見出し画像

宣言:アラ還だからこそ「なりたい自分」をたいせつに生きる

「#なりたい自分」のハッシュタグが並んでいるのを目にし、ふと自身に問いかけた。

わたしは自分の理想を追求し「なりたい自分」の人生を歩んできただろうか?

"No!"かな?

こんなに長く生きてきたけど「なりたい自分」を意識してはこなかった気がする。

「なりたい自分」を見据え、生きる目的、人生の目標みたいなものを持ち続け、自分の理想の姿を思い描きながらそれを追い求めて生きられたなら、それは素晴らしいことだったと思う。

人生とは死ぬまでのプロセスなのだから。

アラ還のわたしに残されている時間がこれまで生きてきた時間以上にあるわけもない。ならば、この機会をちょうだいして過去をを見つめなおし、わたしなりの「なりたい自分」を考えてみることにする。

そして、今日から「なりたい自分」を意識して生きていけばいい。



専業主婦として4人の子を育て、妻として夫を支えてきた日々を振り返れば「なりたい自分」を描くこと自体を避けていたようにも思う。昭和の時代にすり込まれた家族観を大きく疑ったこともなかったので、21歳で結婚したあとはいつも自分を後回しにし夫、子どもたちを優先し「家族のあるべき姿」を求めて奔走した。

結婚し家庭を守るのがあたりまえと思っていた当時のわたしに反して、若いころの夫には目標があった。「米国で博士号を取得し米国の大学で教授になること」だった。

その夫がわたしと出会ってしまったために、自分の夢を諦めた。わたしとの結婚を望んだもののわたしの両親の大反対にあい、日本に留まらなければ結婚させてもらえなかったためだ。インターネット以前、高額過ぎて電話もままならない時代だったので、親の心配な気持ちは理解できた。

結婚を期に、夫は自分の夢を追う代わりに理想の家族を作っていくことがたいせつなことになった。収入のために仕事を増やし家族と過ごす時間が減っては本末転倒だからと、収入を犠牲にして週休3日を実行し家族で過ごす時間を優先した。

良くも悪しくも、一般常識はおかまいなしの夫だった。

理想を求めるパワーが強すぎて、理想の子育ては日本で実現することは難しいからと日本脱出を計画した。画一的で協調性をもとめがちな日本の学校教育にあるとき、親として嫌気がさしてしまったのだった。

夫は子どもたちが「なりたい自分」になれるような子育てをしたかったのだ。

そんな経緯で我家は大胆にも家族6人で海外移住の道を選択した。もし、わたしが個人として「なりたい自分」を追求していたり、特別なキャリアを求めていたならその時点で夫に同意できず家庭崩壊していたかもしれないが、わたしの理想は「夫を助け良い家庭を築くこと」だったので前向きに同意した。

5歳から12歳の子ども4人を引き連れ、わたしたち家族は南太平洋に浮かぶ小国サモアに移住したのはもう四半世紀以上も前のことになってしまった。

子育ても家事もエンドレスジョブ、加えて異言語、異文化の環境で心地よい暮らしを成り立たせるのは簡単ではなかった。「なりたい自分」なんて考える暇はなく、子どもたちを巻き込んでの破茶滅茶な冒険人生に突入した。

過ぎてしまえば数々の苦労もほとんどが笑い話だが、どんなことも自分を後回しにし、母として妻としてを最優先した。それでも大きな不満を持たなかったのは、つまるところそんな生き方も、わたし流「なりたい自分」だったのかもしれない。単に深く考えるだけの知恵がなかっただけともいえるが……。

一方、結婚を機に一旦は断念した夫の「なりたい自分」、心の片隅ではいつもくすぶっていたのだろう。サモアで4年過ごしたあと、家族揃って米国を目指した。子どもたちにとってより良い教育環境を考えたのはもちろんだが、かつてのゴールを完全に諦めてはいなかったのだ。

家族を養いながら、錆びついた頭で猛勉強しみごとに目標を達成したとき、夫はアラフィフになっていた。恋愛と結婚を優先したばかりに、実に遠回りしたものだ。

そんな経緯のある夫は子どもたちに対して、常々「自分を型枠にはめるな。なりたい者になればいい」と言ってきた。それは、せっかくの生きている時間に、「なりたい自分」のために生きることのたいせつさを誰より知っていたからだと思う。

そんな発破が効いたのかどうかはわからないが、子どもたちは米国でそれぞれが望んだ自分の道を歩んでいる。家族のゴール達成のために伴走してきたわたしは「なりたい自分への道」を前進している姿を見守れることが今は喜びだ。どんな親でも子の不本意な姿はみたくないものだ。

2020年コロナ禍で末期がんを宣告された夫は7ヶ月の闘病の末にこの世を去った。わたしが16歳のときから43年ものあいだ一緒に歴史を刻んできた相手だった。理想を求めて生きて、「なりたい自分」を達成して人生を終えたのだから良い人生だったと思う。

でもそれは、わたし自身に「なりたい自分」があったわけではなかったからこそ、夫や子どもたちのために全力で応援できた賜物でもあったはず。そして、そんな中でたくさんの感動や喜びを共有できたことは、わたしのライフストーリーにもなった。

日々の喜怒哀楽の中では死にたくなるほど辛い時もあったし、人生最大のどん底を乗り越えられたのは、多くのやさしさと愛に支えられたからこそだ。
家族の心地よい暮らしのために最大限できることをしてきたことの結果が、大きなご褒美となって戻ったのだと思えた。

「随喜功徳」(人の喜びや幸せを共に喜んであげることが自分の徳を積むことになるといった意味)という言葉がある。

振り返ればわたしは自然とそれをしてきた。効率、タイパ、生産性などという言葉がおどる昨今、そんなことばかりを優先していれば、個人の達成感は得られたとしても、人としての幸福度があがるとは限らない。

心から愛する人や応援したい人がいるからこそ、喜びや幸せのチャンスも増える。愛し愛される関係の中で共に喜怒哀楽を味わえることが生きる醍醐味なのだから。

そのためには心のゆとりが必要なので、自分のプライオリティーに基づいた自分らしいライフスタイルを実行しながら人を愛することのできる自分でいたい。

夫が他界し子どもたちが自立した今、わたしはセカンドライフの入口にいる。

まだ遅くない。残りの人生は「なりたい自分」のためだけにある。

わたしがみつけた「なりたい自分」とは信頼できる人々との関係をたいせつにしながらも人に振り回されず、幸せを噛み締め暮らせる自分だと思う。

「なりたい自分」みつかってよかった。



四半世紀以上も前のこととなった我が家のサモア暮らしのことは、夫が本にしています。


🌺 共感、応援いただけたならうれしいです。 感謝の気持ちは次のどなたかに恩送りします。