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4666文字、読む能力に関する誤解や意義、教育者に求める事について、攻撃に対する過剰反応の観点から

2024-1-004

認識は認識場の上に立ち上がってる秩序とも言えて、理解(および実力)は対象に関して持ってる抽象具体関係構造(具体化条件の集積)の像であり、
我々は、10秒前5秒前1秒前の個々具体の自己から抽象次元に遡った自己像が、新しい個々具体を流入させ続けるイメージで、対象理解を抽象化具体化の交互反復から成る動的なものとして捉え、

認識場の個別性(通用してる領域と確からしさとの相関、下で言う精度問題はあるものの選抜の根拠であり、否定は通用が行き渡ってないと言ってるだけなので、
誰もそこから逃れられない第一原理であるそれを持ち出す際の観点)に修正余地なさを持たせ


(事情への同種の他との共通要素捨象を用いて、個別性を代替不可能な内外事情にしか応じない実存方針の帰結物とする処理と言い換えられるこの試みは、
その方針を抽象化具体化の交互反復、認識対象が認識場に整合させられた結果を具体化として捉えた場合の、抽象化具体化の不十分さ解消によって通用を行き渡らせる処理でもある)、

流入してくる個々具体の具体化精度を上限化(ひいては、認識なり対象理解なり、仮説でしかない抽象次元有り様の改善を上限化)させる以上の事はできないと考えます。

(この時、デカルトは、認識場の個別性に対しても上の相関を要求するという方向に修正され、
カントは、認識場の個別性に対して上の捨象を要求するという方向に修正され、

知性倫理美意識は、内外境界を意味する有限の与件性とより確からしいものが取って代わる運動性の下での上の相関である、代替不可能な内外性質に帰属してる状態への志向、
対文系事象においては、真善美も抽象物扱いでの、上の捨象用いた抽象化具体化の不十分さ解消の内実化になる。

例えば、通念的善人悪人像はマニュアル道徳という次善の策であって、マニュアルに頼らなくて済む実力段階では、
足の速さを問うてるのに薬の効き具合や薬の副作用の無視具合まで含めてしまってる、といった観点設定の精度問題と、
上の運動性の受容阻害を上の実存方針をもって最小に抑え、観点設定の精度を上限化する解決との関係があるだけ、そう期待できるわけです。)


また、そこを上限化させる必要性は、認識も呼吸や姿勢制御といった問題解決の集積である生の一環であると共に、
認識は置かれてる場に通用させ続けるという存在課題(生は化学反応の円環連鎖に関するこの積極的引き受け)を具体化するものである為、

実際、仮説の確からしさ上限化は、存在するのと引き換えとは言えない要素まで存在に帰属させてる個別性に対する帰属修正も包含してるわけで、
言わば、認識論が不十分である人が存在論に取り組んでも形骸な結果にしかならない、という疑似問題化や疑似解決化の構造がある為に生じてると考えます。



対他者も、他者の事情を踏まえる踏まえないという二択(単なる資格開放保障や内在不問外在軽視な典型自由観の発想)があるのではなく、

他者の事情を踏まえるのは前提だけれど、他者が代替可能な内外事情にまで応じてる
(有り様の具体化条件に修正余地がある)場合にそこまでは付き合わない、という主題が、
他者有り様を検討できる程度に関わる自身の余裕の有無によって具体化される、という他者と自己の抽象化具体化不十分さ解消問題があるのだと捉え、

さらに、その解消問題を、自他の認識場の上に立ち上がってるものや、社会なり世界なりを場と見た時のその上に立ち上がってるものの、
疑似化部分(場の疑似でない個別性に即したものが立ち上がってる場合とのズレ)に付き合わない(受容に値しないもの扱いする)方針の一環と見なしましょう。



同様に、表層形が同じ(同じ人間であるとか、文化である事には違いがないとか)なら内実は気にしないという共通性に立脚する文脈でも、
それが持つ包摂性について個別性を割り引くある種の攻撃と見なし、表層形の多様性を保障しにいく文脈でも咎める事が可能な、非標準性を笑うという現象に対しては、

非標準性という表層形の否定が、存在するのと引き換えという存在立脚まで否定するのを、緊張緩和関係含む誇張をもって隠蔽するのが問題であると見て、
内実が確からしいなら表層形は気にしない(表層形が問題になってる局面での表層形を気にするという表層形は内実が確からしい)、

という方向をもって存在立脚を肯定(存在するのと引き換えとは言えない要素まで存在に帰属させてる類の存在立脚は、
存在性が先立ってない疑似物扱い、内実が確からしくないもの扱い)した上で、

何故か成立してる感の一種としての笑いの対象になるならば対象とする、という枠組みでもって、
上の二つの文脈から、厳格成立の閉塞性に対する笑いが持ってる緩和の力を守りましょう。


この対応を、攻撃性に対する存在性が先立ってない規範性に由来する過大反応、ここからの脱却構造として捉えると、経済や宗教でのそれは、
求め続ける者の登場や求める者の量的拡大と有限性との衝突を解消する方策の内、

代替不可能な内外事情にしか応じない実存方針に獲得喪失観(無限者に対峙させる有限性形態)を整合させる内容を除いたものは、
協調(非選民)系であれ競争(選民)系であれ、富の蓄積に対する帰属操作の原因になる、との位置づけが相当するのでないかと考えます。

(対資本主義を、お金や契約といった交換能力に、林檎も蜜柑もまだ見ぬものも数えられる的個別性捨象による洗練を持ち込み、
欲望の実現限界である需給成立における内実次元の影響力を無化した分だけ肥大化してる、何らかの影響力への対策と解せば、

個人なり地域なりをこの包摂から守るだけの対策では、守られたものの内実が不問なままである為に、
上の整合以外の解消方策が帰属操作の原因になり得る点で、着せ替えに留まってると言えます)



