将来の夢:「私」。

小さい頃、私には夢がたくさんあった。

バレリーナ、小説家、詩人、歌手、声優、デザイナーに考古学者に…あとは何だったろう?一応年齢的には大人になってしまった今ではもう、忘れてしまった夢もたぶんある。それくらい、とにかく夢見る夢子ちゃんだった。

そして夢は、努力しなくても自然に叶うものだと思っていた。当時夢中になって読んでいた、少女漫画のように。(少女漫画の主人公だって、死に物狂いで努力していたのに、それを感じないことにしていた幼い私の感性を疑う。)

時はあっという間に流れた。たったひとつ、叶ったといえる夢があるとすればそれは【東京で暮らす】ことかもしれない。

大学入学を機に、地方から上京した。

東京で暮らしたかった理由は三つ。

一つ。大好きな声優さんのイベントにもっと参加したかったから。

一つ。東京の、その大学でしかできない、勉強したいことがあったから。

一つ。たくさんあるうちの夢のひとつだけでも叶えたかったから。東京なら、チャンスなんてそこらへんに落ちてあるものだと思っていた。なんて甘い考えだったんだろう…。

そのまま就活期間を迎え、実家のある地方に本社を持つ会社に就職した。それが一つ目の会社だ。


結局、大した努力もせずに、時々病みの世界に両足を突っ込みつつ、そうして私は小さな頃に抱いた夢のいくつかに中途半端にチャレンジ(と言って許されるのかもわからない程小さな動き)をして、気がつけば今、【うつ病患者】の【無職】になっていた。

そして、東京で就職したものの、実家の近くに転勤になった。入社三年目の春頃のことだったと思う。東京を離れるのは、とても辛かったけれど、考えてみれば本社が実家の近くにあるのだからそういった可能性は大いにあったのだ。

就活中の私は、【東京で暮らす】ことの尊さを深く考えないまま、骨を埋めるのは実家のある土地がいいな、それならそのうち、実家近くに帰れるかもしれないなら、それも良いか…なんて考えで、差し出された手を簡単に掴んでしまった。

私には、何も無かった。

周囲の友人たちのように資格をちゃんと取ってもいなければ、バイトだって(過敏性腸症候群が酷くなり)続かなかった。面接で胸を張って、私とはこういう人間です!だからこんな貢献ができます!と言えるエピソードが無かったのだ。当時は情けないことに、そのことにすら気づいていなかった。いや、気がついていないフリをしていたのかもしれない。

誇れるものも、武器になるものも、自分を安心させる材料も、他人を納得させる経験も、何にもなくて空っぽ。

そんな私の就活がうまくいくわけはなく、当たり前のように苦戦して、内定が初めて出た会社に簡単に人生を預けることにしてしまった。

実家の近くに転勤してから、少しずつ歯車が狂い始めてしまった。と、【うつ病】を診断された(2019/03)頃は、思っていた。狂っていたのは、私の方だといまは思う。

辞令が出た、社会人三年目の春には、東京が大好きになってしまっていた。何もない存在(わたし)でも、何か試されているような気に、勝手になっていたのだ。

たしかに、東京にはそういった魅力はあると今でも思っている。でも、本当に何も持たず、なおかつ持とうともせず、「こっちだよ、おいでよ」と差し出される手を待つだけの私には、そんなものは心の持ちようだったのではないだろうか。自分を試そうと思えば、すぐにでもそこは、はるろう・オン・ステージになったはずだ。なのに、上手くいかないことを環境のせいにしていた当時の自分を思い出すと、ウダウダ言ってないでいいからはよやれ!と、ビンタしてやりたくなる。

ー一応、書いておこう。最初に入った会社では、それなりに頑張ってはいたと思う。数字としての結果も、自分で言うのも何ではあるが、トップ的なアレ()も、出してはいた。貢献できていたはずだ。

それは、(大した努力もせずに)夢破れて入った会社において抱いた、とあるひとつの夢を実現させる為に過ぎなかった。

会社に利益が出れば、その私の夢も叶うと単純に考えていた。

だから、任された仕事はどんどん結果を出したし、より効率的にかつ、会社のファンを増やせるよう積極的に(少し強引なくらいに)動いていた。

でも段々と、簡単に言えば価値観の不一致を感じ始めた。よくある話だと思う。しかも、私は会社ありきではなく自分ありきのように動こうとしてしまったのだ。パワハラまがいのことを言われたこともある。でも、私に非はなかっただろうか…と考えると、、なんておこがましかったのだろう。もっと上手くやれなかったのか。あの言葉や、あの言葉を、言わせない方法があったかもしれないのに。会社にだって色々とお家の事情というのがあるんだろう。離れた今なら、なんとなくは理解できる。どれだけ合わないと感じる場所だろうと、あまりにもに言動が浅はかだったなと、少し反省している。(それくらいには、今は冷静に、勝手に傷ついた過去を考えられるようになってきた。)

