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あの日から13年目の春が来る(1) | あの日に生まれた子供たちは、もうすぐ中学校2年生になる。


この投稿は2023年5月3日に書き置いたものをnoteを通して公開したものです。

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7年ぶりに訪れる松島は賑わっていた。

3年ぶりのGWの賑わいに、遊覧船の船達は、やっぱりGWはこうじゃなくちゃ、と笑みを溢していた。

松島遊覧船

仙台藩主伊達家の菩提寺である瑞巌寺。

瑞巌寺

鬱蒼と茂った杉の森を貫くように作られた参道。

瑞巌寺 東日本大震災前
引用元: 瑞巌寺 - Wikipedia

この杉並木は津波による塩害で甚大な被害を受けたが、現在は整備され、開けた明るい参道になっていた。
生き残った杉とは別に、伐採してしまった所には、新たに杉が植えられていた。
恐らく最初は小さなものだったはずだが、杉の成長は早い。
もう10歳の子供くらいの大きさにはなっていた。
まだ若いこの木々達も数年のうちに伸び、近い将来かつてのような参道の景色を取り戻すのかもしれない。

瑞巌寺 東日本大震災後
2023年5月3日 (撮影日、以下略)

12年経った、もう12年だ。
2011年3月11日の地震と津波の被害から、被災地の人々は力強く立ち上がり歩き出していた。
……………

瑞巌寺本堂の側の地蔵堂

瑞巌寺本堂の側に、津波被害にあった人々の慰霊を願って建立された地蔵堂がある。
そこに、2人の子供を連れた4人家族が向かっていた。
彼らは堂の前で記念写真を撮り、中を見ることもなく、楽しそうに立ち去った。
その様子を尻目に、私は手を合わせ、鎮魂を願った。

中に安置される悲母地蔵の足元にある説明文には、以下の建立の目的が書かれていた。

一つに、被災者の慰霊と早期復興を願うこと。
一つに、この震災の凄惨さを後世に伝え、防災意識に繋げること。
一つに、人々が相互協力することの偉大さを示すこと。

あの日の津波は、このあたりまで到達したという。

瑞巌寺 石庭

7年ぶりに訪れる石巻

7年ぶりに訪れる石巻もまた、復興が進んでいた。

石巻 市街地

かつては波に流され、ただ何もない平野となっていた旧北上川沿い。

石巻 東日本大震災 門脇
2016年3月16日
石巻 東日本大震災 門脇
2016年3月16日

今は綺麗な市営住宅や公共施設、子育て支援の施設等が出来、堤防も整備され、人々の憩いの場となっていた。

北上川
2023年5月3日

震災から5年経っても残されていたボロボロの建物や、波でひしゃげた精算機のあった駐車場。

石巻 東日本大震災 被害
2016年3月16日
東日本大震災 駐車場
2016年3月16日

それらは建て替えられ、あるいは新たに作りかえられていた。

石巻 東日本大震災後
2023年5月3日

震災復興を目指して作られたライブハウス、石巻ブルーレジスタンス。
その向かいにある建物には青い字で津波の高さが記されている。

石巻 東日本大震災 水位 津波

しかし、この建物の飲食店は閉業していた。
この印もいつまで残るのだろうか。

復興と共に、あの日の痕跡は姿を消した。
それと同時にあの日の記憶も薄れつつある。

だが、街を歩くとそこかしこにある津波の高さを示した印や、

石巻 東日本大震災 記録 津波

避難の際に登る建物であることを示したマークを目にする。

石巻 津波 避難

きっと今でも石巻の人々は、あの日の記憶を忘れずに、未来へ繋ごうとしているのだろう。

石ノ森章太郎 サイボーグ009

東日本大震災から12年後の私達

しかし、私達はどうだろうか。
忘れ始めている。まだ、12年なのに、悲しいくらいに薄れてしまっている。
そんな気がしてならない。

毎年のように行っていた3.11の追悼の黙祷を呼びかける放送をしない自治体は増えた。
あの日の人々の悲しみを、まるで大昔のことのように感じ始めている人々も多いのかもしれない。
12年経った。もう12年だ。

あの日に生まれた子供たちは、今年中学校1年生となった。
彼らにとっては、3.11は「分からない」ことなのである。

しかし同様に、あの日のことを「分からなくなった」大人達も多いのではないか、と思う。
次の世代に向けて、あの日の思いと防災の意識を繋いでいくことは私達の責務なのではないか。

12年経った。まだ12年だ。
あの日から13回目の春は去り、もうすぐ夏が来ようとしていた。

猫がこちらを見ている

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