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住む家で人生の質も爆上がる? 在米生活2軒目の家の話【#4家にまつわるストーリー】

住む場所ってたいせつです。快適な家に住めれば、人生の質も上がるからです。

住む場所である家はライフステージで変えていくほうが理にかなっている

と書きました。

夫は欲望が湧き上がると歯止めが効かなくなるタイプでしたので、子どもが成長し、ハイスクールの近所である必要がなくなってきたころ、次のステージに合わせた家を探し始めました。

良くも悪しくも同じ場所に留まらないのです。

そのころは、末息子がハイスクール最後の年。娘と息子2人は自宅から徒歩で大学に通っていました。ハイスクールまでは完全無料ですが、大学はもちろん学費がかかるので上3人同時に大学生となったときには、どうなることかと思いました。

そして夫に言われました。

「オマエが子ども4人ほしいと言ったんだぞ。いくらなんでも3人同時に大学生というのはあまりに甘かったな」

とは言っても“後のまつり”です。

地元州立大学では最初の2年は大学の寮に住まなければならないのですが、自宅から通える学生に限っては寮に住むことは免除されましたので、交通費、寮、食費が節約できたことになります。もし寮に住んでいたなら“Room & Board”でさらに年間の学費レベルの費用✕子どもの数がかかるところでした。

もちろん、寮に住むメリットもあるので、自宅から通えても寮を選ぶ学生もたくさんいて、学生ローンを組んででも寮に入る学生も多いです。

ただ、我が家の場合は経済的にそんな選択肢はありませんでした。

子どもが4人いても米国で生き延びることができたのは、家と大学が近かったことで時間とお金が節約できたことは大きかったと思います。加えて、日本人であるにも関わらず米国の公立ハイスクールを卒業していたために、4人共返金不要の数々の奨学金をもらえました。このあたり、米国の教育システムの懐の広さに感謝しています。

もし日本であのまま田舎暮らしをしていたなら、果たして子ども4人に大学教育を与えることができていただろうか?とさえ思います。全員ができる限りバイトもしていたので、結果としては心配するほどの教育費はかかっていないどころか、一番上の息子と末息子は奨学金が大きかったためにお釣りがきてしまったほどです。

そうでした。家の話でした。

教育にお金がかからなかったこともあり、2009年秋、2.5kmほど離れたところにより大きい家を買って引っ越しました。買ってとは言っても、ローンなので借金です。総額の2割の頭金を入れ、毎月約10万円ほどの新しい30年住宅ローンを組みました。米国では家の価値がなくなることはないので、毎月の支払い能力さえ証明できればほぼ住宅ローンはとおります。払えなくなれば売ればいいのです。

カスタムホームで前オーナーがかなりお金をかけていることは、中に入った瞬間からわかりました。

子どもたちも全員が気に入りました。

ベッドルームは4つ、バスルーム3つ、2carガレージ、床面積は130坪ほど、土地面積は600坪ほどなので、日本の大都市の感覚からすればアンビリーバボーな大きさでしょう。

地下にはワインセラーもありました。

これがもし東京やカリフォルニアならば、まちがいなく億単位の家だと思います。でも、ここは米国の地方都市ですから、割安でこのレベルの家に住めました。

わたしはキッチンが気に入りました。ガスオーブンと電気オーブンが備わり、メインダイニングと別にブレックファーストテーブルがあります。

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玄関も無駄にゆったりしていたのでピアノをここに置いてました。

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マスターベッドルームには大きなウォーキングクローゼットがふたつあり、バスルームにはジャグジーもありました。

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ゲストルームはキングサイズベッドとソファーを置いてもゆったりです。

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地下には卓球台を起き、ワインセラーだった部屋はレコーディングルームに改築しました。

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暮らす場所を米国のミシガン州の地方都市に選んだからこそ、安くゆったり暮らせました。毎月の出費で考えるならば、アパートに住んだとしても家賃は同じぐらいかかるわけなので、少々、税金がかかっても後に売ることができるぶん、賢い選択だったと思います。

いちばん上の娘はこの家に引っ越した翌年には大学院を卒業し、オハイオ州で職を得て家を出ていきました。長男と次男はさらにその翌年2011年に大学院進学のために出ていきました。

末息子だけがこの家から大学に通っていました。歩けなくはないですが、常にいくつもの楽器を抱えていたため、ほぼ毎日わたしが車で送迎しました。

末息子が音楽専攻だったこともあり、この家には毎日のようにミュージシャンの卵たちが集まってきました。いくら音を出しても咎められない家でしたから。

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振り返れば、この家に住んでいた時代は日々音楽にあふれていたし、若者のパワーが家の中に充満しているようで、わたしにとっても楽しい日々でした。音が迷惑になる環境ならば、そんな時間は持てなかったことを思うと、正しいタイミングでいい家に住めたと思います。

在学中はジャズトランペッターとして日々練習が必要だった末息子に、思う存分に音楽に専念することができる環境を結果的に与えることができました。

⬇この記事に登場するJ君もよくこの家でトランペットの練習をしていました。彼はカレッジ在学中に全米対象のトランペットコンペティションで2位を獲得するほどのプレイヤーで、ほんとうによく練習していました。

息子の友だちながらも、我が子ほどに成長を応援でき、楽しめたのはそんな努力を毎日肌で感じることができたからです。

夫は環境学・家族学という分野の専門家でした。子どもを育てるために親ができることは、○○をしろ、○○はするなと言うことではなくて、子どものスキルを伸ばすために最適な環境をそっと築いてやることだというようなことをよく言いました。

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子どもたちが、それに気付いていたかどうかは別として、暮らした環境から数々の恩恵を受けたことを今、わたしはしみじみと感じています。

大きすぎて無駄に広い家とも言えましたが……

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2016年にこの家が希望価格の満額で売れました。夫は、次なる家は夫婦で死ぬまで安心して暮らせる家を建てたいと、日々想像力を働かせては図面を書いていました。

この家が売れてしまったので、理想の土地を見つけて家を建てるまでは借家に住むことになりました。

【#5家にまつわるストーリー】に続きます




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