結果として、半ば焦って辞めた。悲しいかな、辞めてしばらくは、まるでPTSDのように、その会社関連のモノを偶然目にすると、手が震えて動悸がしていた。

それは結局のところ、「こっちだよ」と差し出してくれたその会社が本来大好きで、だからこそ簡単にではあるけど、人生を預ける覚悟で入社して、そしてすったもんだ有り(いずれその話もこのnoteでするかもしれないし、しないかもしれない←)、裏切られたような気持ちになって辞めたからなんだろう。

もちろん、その会社にも改善すべき点は多々あると、現役社員の後輩などから話を聞くと、僭越ながら今でも思うことがある。

……悪いのは誰だ?なんて何度も考えたけど、そんなのは不毛だ。

あえて犯人探しをするとすれば、深く物事を考えず逃げるように、差しのべられた手を簡単に掴んでしまった私だったと、冷静に思っている。

それでも私は、同じ過ちを繰り返した。

次に入った会社は、やはり転職活動中に最初に内定を頂いた会社だった。入社した理由は、東京勤務で転勤が無いことと、前職の経験が少しでも生かせそうだと感じたから。もうこの辺りから、今考えると私の浅慮な面がめちゃくちゃに出ている。ただ、東京で生活できることが嬉しくて仕方がなかった。…当時、自分自身が俯瞰できていなかったことが恐ろしい。💢(o゚∀゚)=○)´3`)∴

転職先の会社は、すべてが前の会社とはまったく違っていた。

業種も、上司との距離感や、取引先との仲も、会議の方向性も。

すべてに、愛と思いやりを感じた。

※一つ目の会社に、まったくそれらを感じていなかった、と言っているのではない。

あまりにも違いすぎて…困惑しながらも、求めていたはずの環境で働けることで、喜びに溢れ、新しい仕事を覚えて早く戦力になろうと必死だった。

それがある日突然、その会社に行けなくなった。

入社して、3週間目くらいのことだ。

微熱が出た。大した熱でもないのに足が、動かない。涙が、止まらない。ご飯が、喉を通らない。起き上がるのが、苦しい。…好きな小説も、読めない。文字が逃げるように、入っていかない。

小学校高学年で、【過敏性腸症候群】と【小児うつ】を診断された経験のある私が真っ先に疑ったのは、メンタル系かな…?だった。と言うのも、予兆はあったから。入社後2週間目くらいから、通勤中の電車内での腹痛が始まっていた。会社の最寄り駅に着いてまず向かうのは、改札ではなくトイレ。けれども、メンタル由来だと頑なに認めたくない自分が居た。

動悸や息の詰まり、微熱、異常な怠さ、疲れやすさ…これが三日続き、近所の内科にかかった。軽い風邪だと言われた。

大好きな声優さん(緒方恵美さん)のライブが控えていた為、何としてでも治さなくちゃと必死に健康に良さそうなことをしまくった。

けれども、症状は治まらなかった。一週間続き、その間一度出社したものの、あまりの顔色の悪さに「帰りなさい、違う病院に行ってみなさい」と上司に言われ、少し大きめの内科に行って血液検査と尿検査をしたが、特に問題は無いと言われた。

…楽しみにしていた緒方さんのライブは、友人にチケットを譲り参加してしもらった。

2週間目、「今日も出社できません」と会社に電話をした。「駆け込みでも良いから大学病院とか大きな病院に行った方が良い」。そう言ってくれた上司の言葉にただ従って、一番近い大学病院にまで駆け込んだ。

最初に回されたのは感染症科だった。

色々と検査をしたが、やはり原因不明。

ただし、ダニアレルギーの数値が高い。そんな理由で、研修医が2名同席しての診察も受けた。

もう、この辺りで判断力など完全に無くなっている。

入社したばかりなのに出勤できていないこと、体調のこと、、なんで、どうしてこんなことに?

頭がいっぱいいっぱいで、何も考えられない。

病院からの帰りのタクシー(電車やバスに乗る気力も無かった)で、実家の母に電話をかけた。母には初めて転職先の会社を休んでしまった日、なんとなく心細くてメールをしてあったのだ。

母自身、ずっと心配をして、電話やメールをくれていたが仕事が詰まっていてなかなか都合がつかなかったそうだ。でも数日後、ようやく母が来てくれた。その後のことは、実は正直あまり覚えていない。

