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【つの版】度量衡比較・貨幣148

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

新たなインデックスを作成しました。

 スペイン継承戦争の後、フランスはスペイン・オーストリアを牽制するため英国と同盟を結びました。しかしフルーリー枢機卿のもと順調に国力を回復するフランスを諸国は脅威とし、英国はオーストリアと接近し始めます。

◆波◆

◆蘭◆


金権政治

 1727年に英国王ジョージ1世が崩御し、子のジョージ2世が即位しますが、「首相」こと第一大蔵卿のウォルポールは王室費を80万ポンドに引き上げてキャロライン王妃の歓心を買い、問題なく留任しました。続く総選挙でも、ウォルポールは政府機密費を選挙資金に流用して有権者を買収し、反対派を抑え込むことに成功しています。絵に描いたような金権政治ですが、彼は良くも悪くも現実主義者で、政治的安定と国内外平和を重んじる人物でした。それも倫理道徳的な理想論ではなく「戦争になれば戦費のため増税になり、有権者の支持を失って選挙で負けるから」という極めて実利的な理由です。

 彼の属するホイッグ党は絶対王政を廃し議会主権を重んじる中道左派で、貴族や非国教徒プロテスタント(長老派など)や新興ブルジョワ層の集まりですが、ウォルポール自身は貴族と庶民の間のジェントリ(郷紳)出身ゆえどの身分や教派とも公平に付き合うことができました。野党トーリー党でもジェントリ出身者は彼を仲間とみなし、根幹から拒絶はしませんでした。そして彼のもたらした国内外の平和と安定は英国に貿易・商業の振興を促し、のちの産業革命と大英帝国の基礎になったのです(国民的重商主義)。

 ただ政治的安定のため批判的言論を弾圧し、カネや官職をばら撒いて有権者を買収したので、理想主義者や文学者らには非常に嫌われたといいます。また選挙権を持たない一般庶民(英国でカネモチでもない一般庶民に選挙権や被選挙権が解放されるのは後世のことです)から税金を搾取することは厭わなかったため、彼らからも嫌われました。

英墺同盟

 この頃ウォルポール政権の外交を担当していたのは、ウォルポールの妹ドロシーの夫である北部(プロテスタント圏)担当国務大臣チャールズ・タウンゼンド子爵でした。彼は1725年以来フランス・プロイセンと同盟してオーストリアに対抗する政策をとっていましたが、同盟国への支援金がかさむ上に戦争の危険に繋がると野党から批判を受けていました。

 1727年に英西戦争が始まると、ウォルポールは外交による平和的解決を望み、タウンゼンドと対立するようになります。1728年にはプロイセンが英仏との同盟を解消してスペイン・オーストリア・ロシアと同盟しますが、翌年ウォルポールはスペインとセビリア条約を締結して英西戦争を終結させ、スペインを同盟国に抱き込みます。タウンゼンドはこれを不服として翌年辞任し、彼の先妻の弟で南部(カトリック圏等)担当国務大臣のニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホリスが外交政策を主導することになります。

 オーストリアとスペインの間にはイタリアの所領を巡ってなお対立が続きましたが、ウォルポールとニューカッスル公は仲裁を行います。1731年に関係各国は同意に達し、スペインがオーストリアの国事詔書(マリア・テレジアへの女系継承)を承認する代わりにパルマ・ピアチェンツァ公国を領有すること、オーストリアが英国の貿易を邪魔するオーステンド(東インド)会社を解消すること、英国がフランスとの同盟を解消してオーストリアと同盟を組むことで合意しました。これによりただちにフランスが英国と敵対関係に入ったわけではありませんが、両国関係は微妙なものとなります。

波蘭継争

 1733年2月、ポーランド王アウグスト2世(ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世)が崩御し、王位継承問題が持ち上がります。アウグストには36歳の嫡男フリードリヒ・アウグスト2世がおり、ザクセン選帝侯の位をただちに継承しますが、ポーランド王位は歴史的経緯により世襲ではなく、立候補者が貴族議会(セイム)により選ばれる選挙王制でした。ロシアはアウグスト2世に続いて親ロシア派政権を樹立させるべく、同年8月にポーランドへ軍隊を派遣し、議会を武力でもって脅しつけました。

