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【つの版】度量衡比較・貨幣141

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸幕府将軍・徳川吉宗は矢継ぎ早に幕政改革を行いました。財政に関しては組織の再編と緊縮政策により支出を削減し、幕府に諸大名から米を上納させ(上米の制)、新田開発の事業民営化や徴税法の改革などを行って財源を確保し増収をはかります。しかし新田開発で米の増産が進むと米価が下落し、給与を米で受け取る武家の実収入は目減りしていきました。

◆米◆

◆米◆


石高制度

 振り返ってみましょう。江戸時代の日本には、幕府が発行する通貨として金・銀・銭(銅銭)が広く流通していました。しかし幕府や諸大名、旗本ら武家の収入規模は、その所領の平均的な玄米収穫量である「石高こくだか」に換算されました。武家の給与は米で支払われ、これを売却し金属貨幣に換えて使用していますし、蝦夷地のように米がほぼ収穫できない土地でも、様々な収入を石高に無理やり換算しています。これはなぜでしょうか。

 鎌倉時代や室町時代には、土地の収穫量を銅銭に換算した貫高制が普及していましたが、戦国時代後期に銅銭の品質が低下して信用が下落し、貫高制は維持できなくなりました。また西日本では銀、東日本では金が主要な秤量貨幣として流通していたため、どちらにも統一できません。となると農村から安定して収穫できる農作物のうち、収量が多く保存もきくが全国的に流通する貨幣となり得ます。朝廷は古代から米を租税として納めさせていますし、公家や武家も所領内の農民に耕作を行わせ、米を納めさせて生活していましたから、米が通貨や土地の価値の基準になることは自然でした。

 江戸幕府はこの石高制を全国に適用し、幕府や諸大名、旗本や武家の財政規模の把握が可能になりました。役職の任免も石高に応じて行われ、大名も自らの所領(家領/藩)において石高制をとり、所領に課される年貢も石高から換算されました。石高制は幕藩体制の秩序を保つために好都合だったのです。幕府によって金・銀・銭が発行され貨幣経済が浸透した後も、西日本では銀、東日本では金が主要な秤量貨幣であることは変わらず、銅銭や米との交換比率は日々変動していました。とはいえ米価も豊作や凶作によって変動しますから、米価安定には安定した流通と備蓄が必要不可欠です。

大坂米市

 年貢米や特産物のうち、換金するぶんは業者によって運輸され(廻米)、江戸・敦賀・大津・大坂・堺・長崎など各地に建設された蔵屋敷に集積されます(蔵米)。特に大坂には諸藩の蔵屋敷が集中し、経済の中心地となりました。この蔵屋敷を仕切る御用商人を「蔵元」といい、運ばれた米や特産物を売却して金属貨幣(主に銀)に両替し、手数料をとっていました。稼ぎは諸藩に納入される仕組みですが、蔵元は米や特産物を担保とする金貸しも行うようになり、彼らが発行する米切手/蔵預かり切手(在庫保管証明書)は為替の代わりに証券として流通しました。

 こうした仕組みを整備したのは、大坂の豪商・淀屋でした。初代の常安は材木商・土木業者として財を成し、大坂の陣において徳川方を支援して苗字帯刀を認められ、淀川流域の開拓を進めました。二代目の言當は父の事業を受け継ぎ、全国の米相場の基準となる「米市」の設立を幕府に願い出て認められます。淀屋は淀川の中洲「中之島」に米市を開き、その北の土佐堀川に淀屋橋を架け、商人たちを呼び集めて米の取引を行わせました。中之島には蔵屋敷が立ち並び、全国に流通する500万石の米のうち200万石がここで取引されたともいいます。

 淀屋は青物や干物、絹などの取引も引き受けて莫大な富を築きましたが、元禄10年(1697年)に米市は堂島に移転し、宝永2年(1705年)には幕府の命により闕所財産没収)処分を受けます。この時没収された財産は金12万両、銀12万5000貫、北浜の家屋1万坪、土地2万坪、材木・船舶・美術品等と記録されています。これは諸藩へ貸し付けていたカネに利子がついて銀1億貫にも膨れ上がり、諸藩が返済できなくなったためと推測されます。時の勘定奉行は例の荻原重秀ですから、財政改善のために潰されたのでしょう。