確か、上司と私と母で2回ほど話し合って…実家に戻り、親のつてで大きな病院で再検査を受けた。やはり、異常無し。

そして、精神科を受診した。

『ここ最近の気分を天気に例えると?』『食欲は?』『物事への興味や関心は?』『体調は?』

カウンセリングと、気分を点数にするような検査をし、ようやく診断名がついた。

【中等度のうつ病エピソード】。

【全般性不安障害】。

…ようやく、ホッとした。そしてさらに、いつ働ける状態になるか"わからない"ということが、わかった。

その時点で、転職先の会社の退職が決まった。

問診票の質問の意味すら理解できなくなっていた私に、両親は様々な手配・手続きをしてくれた。転職先の会社の人事の方も、とてもとても、親身になってくれた。

【うつ病】の治療(主に投薬とカウンセリング)を始めつつ、退職を告げる為に、診断書を持って一度東京へ戻った。そして上司と、最後の面談をした。

「正直、この診断書がないとあなたがそういった病気だとはどうしても思えない。でも、診断書が出ている以上は、事実なんだね…」

面談には、母も同席してくれて、私の言葉にもフォローを時々入れてくれた。

上司の表情には、残念と心配と不安とが入り交じっている。

「僕らがあまりにも詰め込んで色々と教え過ぎたのかなぁとか色々みんなで言ってたんですよ。何が原因なんだろう?」と上司が言う。

私は、自分でもびっくりするくらい淡々と答えた。

「実は小さい頃からおなかが弱くて…体と心が直結してしまうような体質ではあるんです。でも、この会社では本当に皆さんしっかりと丁寧に教えて下さったので、少なくとも病名がついたのは、この会社のせいではないんです。」

「この会社の、取引先のお客さんのために何をどう改善していこうと、皆さんで同じ方向を見ているところがとても好きです。…なのに、本当に、申し訳ないです」

すべて、本心で言った。(前の会社で価値観の不一致があったことは、隠せなかった…。)

たしかに、繁忙期での中途採用ということで、研修はものすごいスピードで進んだ。さらに、前職がシフト制だったということもあり、5日間働き通すことに不馴れだった部分もある。

でも、本来知らないことを勉強するのは好きなはずだった。

けれども、実のところ研修の内容が当初からどうにも頭に入りにくい状態だった。そして、【うつ病】になってしまった。

診断名がついた理由なんてたぶんひとつじゃない。

元々の考え方や、生きてきた(自分が選んできた)環境、本当に色々あるだろう。そして症状だって千差万別のようだ。上司に「診断書がないと正直信じられない」と言わせる程、私は"普通"に見えていたのだから。

転職先の会社を、配属期間で言うとたった2ヶ月で退職してからは、ただただ屍のように起き上がれない体で過ごした。

でもなぜか、外出(ほぼ通院のみだったが)では簡単なメイクだけは欠かさずに(欠かせずに?)過ごす日々。生産性の無い毎日に、そもそも精神的な症状はあまり出ていなかったはずが、気がつけば死んでしまいたい気持ちで一杯になっていた。

父が母のお茶碗を誤って割ってしまった際、私が代わりに居なくなっちゃいたかったと言った。あの時はどれだけ両親を傷付けたんだろう。

私は空っぽだ。なんにもない。居る意味もない。ただすべて忘れて、寝ていたい。

過剰睡眠の症状が、とにかく酷かった。

その気持ちを、状況とともに初めて精神科の主治医のS先生に伝えたとき、先生は言った。

「あなたは、ありのままの自分…"裸"の自分を見るのも、見せるのも、きっと怖いのかもしれないね」

あぁ、そうなんです。と思った。特に、今でこそ荒療治のようにこうしてリア友でも見られる環境で、状況や心境を綴っているけれど、その頃は自分がこんな状態にあることがとても怖かった。

虚勢を張り続けていた気がする。私、べつに弱くないもん!と。

私は、自己評価としてはどちらかと言うと(どちらかと言わなくても)、自分は嫌われものだと思っている。そして、常に心のどこかで罪悪感を抱えて生きている。それは、虚勢を張り続けてきたことで、傷つけてきてしまった人が何人もいることを本当は気付いていて、思い出しては悔やんでばかりいるから。

でも、だんだんと、心境が変わってきた。

こうしてnoteで言葉を紡げていることが何よりの証拠だ。怖く、なくなってきた。罪悪感が、もっと人の為になることに還元していこう…といったように、未来に向けてチェンジしていった。

薬のおかげか、ご自分のお話7割くらい(笑)の、だけどちゃんと一緒に考えてくれるS先生とのカウンセリングのおかげかは、わからない。

ただ、診断名がついてから半年間、少しずつ出来ることを増やしていった。5月末くらいに、S先生から「五行日記を書いてみよう!ただし症状のことは書かない!出来たことだけ書いていく!」と提案(指示?)された。

クソがつくほど真面目な私は、忠実に震える手で五行日記を続けている。最初は五行どころか3文くらい(起きた。顔を洗った。布団をあげた。…等)しか書けなかったが、段々、日記に何か書くネタを、との思いから、多少無理しつつも少しずつ少しずつ動くようになっていった。