 同年9月、かつてポーランド王位にあったスタニスワフ・レシチニスキが娘婿であるフランス王ルイ15世の支援を受けてワルシャワに帰還しました。アウグスト2世は実質ロシアの傀儡だったため、反ロシア派のポーランド貴族はこぞってスタニスワフを支持し、議会において国王に選出します。

 これに対し、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世はロシア、オーストリア、プロイセンの君主の支持をとりつけ、同年10月にロシア軍3万を伴ってワルシャワに進軍、スタニスワフとフランス軍を北方のダンツィヒに駆逐しました。ワルシャワはロシア軍に制圧され、議会はやむなくアウグストを新たなポーランド王に選出します(アウグスト3世)。ここにフランスと対フランス同盟による「ポーランド継承戦争」が勃発しました。

 先に武力でポーランド議会を脅したのはロシアですが、スタニスワフだってフランス軍の支援を受けており、かつてはスウェーデンの傀儡だったのですから、大義名分はどちらにあるとも言えません。関係各国の反応はまちまちで、英国では国王ジョージ2世がスタニスワフ側での参戦に乗り気(本国ハノーファーがプロイセンと領土紛争を起こしていたため)でしたが、国際平和を望むウォルポールに阻止されます。フランスはルイ15世とその取り巻きたちが乗り気だったものの、フルーリー枢機卿は無駄な戦だとして軍事費を削減し、ウォルポールと協調して平和裏に事を収めようと図りました。

戦線拡大

 スペイン王フェリペ5世は、この機に乗じて領土を拡大しようと兵を動かします。特にイタリアには英西戦争後の戦後処理で領土問題が残っていたため、フェリペ5世は同じブルボン王家のよしみでフランス王ルイ15世と同盟を結び、イタリアへ出兵しました。またルイ15世は9月にサルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ3世とも同盟し、ミラノ公国を含むロンバルディア(北イタリア)の支配権を約束します。かくして戦線はポーランドのみならず、ライン川からイタリアまで欧州の南北に拡大します。

 フランスは英国を刺激せぬようオーストリア領ネーデルラントには侵攻せず、スタニスワフが支援を待つダンツィヒにも1800ほどの兵を送るにとどまりましたが、ライン川戦線には8万もの常備軍を送り込んでロートリンゲン(ロレーヌ)を制圧せんとし、北イタリア戦線にも数万の兵を派遣してサルデーニャ軍とともにミラノを占領します。オーストリアは名将プリンツ・オイゲンらに常備軍を授けて反撃させますが、英国が中立に回ったこともあり劣勢に追いやられ、ロレーヌ、ミラノ、パルマ、ナポリ、シチリアを奪われてしまいます。スタニスワフは1734年6月末にダンツィヒでロシア軍に降伏しますが、フランス・スペイン・サルデーニャ連合はそれを補って余りある勝利をオーストリアに対して収めたのです。

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Europe_1740_en.png

 1735年に休戦条約が結ばれて平和が回復し、3年に渡る議論の末に領土の再編が図られます。ポーランド王にはアウグストが即位し、スタニスワフは王位を諦める代わりに、フランス王からロレーヌ公国とバル公領を与えられます。ただしスタニスワフが逝去した時、これらの領土はフランス王に返還することが定められました。ハプスブルク家の後継者マリア・テレジアの夫であるロレーヌ/ロートリンゲン公フランツ・シュテファンは代償としてトスカーナ大公国を相続し、スペインはナポリとシチリアを領有する代わりにパルマ公国をオーストリアに割譲します。またオーストリアはロンバルディアの領有を認められ、サルデーニャ王国は何も得られませんでした。

 英国はこの戦争に関わらず、一人の戦死者も出しませんでしたが、同盟国のオーストリアからは窮地にあって支援しなかったと白い眼で見られ、国際的威信が低下することは避けられませんでした。対するフランスはスタニスワフをポーランド王位につけられなかったものの、フルーリー枢機卿が回復した国力を発揮して久しぶりに領土を拡大し、大いに威信を高めます。フランス側について勝利したスペインも調子に乗り、貿易の利権などを巡って英国と対立を深めていくことになります。

◆皇◆

◆帝◆

【続く】

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