 銀12万5000貫(1貫=1000匁)は、金に換算すると214万両にあたるといいますから、逆算して金1両=銀58.4匁です。元禄末年(1703年)の大工の日当が銀3匁=200文として、これが1万円なら1文=50円、銀1匁=66.66文=3333円、金1両=58.4匁=3892.944文(4貫弱)=19万4647円、銀1貫=333.3万円。金1両≒20万円とすれば、12万両は240億円、214万両は4280億円。銀1貫は金16.665両、銀1億貫は金16.665億両=333.3兆円になります。

米価下落

 さて、様々な災害はあったにせよ、天下泰平により人口が増大すれば、食糧・衣服・貨幣への需要も増大し、相対的に物価(諸色)は上昇します(インフレ)。荻原重秀は金属貨幣の品位を切り下げて流通量を増やし、経済を活性化させて好景気を招きましたが、切り下げ過ぎてインフレが行き過ぎ、市場を混乱させてしまいました。

 そこで新井白石と徳川吉宗は、逆に金属貨幣の品位を引き上げて貨幣流通量を減らし、物価の下落(デフレ)を起こしました。日本の金銀産出量は減少しており、銅ともども海外貿易の決算に使われて流出していたため、土地と水と労働力があれば増産できる米の価値は相対的に上昇するはずです。給与を米で受け取っている武家は相対的に裕福になる、はずでした。

 ところが、そううまくは行きません。米の増産により米価が下落する一方で、物価の上昇(諸色高直)には歯止めがかかりませんでした。米は貨幣ですから、米価の下落は貨幣価値の下落であり、結果的に物価が上昇したのです。米を生産する農民も、米で給与を受け取る武家も、米価が下落すれば実収入が減少して困窮しますし、物価が上昇すれば庶民の家計ばかりか幕府や諸大名の財政も破綻します。しかし幕藩体制の根幹である石高制を廃止するわけにもいかず、吉宗は物価と米価の統制に頭を悩ませることになります。

米価統制

 享保8年(1724年)、幕府は「米価が下落しているのに物価が高騰しているのは、商人が商品を出し惜しみして値段をつり上げ、不当に利益を得ようとするためである」云々と宣言して「物価引き下げ令」を発布します。また商人たちの同業者組合「株仲間」を公認し、販売の独占権など特権を付与する代わりに冥加金を上納させ、価格統制を行わせています。

 米価統制策としては、米を幕府や大名・商人に買い上げさせ(買米)、廻米を制限し、幕領での年貢率を四公六民から五公五民に引き上げるなどして米の流通量を減らしました。また大坂の米市がある堂島に公認の米相場会所(取引所)を設立し、相場操縦による米価引き上げ、および金属貨幣の交換比率の安定化を図っています。

 堂島は中之島の北にある新開地で、正米・正銀取引(米や銀の現物取引)のみならず、廻米が入らない時のための延売買帳合取引先物取引)すら行われていました。享保年間にはしばしば不正取引として幕府から禁止されていますが、米価下落を抑えるためこれを公認し、享保15年(1730年)にはついに米相場会所が公式に設立されるに至ったのです。また米の仲買人や両替商らには株仲間を組織させ、冥加金を納めさせました。

 こうした対策にも関わらず、米価の下落と物価の高騰には一向に効果がありませんでした。幕府は通貨量を増やして米価を下げるべく、乾字金(宝永金)や藩札(銀札)の通用を解禁しますが、諸藩は藩札で領内の米を買い上げ、大坂で売却して銀貨を得たため、米の供給が過剰になる始末でした。

 そうこうするうち、享保17年(1732年)には天候不順と害虫の発生により西日本を中心とする大飢饉が発生します。さらに疫病も流行して万を超える死者が発生し、250万人もの民が飢餓に苦しめられ、食糧を求めて大坂・京都・江戸などの都市部へ大量の飢民が流れ込みました。下落していた米価はたちまち高騰し、飢民の一部はデマに煽動されて米商人の邸宅に押し寄せ、「打ちこわし」すなわち破壊と掠奪を行います。幕府は災害対策のため備蓄米の放出などを行って米価引き下げ政策に転じ、一連の改革は抜本的な見直しを強いられることになりました。

◆餓◆

◆鬼◆

【続く】

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