オフェーリアと楽しく暮らしたらどうだろうか?
 
 先生は好きな女と一緒に幸福に暮らして、親友であったKは別の素敵な女とくっつき、それぞれ楽しく暮らしたらどうだろうか? …現代の我々はそういう結論を望む。そして我々は人生の必然を全て拒否する。そういうのは旧時代的な考えで古臭いと断ずる。
 
 だが、現実の我々にも死がある。我々は先生のような「決断」を持つ事ができない。ハムレットのような「決断」ができない。自己の欲望に依拠して生きているので、欲望に反する倫理に従って生きるという生き方がわからなくなっている。
 
 現代の我々は悲劇というものが徹底的に不可能になってしまっている。悲劇の主人公、ハムレットや先生の人生というのは、我々の目には少なくとも統一された一つの人生であるように思われる。彼らは逃避せず、死に突っ込んでいったから、彼らの生は一つの「姿」として統一されたのだ。
 
 自由は資本主義と接続され、そのシステムと主体が一致する事が人間の理想となって現れている。資本主義は、欲望を充足させる物を無限に生み出す人間が作り出したシステムである。村上春樹の小説は、本人がどう思っているかは知らないが、そうした「理想」に向かって書かれている。そこでは倫理が自由を制限するのではなく、自由が障害を克服していく道程が「文学」だと思われているのだ。
 
 ※
 さて、ここまで「人間、この劇的なるもの」を読んで考えた事をざっと書いてきたが、別にこの文章にはっきりした結論があるわけではない。
 
 ただはっきりしているのは、我々には過去に存在した宿命、倫理、必然といったものがわからなくなっているという事だ。そしてこれはシェイクスピアから、古代ギリシャ悲劇までをたどるのであれば、元は「神託」という原初的な形態にまで遡る。
 
 ソフォクレスの「オイディプス王」で、オイディプス王が行動を始めるきっかけはアポロンの神託である。神託に逆らうなどという事は全く考えられていない。ただ、神託に反抗するものがあるとすれば、オイディプス王の悲しみという感情においては他にないだろう。自由、自己意識によって神(自然)が定めた必然に逆らう、という経路はまだ発見されていなかった。
 
 人間は有限な存在であり、神という無限な存在には逆らえない。そこに悲しみがあり、人が死ななければならない理由がある。しかし、この神はただ無情な存在なだけではなく、有限な存在が死んだ後も、人間生活が持続し、その死は言葉として、物語として他者に受け継がれて、何らかの意味を持つ。
 
 福田恆存は、人間が死へ突入していく必然の重要性を語りながらも、死の後の復活を、自然が冬の後に春を現出させるように、必ずやってくる事も合わせて強調している。神の無情は個人を撃滅させるが、個人の死は全ての終わりではない。死の後にも世界は存在し、その世界は信頼に足るものである。…そう信じられた時代というのがかつて存在したのだ。
 
 ※
 さて、こうしてだらだらと書いてきて、私としては頭の整理がある程度できたように思う。
 
 現代の問題点としては、倫理も必然も存在しなくなったので、個人の死に意味がなくなってしまった事だろう。
 
 三島由紀夫は、おそらくはそれを悟っていた為に、人工的に自らの死に意味を与える舞台を作って、死んでみせた。私は三島に同情しつつも、彼の考えは誤っていたと思う。そのような形で、時代が我々に強いた必然は越えられるものではない。乃木希典や先生の自死は自然なものがあるが、三島のそれはあまりにも人工的過ぎる。
 
 自らの死に意味がないという事は、生にも意味がないという事だ。全ては偶然的で、偶発的で、誰かが不幸に陥って死んでも「運が悪かった、自分はああはなりたくはない」という感情しか湧かない。
 
 全てに意味がない生は、それぞれ寄り集まって、互いに慰め合う事にした。こうして現代の水平社会が現れてくる。みんなで慰めあって、たくさんの視線や声援を受ける存在が一番立派だという事になった。生きる事に対する軸がないので、生を順番に数えていってその集まり、数だけを意味あるものとしたのだ。
 
 こうした生を模倣するのが文学となっているが、これが空虚なものになるのはやむをえまい。
 
 ここまで書いても、私は、言ったように、三島由紀夫のように、人工的に意味ある死を作り出す事が問題の解決だとは思っていない。問題の解決は個人が背負うにはあまりにも大きすぎる問題だ。私としてはこの文章で、現代の問題点の描出ができていれば、それで良しという事にしたい。問題点を直視する事だけできれば、この文章の趣旨は十分果たしている。私として現状、それで十分だ。

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