ところで、競技ものについて考えると、相手の悪手を咎めない(相手を楽にさせる)場合、
味方を苦しめる展開に反転する為、味方に与える損害に修正余地なさを持たせてない有り様であり、

味方に対しそこに修正余地なさを持たせるよう求めるのを、味方への不当な攻撃と見なして抵抗する人がいる限り、
味方全体の競技性は上限化されない(劣勢方向に働くいらぬ力を負い続ける)と言えます。

(内実が確からしいなら表層形は気にしない態度を、攻撃という表層形にも展開してたなら、
和概念に対する肯定反応が目先きの存在しにくさに着目して全体を劣勢方向に引っ張る視野狭窄な規範性に堕す事態も、否定反応が論点ズレによる反動反発に留まる事態もないわけで、
内実の確からしさ検討を欠く先の二つの文脈に疑問を持たない理解力は、和概念に対するそうした肯定反応否定反応の原因と見なせます。)


自身が味方に与える損害に修正余地なさを持たせる有り様を、歪みが世代を通して引き継がれてく問題への対策
(革命系が歪み自体は残ってる単なる着せ替えでしかないケースへの対策も込み)として捉え直すと、
小学生の段階から既に話は始まってると言えて、管理者を一人の有限者として認め、

修正余地ない有限性は許容しつつも、修正余地ある有限性は受容しない態度をもって自身の内実次元への歪みの反映を、
さらには、次代への継承可能性を抑える、という課題がその捉え直しに相当してると思われます。


そして、この課題を小学生段階で達成できなくても、中学や高校での文章読む教育次第では補完可能と見て、補完を可能にすべく、
指差されてるものや指差してる意図が分かる的側面だけでなく、文章に見られる抽象化具体化の不十分な部分

(文系権威も、局面次第なものの有り様を局面無視で定めてる内容や、現象を内在性質と外在性質の統合、
あるいは、抽象物と具体化条件の総合として捉えてない内容を発信してる)を修正余地として掴まえる側面も、

文章(自分が書いたものや思考込み)を読む教育に組み込みましょう 。(現状は組み込まれてないので、
表層整合具合に対する評価に留まり、先に見た二つの文脈の産物に丸め込まれてしまう理解力である人に、
自分の理解力は高いと思い込ませて実社会に送りだしてるようなものと言えます。)


抽象度不足故に井の中の蛙的内容になってる問いに対し、抽象度を上限化させてるとの意味での修正像へと再構成してそこに応えるか、主語と述語の表層整合並に合わせるかは局面次第であるわけで、
点数獲得(需給成立という表層整合)への特化によってこの局面次第性を、ひいては、疑似問題に対する振り回されなさを失ってしまわないよう、

この局面次第性を抽象物として用意し、現局面では偶々こういう具体形になる、という抽象具体関係を都度押さえる必要が、
哲学領域すら疑似問題にあふれてる現状ではある、という点を教育者に分かってもらいましょう。

疑似問題である先の二つの文脈と決別してると言えるには、内実が確からしいなら表層形は気にしない態度の採用が必要な上に、
ビジネス側面でも金融側面でもいらぬ特化阻止は基礎的な知識でしょうから、

その態度の現れであり、いらぬ特化阻止でもある、代替不可能な内外事情にしか応じない実存方針と獲得喪失観との整合を、
要求しないまま能力や情報や可能性の獲得を推奨してる内容の教育論は、先の二つの文脈や実社会に通用してない理論とも言える点も分かってもらいましょう。

(持つ問題の範囲を対自己や対他者に限定するよう勧めてる言説にも、運用原理の確からしさ程度という内実次元を無視して、
特に、余裕の有無等の局面次第性を踏まえる事によって局面とのズレ、帰属関係の操作に利用される隙であるそれを潰してる運用枠組みと関係なく、次善の策を勧めたり、マニュアル対応を咎める言説にも、

抽象度を上限化した問題状態像から具体的問題を切り出し、現時点での受容に値する状態へと持ってく一連に対する具体化条件として上の実存方針を採用する枠組みの不在が、
修正余地として読み取れる為、読む能力における後者側面が機能してれば丸め込まれないはずで、
成人がそれらに丸め込まれてるとすると、後者側面を扱わない既存教育の犠牲者と見なせます。)



例えば、A=Aに対し、個別性捨象が前提である理系者ならともかく、文系者が、
抽象物と具体化物の関係(主語と述語の関係)として、あるいは、抽象物は明示されてない具体化物同士の関係(論理や歴史の展開構造)として捉えてない場合、

内在不問外在軽視な典型自由観との親和性、あるいは、真善美に対する有限者故の距離なり加工なりを一切認めないか安易に認めるかの二択しかなく、その同時否定を紡ぐ内容
(つまりは、理系者が対理系事象において為してるような、抽象化具体化の不十分さ解消によって達成される、

通用が生き渡ってる状態を紡ぎ続ける論理像や歴史像)になってない知性倫理美意識
(修正余地のないものを問題状態と見なす疑似問題や、修正余地のあるものを受容する疑似解決を、取り除き切れてない問題解決観)との親和性が、

疑える(本文で言う二つの文脈は結局のところ、場に合わせる合わさないの意味での内外差異への過大評価、
場の本質に合わせにいくという具体化精度への問題意識を潰し、分離処理の成功体験による分離への過大評価としての近代性と重なる為、
分離物や統合構成要素に内実確からしさを持たせないで済ます近代性の外に出てない証拠でもあるそれに、縛られてるが故の産物と言える)ので、

その種の傾向(局面差異なり具体化条件の被付与なりに対する鈍感さ)を文章から読み取るのも重要と思います。

ご支援の程よろしくお願い致します。