ルカによる福音書第15章11〜32節「怒る兄、なだめる父」
8月11日における尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による説教。この日の題材はルカによる福音書第15章11〜32節「怒る兄、なだめる父」。
今日はウェルカム礼拝。先月のウェルカム礼拝で扱ったルカによる福音書と同じ箇所の後半について述べたい。「放蕩息子の帰還」とも呼ばれる下りは、畑仕事から家に帰る長男が自宅から音曲が響くのを耳にして、使用人に何が起こったのかを尋ねた。父からもらった半分の財産を使い果たした次男が帰ってきたことを、父親が喜んで仔牛を屠って宴会していることを使用人は告げた。このことで怒って自宅に戻ろうとしない長男を父親は懸命に宥めた。長男は自分の正しさを主張して、強く激しい怒りの声をあげた。さて皆さんは自分を兄のような人であると思うか、弟のようなタイプの人か、どちらと思うのでしょうか。
ルカによる福音書には、キリストがした3つの例え話がある(放蕩息子、無くした銀貨、預けた財産管理)。これらには徴税人や罪人たちがイエスの話しを聴きに集まって、一緒に食事をしたことに対するパリサイ人や律法学者たちが非難していたという背景がある。イエスが徴税人など罪深い人々と食事をしていたことを、パリサイ人や律法学者たちは許せなかったのである。つまりここで登場する長男はパリサイ人や律法学者を指している。そして一家の恥であった次男を歓迎して迎えた父親は神を指している。長男は弟にだけでなく、父親の寛大さにも腹を立てていたのだ。これはクリスチャンは長男タイプの人が意外と多いのではないかという警句でもある。
アガサ・クリスティに「そして誰もいなくなった」という世界で最も有名なミステリーがある。ここにエミリー・キャロライン・ブレンドという老婦人が登場する。片時も聖書を身から放さない、厳格で敬虔なクリスチャンであった。彼女は10代のメイドを雇っていた。しかし未婚の彼女が妊娠してしまうと、彼女に辛く当たった。毎日の責苦に耐えかねたメイドは自殺してしまった。アガサ・クリスティはキリスト教に批判的な作家ではなかった。ただ聖書を知ることで、聖書の言葉を振り回して、厳し過ぎることを戒めている。
振り返って長男と父親の関係はどうだったのであろう。親に従うことは結構だが、義務のような接し方は親子の関係と言えるのであろうか。親子関係は主人と奴隷ではない。子山羊が欲しかったならば「お父さん、私にも子山羊を下さい」と声に出して頼めばよかったではないだろうか。そういう意味では長男は、慈愛深い父親をわかっていなかった。飛び出して零落した放蕩息子が兄であっても、父親は歓迎したはずだ。日本では「触らぬ神に祟りなし」と言うが、この父親は暴君ではない。父親=キリスト=神のイメージを、私たちは大切にしたい。
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