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【つの版】度量衡比較・貨幣142

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 享保17年(1732年)、西日本を中心とする大飢饉が発生します。幕府は災害対策のため備蓄米の放出などを行って米価引き下げ政策に転じ、享保の改革は抜本的な見直しを強いられることになりました。

◆The Hungry◆

◆Ghost◆


享保飢饉

 飢饉の影響は西日本で甚だしく、疫病も流行して死者が大量に発生しました。幕府が引き上げをはかっていた米価はたちまち高騰し、飢民は都市部へ流入して米商人の邸宅や蔵を襲い、打ちこわしを行います。やむなく幕府は米価引き下げへ政策転換し、幕領や諸藩に米の放出を命じました。

 この時、民衆を餓死から救ったのがサツマイモでした。原産地はメキシコからグァテマラにかけての中米で、カリブ海諸島やペルー、ポリネシアにも広まりました。15世紀末にコロンブスがカリブ海諸島に到達した際、先住民のタイノ族がこれを「バタタ(batata)」と呼んで食用にしていたのを発見し、スペインに持ち帰って王室に献上しています。見慣れない食物でしたが有用だというので、スペインやポルトガル、さらにはオランダや英国などの航路に乗ってたちまち世界中に広がり、17世紀はじめには明国から琉球を経て薩摩へ伝わります。それで唐芋、琉球芋、薩摩芋の名があるのです。英国ではバタタを訛ってパタタ、ポテトと呼ばれ、チャイナでは蛮夷(蕃)が持ってきた芋(藷/薯)というので蕃薯、甘いので甘藷/甘薯といいます。

 薩摩藩領の大半はシラス台地で米作に向きませんから、薩摩藩は救荒作物として甘藷に目をつけ、栽培を奨励します。同じく米作に不向きな島原や対馬、瀬戸内などにも甘藷が持ち込まれ、17世紀末から18世紀にかけて栽培が広まります。幕府もこれに目をつけて栽培を奨励し、幕領の八丈島や石見銀山などで栽培が開始されました。また儒者の青木昆陽は幕府に上申して甘藷を江戸に持ち込み、救荒作物として関東各地での栽培を奨励しました。甘藷を各地に伝えたのは彼ばかりではありませんが、『蕃薯考』なる農学書を著して栽培普及に尽力したことから、後世に「甘藷先生」と呼ばれます。

元文改鋳

 そうこうするうち飢饉の影響もおさまりますが、引き下げられた米価は上昇せず、物価は高騰し続けました。やむなく吉宗は大岡忠相らの提言を受け入れ、金銀貨幣の品位を低下させ通貨量を増大させる「吹き替え(改鋳)」を行うことにします。かつて荻原重秀が行ったように、貨幣改鋳は幕府に莫大な利益をもたらし、市場にはインフレと経済活性化をもたらします。

 享保21年改め元文元年(1735年)5月、吉宗は勘定奉行の細田時以ときよりらに命じ、金銀貨幣の改鋳を行わせます。小判や丁銀、一分判や小玉銀には元文の「文」の字を刻ませました(「元」だと元禄金銀と重複)。これがぶん字金銀で、金の方は略して「文金」とも呼ばれます。

 享保小判は重さ4.76匁(17.76g)、品位は金86.79%でしたが、元文小判は重さ3.5匁(13.06g)しかなく、品位は金65.71%と大幅に引き下げられています。含まれる金の重量では15.4gから8.58gに減ったのです。

 旧貨幣との交換比率は、慶長金・享保金(新金)は100両につき文金165両、元禄金は100両につき文金105両、宝永金(乾金)は200両につき文金165両とされます。しかし含まれる金の重量で比較すると、慶長金・享保金100両、宝永金200両は1540gあるのに対し、文金165両は1415.7gにしかなりません。元禄金100両は金1000gほどですが、文金105両だと金900.9gにしかなりません。当然文金の貨幣価値は市場では低く見積もられ、大規模なインフレ(物価高騰)が発生しました。この頃に流行していた「高島田」というまげを高く結うスタイルの女性の髪型は、文金による物価高騰にちなんで「文金高島田」と呼ばれたといいます。

 また享保銀は銀の品位が8割でしたが、文字銀は4割6分に減らされます。これは文字金の品位より低く、市場において金を高く、銀を安くするための措置でした。当初は他の銀と無差別に通用すると布告されましたが、流石に無理であったため、旧銀に対し5割の増分をつけて交換回収する(旧銀10貫目に対し新銀15貫目)とされます。これは元文3年4月末まで続きました。市場では旧金銀の退蔵が起きましたが、例によってグレシャムの法則が働き、低品位の文字金銀はたちまち普及します。

