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【つの版】度量衡比較・貨幣149

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1733-35年のポーランド継承戦争において、フランスはスペイン・サルデーニャと結んでオーストリアを集中攻撃し、ロレーヌ公国をもぎ取ることに成功します。英国は中立を保ったものの、同盟国オーストリアを支援しなかったことで国際的威信が低下し、スペインにもナメられることになります。

1740年のヨーロッパ

◆Another◆

◆World◆


耳朶戦争

 ポーランド継承戦争の講和条約が締結された1738年春、英国とスペインの間である問題が勃発します。英国人船長のロバート・ジェンキンス大尉が、瓶に塩漬けにされた自らの左耳を議会に提出し、「これは7年前にカリブ海でスペイン人に捕まった時に切り落とされたものだ」と供述したのです。

 英国人とスペイン人の衝突は今に始まったことではありませんが、実利的平和主義者の英国首相ウォルポールはスペインとの全面対決を可能な限り回避しようとしており、英西戦争でジブラルタルが包囲された時でもカリブ海に派遣された英国艦隊には牽制の役目しか与えませんでした。またスペイン領と英国南海会社は貿易契約(アシエント)を結んでおり、アフリカ・南北アメリカ・欧州を結ぶ三角貿易への参入を許される代わりに、貿易利潤をある程度スペインに申告して上納することになっていましたが、ちょくちょく申告や上納をサボっていたうえ密貿易を行っていました。

 スペインは契約違反だとしてカリブ海諸島の沿岸警備隊に英国船の襲撃を許可し、船舶と積荷を強制的に没収させます。これは年に数件か10件程度ではあったものの、インガオホーとはいえ英国人はスペインに反感を抱き、弱腰外交のウォルポールを批難するようになります。ジェンキンスも1731年春にスペインに拿捕され、マストに縛り付けられて剣で片耳を切り落とされ、「お前の国王がやったとしても同じことをしてやる」と言われたというのです。当時の官報にはそう書かれていますが、当時はさほど注目されず、問題ともされませんでした。荒くれ者が喧嘩で耳や目を失うことはよくありますし、実際に密貿易をしていたのであればインガオホーです。

 それがなぜ今蒸し返されたかといえば、ウォルポール政権がこの頃弱体化していたからです。有権者(貴族・地主・富裕市民)にカネや利権や減税措置・関税撤廃をばら撒いて票を買い集め、反対派の意見を封殺する金権政治は健在でしたが、15年以上も同じ政権が続けば反対派も増えます。ことに非有権者は彼を嫌い、反政府系ジャーナリストも新聞や演劇によって誹謗中傷したため、ウォルポールは検閲や言論弾圧や買収によって反対意見を封じ込め、スパイ網を張り巡らせて国内外の反政府活動を監視していました。

 また1723年、ウォルポールは茶とコーヒーの輸入に課されていた高率関税を撤廃し、代わりに国内消費用のものに消費税を課しましたが、1732年にはタバコと葡萄酒についても消費税を課すことを計画します。これに対してロンドン商人層が一斉に反発し、英国各地で抗議デモが起きて政権を揺るがします。やむなくウォルポールは翌年4月に計画を撤回しますが、1734年の総選挙では与野党の議席差が100議席まで縮まっていました。この勢いに乗じて、野党(トーリー党)はカリブ海でのスペインの行動を蒸し返し、ウォルポールの弱腰外交を批難して政権交代を訴えた、というわけです。

 野党はスペインに賠償要求を行うことを求め、ウォルポールは戦争が不可避であるとして反対し、1年半ほど与野党間の綱引きが続きます。野党や反ウォルポール派はこの間に世論に訴えかけ、不満が鬱積していた庶民や商人層からは対スペイン報復論が噴出します。1739年10月、ウォルポール政権はついに折れ、スペインに宣戦布告しました。何度目かの英西戦争ですが、発端が奇妙だったので、世にこれを「ジェンキンスの耳の戦争」と言います。

 とはいえ国内のガス抜きのために始まったようなものですから、ウォルポールにすれば例によって小競り合いにとどめ、適当なところで切り上げれば済みます。ところが、欧州では同時期に大戦争が勃発しました。

