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あの日から13年目の春が来る(2)|被災者“ではない”私達は、どんな意識でいるべきなのでしょうか?

この投稿は2023年5月4〜5日に書き置いたものをnoteを通して公開したもので、こちらの続きになります。

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日和山に登って石巻市沿岸部を見渡す。

沿岸部の地域と、旧北上川に沿っての地域は特に津波の被害が酷かった。

日和山から見る石巻市街地(2016年)
2016年3月16日(撮影日、以下省略)

7年前に訪れた際、その頃はGoogleマップが機能しておらず、道が道ではない所を示していた。
まだ区画整理の途中だったからだ。

門脇町
2016年3月16日

一面が荒れ地といった状況で、盛り土をしたり復興市営住宅を建てている途中だったりした。
「ここに住む人がいるのか」
果たして人は戻ってくるのだろうかという意味と、またここに住んでいいのかという意味と。
複雑な思いでその様子を見つめたのを覚えている。

日和山から見る石巻市街地(2016年)
2016年3月16日

歴史の中で日和山が果たした役割

日和山の頂上には鹿島御児神社が鎮座する。

鹿島御児神社

その昔には源頼朝が家臣である葛西氏に与えたこの地。
未だ確実なことは分かっていないが、ここには石巻城か、或いは城に相当する居館が築かれたとされる。
最近では拝殿北側から空堀跡も見つかった。

石巻城

周辺には蝦夷(えみし)の支配地との防衛線の位置づけだった多賀城を初めとする城柵が多くあり、そこから海岸線を東に向かうと最初に来る平野が石巻であるという事実、

石巻と周辺地図

ここを流れる(旧)北上川が日高見(ひたかみ)という東夷の国に由来するという説があること、
更に、「石巻」が日本書紀にも記される伊寺水門(いしみなと、“港”)という地名が由来したという説があることなどから、
いずれにせよ、中世以前のこの山には、後に慰霊や鎮魂のために神として祀られるほどの力を持っていた蝦夷の権力者の墳墓や、それを活用した戦略施設のような要害等があった可能性は極めて高いだろう。

鹿島御児神社の鳥居から見る門脇町

その日和山は、2011年3月11日には多くの人々が津波から逃れるために避難した地となった。

日和山についての説明板


日和山神社より門脇町を望む。
かつて見たあの町は綺麗に整えられ、道路が敷かれ、そして数十軒の家ができていた。

門脇町を臨む
2016年3月16日
門脇町
2023年5月4日

復興が進んだという嬉しさはあったが、ここに移り住んでもいずれまた流されてしまうんじゃないのか、そんな気持ちにもなった。
お参りを済ませて門脇町側へ下りると西光寺の西側に出る。

日和山へ登る階段

その時の景色には既視感があった。
確かに7年前のあの日、ここにいた。

日和山へ登る階段

同じ所から見た、あの頃より綺麗になった門脇町を見た時、なぜか嬉しくなった。
東京よりも少し遅く春の終わるこの地の木々の若葉が青い空に映えている。

日和山を下り門脇町へ入る

日中は少し暑いくらいの日だった。心地よい風が吹いていた。ここに来たかった。ここにまた来られて良かった。そう思った。

旧門脇小学校への道中に本間家土蔵へ

どうしても行きたかった旧門脇小学校に行く道中、本間家土蔵に立ち寄った。

本間家土蔵

この建物は地震と津波の被害を受けたが無事だった。
取り壊されるはずだったが、遺構として残してほしいとの要望と寄付があり、

本間家土蔵

今は地史や震災関連の資料館として公開している。

本間家土蔵

見学をさせていただきながら、所有者であり管理者である本間さんと世間話をする。
震災の話も伺ったが、石巻という地のこと、江戸期には盛岡からの米を運ぶ千石船で賑わったこと、明治以降は漁業で繁栄したこと、製紙工場や食品加工工場ができ工業の街としても賑わっていたこと、そんな話をした。
その中でかつては漁船や商船に乗り、海外にも出ていたという氏の話を聞く。
いつこっちに戻ってきたんですか?なぜ戻ってきたんですか?との質問に、長男だから30には戻ってこようと思っていた、と笑いながら答えていた。

そうした話の中で、この旅で感じていたことを話してみた。
松島や石巻を見る中で街の発展と共に遺構も見られなくなってきた。

石巻ブルーレジスタンス

とはいえ、被災地ではそこかしこの避難表示や、あの日の被害が目で見て分かるように示されているなど、災害への意識をもって生活しているように感じられる。

石巻の町並み

しかし、被災地の「外」にいた人々は、それが徐々に薄れているのではないか。
まだ12年しか経たないが、震災が過去のものとなってしまってるのではないか。

「うーん……。そうかもしれないね……。」
本間さんは考えながら、そう応じた。
そして、私は言葉を選びながら、ぜひ聞いてみたかったことを聞いた。

あの日を、ここで経験し、目の当たりにしてきた方として、被災者“ではない”私達は、どんな意識でいるべきなのでしょうか?どんな意識でいてほしいですか?

「やっぱりここで学んで、感じて、目にしたことを忘れないで、何かあった時に自分の“命”を守れるための教訓にしてほしいな。」

東南海地震はいつ起きてもおかしくないんだしねと付け足して、はっきりと、しかし笑顔で答えてくれた。

南浜町

東日本大震災は遠くなった

この日、この地に住んでいる、または住んでいた何人かの人々から話を聞いた。
あの日は遠くなった、という。
思い出すこともあまり無くなった。
しかし、もちろん聞くことなどできなかったが、皆、友人や仲間、同僚、親族など大事な人を亡くしていたはずだ。
そのため、あの日のことを考えることは、あまりしたくない。
しかし、考え出すと止まらなくなるという。
楽しかったことも、苦しかったことも。
それが、きっとあの場にいた人達が生きる、“今”なのだと思う。

きずな地蔵

こちらの記事に続きます。


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