 加えて銅銭の寛永通宝が不足し銭高になっていたため、元文4年(1738年)から新たな寛永通宝の発行が開始されます。ただし国内の銅が不足していたことから、銅銭ではなく鉄銭でした。これは旧来の銅銭より低価値とみなされ、かつては低品位の銅銭を指した「びた」の語は、この頃から鉄一文銭を指す語として用いられるようになります。庶民は鉄銭を茶碗や鍋釜の修繕に用い、「鍋銭」と呼んで蔑みました。

 一連の大規模な貨幣改鋳により、幕府財政はたちまち黒字となり、物価の上昇に合わせて米価も上昇しました。長年の懸念であった米価の下落問題はついに解決したのです。改鋳直後のインフレも次第に抑制され、貨幣供給量が増えたことで実質賃金も上昇し、物の売れ行きも良くなり、経済はデフレ不況を脱して(リフレーション)好循環を迎えました。そして文字金銀はこれ以後80年以上に渡って市場に流通することになります。

徳川宗春

 こうした中、元文4年(1739年)正月に尾張徳川家当主の徳川宗春が隠居謹慎を命じられました。幕府の質素倹約政策に反対し、領内の規制緩和を行っていたせいで吉宗の逆鱗に触れたとも伝わりますが、真相はやや異なるようです。遡って見ていきましょう。

 尾張徳川家は家康の9男・義直を祖とし、尾張一国と美濃・三河・木曽・近江・摂津等61万9500石(当初は47万石余)を所領とする、親藩筆頭格の大大名です。新田開発や木曽の木材の輸出により実高は100万石近くに達したともされ、財政に余裕があったことから領民への年貢率は五公五民の幕領より低く(四公六民)、百姓一揆も少ない恵まれた土地柄でした。徳川宗家が家継の早世で断絶しかかった時には、尾張徳川家の当主・継友が後継者候補にあがりましたが、前述のように紀州徳川家の吉宗が選ばれています。

 その継友が享保15年(1730年)11月に麻疹のため逝去すると、異母弟で陸奥国梁川やながわ藩主であった通春みちはるが跡を継ぎ、将軍吉宗より偏諱を授かって宗春と改名します。彼は生来派手好みで、名古屋入府や巡視の際は華美な衣装を纏い、城下では祭りや芝居を盛んに行わせ、遊廓の設立も許可しています。また彼は自身の政策方針を『温知政要』という著書にまとめて藩士に配布しましたが、そこには「行き過ぎた倹約や規制は民を苦しめる」とあり、幕府の質素倹約政策とは相容れないものでした。

 派手好みで遊興好きの殿様のもと、名古屋には商人が集まって大いに繁栄します。しかし、これは継友までの代で積み重ねられた財産あってのものでした。継友はケチでしたが、役職の整理や給与削減を行って支出を減らし、毎年2万8000両(1両20万円として56億円)もの黒字を計上しています。ところが宗春の代には2万7000両余の赤字に転じました。

 実際には帳簿をごまかしていて継友の代から赤字だったともいいますが、流石に宗春も反省し、享保20年(1735年)からは藩士の遊興博打を禁止し、遊廓を縮小するなど政策転換に乗り出します。元文2年(1737年)には藩財政を補填するべく領民から多額の借財を行いますが、翌年の累積赤字は14万7000両余にも達し、尾張藩は財政破綻寸前に追い詰められます。

 尾張藩御附家老の竹腰正武は、幕府老中の松平乗邑らとともに宗春の失脚を画策します。翌元文3年(1738年)6月、宗春らが参勤交代で江戸にいる時に藩領へ布告し、宗春在任中の命令を全て無効とすると宣言しました。そして半年後、吉宗は宗春に隠居謹慎を命じ、宗春の従弟で美濃高須藩主の松平義淳を新たな尾張藩主とし、偏諱を授けて徳川宗勝と改名させたのです。

 宗春は名古屋城三の丸屋敷を隠居所とし、25年後に逝去するまで悠々自適の生活を送りました。宗勝は藩政改革を行って質素倹約につとめ、8年後には黒字財政に戻すことに成功しています。延享2年(1745年)には松平乗邑が失脚し、吉宗も同年隠居して息子の家重に将軍職を譲りましたが、大御所として6年間実権を握り続けます。ただ延享3年(1746年)に中風(脳卒中)を患い、不自由な晩年を送りました。吉宗の没後、家重とその子・家治の時代に頭角をあらわしたのが、かの田沼意次です。

◆松◆

◆健◆

【続く】

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