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44.「人生が無価値」は本当? からの仏教で"世間"と訳されてるものの正体

「無価値に死ぬ」

少年ジャンプに連載してた『めだかボックス』という尖った漫画のぶっちぎり人気キャラから拝借

多くの人は考えないんですが、哲学(人生を突き詰める)の中で最も根本的で大事な問い。辛辣表現苦手な方は後半(本番はここから)だけ推奨。

A.経典では人間をなんと述べているか確認

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最大派閥の浄土(真)宗系で最も大事にされてる『無量寿経』の中から、一般信徒にも配布されてる書物の「人間」の項目に書かれてる部分を引用:人間ほど浅薄なものはなく、争わなくてもいいことを争っている。激しい悪と苦の渦の中で、あくせく勤め、それによってやっと生計を保っている。(そして無意味に死ぬ。)

田or家or家畜or金銭or衣食などがあれば、田~に悩み憂いは尽きない。田~がなければないで、それらを欲し悩みが尽きない。

愛するものもいつか別れ、栄えるものもやがて滅びる。真に楽しむべきものは何一つない。

人間は愚かで、愛欲に惑い、道徳を弁えず、怒りに狂い、財と色を貪る様は、狼のようである。なんと哀れで痛ましいことか

最古層の経典ダンマパダ

110:戒(生活上守るべきこと)なく無定な人が百年生きるより、戒あり禅定な人が一日生きる方がすぐれている。

150 骨で城が造られ、それに肉と血が塗ってあり、老いと死と慢心と偽善が置かれている。

最古の経典スッタニパータ

759 色・声・味・香・触・法(六境)の全部と、好まれ愛され意に適う、あると言われる限りのもの、
760 これらは、神々を含む世間には楽と考えられている。また、これらが滅すると苦と考えられている。
761 聖者たちの見解では、有身の破壊が楽である。(正しく)見る人々と一切世間は、正反対である。

要は、美味しいもの食べる 自己顕示欲を満たす 等の欲求を満たすことを苦であると捉えるのがブッダの視点で、俗物とは正反対(99.9%以上の人の人生観を根本的に否定するのが仏教)

人間とはどういうものか、どうすべきか、生きてるだけでは意味がない をガンガン語るのが実は経典や聖書なんです。宗教書は人間批評に事欠かず、あるがままの人間を肯定せず、人間は無条件に平等に尊い・価値がある なんてことは仏教や聖書は述べず、~な生き方をするのが良いというのを説きます。

ただ生きてるだけでは、無意味or駄目だから、お釈迦さんもイエスさんも宗教(こういう生き方しなさいよという教え)をわざわざ広めたんですわ。宗教の初歩も初歩なんですが、宗教的素養がマイナス(間違った偏見過多)の日本では理解されてませんね。宗教家(実質ただの詐欺師)は腐敗堕落しきってて騙すことが日常と化してるし、その他の人も詐欺師を簡単に信用してるし、宗教家でさえほぼ誰も聖典すら読んでおらず生活上の宗教戒律を意識せず過ごしててそれが許されてる のが理由ですね。

B.現実の人間の行動から見えてくる人間像

人類以外の立場で善悪を考えるなら、地球の生態系を一方的に乱している人類は、他の動植物には悪であり邪魔な存在で無価値以下である。住んでた場所を奪われ、大気汚染や海洋汚染で環境を変えられてる猪や熊や海洋生物の身になれば分かりやすいかと。

地球外知的生命体など中立にjudgeしてくれる存在がいるなら、食が満ち、他の生き物に生存を脅かされることも無くなったのに、自己愛が強過ぎ下らない理由で同族でいがみ合い非効率に争い続け自滅してるだけなのに、その自覚もなく辛いと悲しんでみるなど茶番を演じる
+冷静に考えると矛盾した行動かなり多い
+互いに騙し合って良識ないし狭い範囲の自己利益にのみ執着し全体の利益を考慮することもほぼないのにその自覚なく、やたら自画自賛する(崇高な存在と捉える)ときが多い
+自分が何したいか何してるかも理解してない薄っぺらな価値観で生きているのに、あまつさえ他人に価値観を押し付けもする などの点から、
歪・醜い・気持ち悪い・愚鈍・傲慢とjudgeしそう。自己愛故に認めず反論したくなるのが人間なんですが、少年雑誌などでさえ自虐ネタにされて久しく、実は半ば一般論。

実はここまでは前座で、一般人に対して分かりやすい生活上の教訓として説いたもの。

本番はここから

ダンマパダ1:ダンマorダルマ(法、内面世界、事象、真理、教え、ルールや規則 など幅広く訳される。この場合、内面世界や事象)は意(≒こころ)が先行し、意が最勝で、意で出来ている

最古の経典スッタニパータSN169:六つ(六根=眼耳鼻舌身+意→六境=色声香味触+法、五感+脳が観測・認識したもの)によって、迷いの世界(loka)が生起し、六つに親交を為し、六つに執着し、六つに悩まされる。

SNに何度も出てくる苦の輪廻(生まれ変わり)解脱法:無智な人=迷い惑う人は輪廻を抜け出せないが、見たこと・聞いたこと・考えたこと・戒・掟(一般道徳)・見解(例:輪廻があるとする思想)などすべてを捨て去り、執着や依存するところがなく、束縛を離れ、安穏になった人は輪廻しない。

要約すると、「事象・世界とは五感と脳の観測・認識によりつくりあげたもの、言い換えると、事象を観測してるのではなく認識が世界をつくっているんです。もっと言うなら、観測・認識されないと(その人にとって)世界は存在しないんです。」

大丈夫?ついてきてますか?具体的に考えてみましょう

実際皆さん、外部からの刺激(五感)や心持ち・認識・思いひとつ(脳)で、

和牛食べると旨いなあと感じる(舌で味を感じ、脳が旨いと認識することで旨いなあという事象を自分の中につくる)し・悩むし・楽しくなるし・辛くなるし・人生に価値があるともないともという気になるし・形而上のお話だと、神様的存在や天国と地獄や輪廻があったりなかったりする気になるでしょう 

ちなみに、観測者=知的生命体がいないと現象(例:天国と地獄が存在しようとしまいと)単体では何の意味もないんですよね。価値を持たせる存在がいないとあらゆることは無ってことです。知的存在である自分が死んだら、(自分にとって)全ては無になりますよね。そもそも知覚・認識する自分がいないので、(自分の中の)事象・世界をつくれないんですから。

結論として、'人間は無価値か'という問いには、こう答えよう

「あなたが価値があると思えばあるし、ないと思えばない」

全てはあなたの、迷い惑う不安定な世界(loka)のお話

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