墺地継争

 この頃、東欧では何度目かの露土戦争(ロシア・オスマン帝国の戦争)が終結しました。オーストリアはロシアの優勢をみて東方に領土を拡大せんと図り、1737年にオスマン帝国に宣戦布告しましたが、敗北を喫して逆にベオグラードを失う始末でした。敵国フランスはスペイン・プロイセン・スウェーデンと同盟を組んで勢力を強めており、同盟国のはずの英国もロシアもオランダも頼りにならず、オーストリアは劣勢にありました。

 1740年10月、オーストリアの君主である神聖ローマ皇帝カール6世が56歳で崩御します。一族に相続可能な男子がいなかったためハプスブルク家の男系は断絶しますが、生前に国事詔書で定めていた通り、家督は娘のマリア・テレジアが継承し、オーストリア大公、ハンガリー王位などの君主位を相続します。ただ神聖ローマ皇帝には男性しか即位できないため(初代のカール大帝は東ローマ帝国で女帝が立ったのが理由でローマ司教に「ローマ皇帝」として担ぎ上げられています)、彼女の夫で現トスカーナ大公のフランツ・シュテファンが継承することになりました。彼はフランスに世襲の公国を奪われるまでロートリンゲン(ロレーヌ)公でしたから、両家は合体してハプスブルク=ロートリンゲン家と呼ばれ、現代まで続いています。

 しかし神聖ローマ皇帝に即位するには、帝国内の有力諸侯「選帝侯」からローマ王(事実上の皇帝)として承認(選定)されねばなりません。これまで数百年間ハプスブルク家がほぼ世襲してきた帝位が、娘婿とはいえ他家に移ろうとしているのですから、選帝侯たちはこれに乗じて反旗を翻し、諸国と結んでオーストリアから領土をむしり取ろうと行動を開始しました。

 ブランデンブルク選帝侯兼プロイセン王のフリードリヒ2世は、同年5月に即位したばかりでしたが、父から引き継いだ8万の常備軍と健全な財政に恵まれた国を保有し、オーストリアとの間にシュレージエン(シレジア)を巡って領土紛争を抱えていました。ここはポーランドの南、ボヘミア(チェコ)の北にあり、オーデル(オドラ)川のほとりにあって交通の要衝でもあり、豊かな穀倉地帯と鉱物資源に恵まれていました。フリードリヒ2世は国事詔書を承認する見返りとして、このシレジアの領有権を求めたのです。マリア・テレジアとフランツ・シュテファンは当然拒絶しました。

 そこでフリードリヒ2世は、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世(ポーランド王アウグスト3世)と同盟を組み、オーストリアに圧力をかけます。彼らはともに先帝カール6世の姪を娶っており、ハプスブルク家に対して遺産相続の権利を持つと称して、シレジアやボヘミアの割譲を要求しました。これは国事詔書では禁止されていましたが、勝てば官軍です。当然彼らの背後には大国フランスとロシアがついていますし、スペインやプロイセンも味方なのです。かくして8年におよぶ欧州大戦、オーストリア継承戦争が勃発しました。

 1740年12月、フリードリヒ2世は2万7000の軍を率いて宣戦布告なしにシレジアに電撃侵攻し、油断していたオーストリアの駐留軍8000を蹴散らして、翌年1月末までにほぼ全域を占領しました。プロイセン軍の死者は僅か22名という圧勝ぶりです。オーストリア軍は3月に慌てて反撃を始めますが迎撃されて進軍できず、6-7月にはフランス・スペインがプロイセン・バイエルンによる領土割譲要求を支持すると表明します。

 1741年8月、ついにフランス軍がライン川を渡り、ドナウ川でバイエルン軍と合流してウィーンへ進軍します。スペインも北イタリアのオーストリア領へ侵攻を開始し、ザクセン=ポーランドもオーストリアとの同盟を解消してフランスと同盟します。英国はオーストリア支持を表明していたものの、スペインとの戦争が長引き、ハノーファー防衛まで手が回らないとして中立を宣言します。孤立無援のオーストリアは絶体絶命の危機に陥りました。

◆王位◆

◆争奪◆

【続く】

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