とある診察日、S先生に言われた。

「メイクをした。とか、お化粧に関することが多いねぇ」

私が、コスメの優先順位の高さに気がついたのはまさにその瞬間だった。

それからは、汗をかきながらw、ばっちりフルメイクをして母と買い物に行ったり、両親と食事に行ったり、状態を既に打ち明けていた頼れる友人たちと遊んだりしていった。

バラエティショップのコスメ売り場では、母曰く、完全にイッた目で品物を物色していて、ついていけないくらいだったそうだ。笑

その他にも、大好きなぬいぐるみの服や布団を縫ったり、美容院に行ったりしているうちに、家事も少しずつできるようになった。

TOEICだって受けられた。

少しずつ、行動範囲が拡がっている。最初は、日記に書くために行動していたが、いまは行動して、それを日記に書く…といった、まるで昔の少女漫画の主人公のような生活を送っている。時々、屍化したり、パニックになってしまったりするけれど、幸せだ。

自分と向き合う時間がある。それはとても、贅沢なことだ。

職業、【無職】。だけど【家事手伝い(療養中)】と謳っている。笑


ー今日は診察日だった。

「ようやく"裸"の自分でいても、呼吸ができるようになってきました。」

笑顔で言う私に、主治医のS先生は「良かったじゃない」と、変に喜びすぎるのでなく、ただ当たり前のように返してくれた。

S先生が診察の度にかけてくれる言葉がある。

「あなたはあなたのままでいい」。

診察が始まった当初…2019年3月の初旬だったと思う、私にはその言葉を、文章として理解はできても、咀嚼がどうしても出来なかった。

私が私のままでいたら、そこには虚ろしかない。いや、何にもないんだ。そんなの無理だ。生きていけない。何者かにならなくちゃ。早く、存在意義と存在価値を証明しなくちゃ。早く。

焦るばかりだった。

でも、いまは違う。

「あなたはあなたのままでいい」。

そう言われる度に、私は脳内で「私は私のまま"が"いい」と変換している。

そして、"が"を裏付けするために、目の前の衝動・欲求…嗅覚に正直に行動するようになり始めた。

でも、やっぱり時々、不安になる。やっぱり、焦る。

そんな私に、齢70を越えたS先生は、言う。

「僕は今まで、いろんな表彰状もらってきた。○○名誉会員だの、○○会副理事だの。世界中に精神医学研究の仲間もいて、時々、おまえのおかげでここまで来られたなんて言われることもある。でも、フッと人生を振り返ると、そうかぁ?俺そこまでのことしたか?俺とはなんだ?…うーん、俺は俺だな。そう思うんです。人生の果てが近付いた時に、自分は自分として生きてきたなぁ。そう思うための、今は準備期間なんじゃないのかなぁ。何を目指すかなんて、何でもよくて、"自分"になっていくというのが、人生なんじゃないのかなぁ。どうですか?」

ご自分のお話がとても多い先生ではあるけれど、やっぱり信頼できる先生だな、とも思う。

私の大好きな尾崎豊の曲『僕が僕であるために』は、あまりにも有名だ。

尾崎は、『僕が僕であるために、勝ち続けなきゃならない』と唄った。果たして、彼は彼の思う通りに勝ち続けることが出来たんだろうか。彼にしかわからないことだろう。

私はいま、思っている。

負けても、いいや。私が私であるために。

勝ち続けてたら嬉しいし、誇りになるだろう。でも私はそう言えば、空っぽなんだった。それじゃ、負けるところからスタートだ。ここにどんな私を入れていこう。負けた私はどんな形?勝った私はどんな形?どうなっていこう…?

もう、「こっちだよ、おいでよ」と差し出される手を待って、そしてたまたまやってきたその手にすがるのはやめる。その手を「のーせんきゅー!!」、もしくは惚れされて逆にすがりつかせるくらいのパワーをもつ私になりたい。

どんな才能があるかわからない。何の才能も素質もないかもしれない。でも、あるかもしれない。ただし、それらはそこらへんに落ちてはいないようだ。自分で、作り上げていくものなんだ、多分。

だから、今のところ私の将来の夢は『私』だ。

それでいい。それが、いい。



と言うわけでw、

【今日の勉強内容】

・スタサプTOEIC…5分

・スタサプEnglish…30分

・日本化粧品検定2、3級(テキスト読み)…15分


今回はかなり長くなりました。打つのに半日かかりました。w

でもそれだけ、思いを言語化できるようになったんだなぁ。

日付を跨いでしまったけれど、明日(というか今日!)も、私が私であるために、街にのまれて、少し心許していきます🎤🎶

おやすみなさい👋

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