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【つの版】度量衡比較・貨幣150

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1740年、神聖ローマ皇帝カール6世が崩御し、娘のマリア・テレジアが後を継ぎます。周辺諸国はこれに乗じてオーストリア・ハプスブルク家から領土をむしり取るべく動き始めました。オーストリア継承戦争の始まりです。

◆Fridericus◆

◆Rex◆


普墺角逐

 1740年12月、プロイセン王フリードリヒ2世は2万7000の軍を率いて宣戦布告なしにシレジアに電撃侵攻し、油断していたオーストリアの駐留軍8000を蹴散らして、翌年1月末までにほぼ全域を占領しました。プロイセン軍の死者は僅か22名という圧勝ぶりです。オーストリア軍は3月に慌てて反撃を始めますが迎撃されて進軍できず、6-7月にはフランス・スペインがプロイセン・バイエルンによる領土割譲要求を支持すると表明します。

1740年のヨーロッパ

 1741年8月、ついにフランス軍がライン川を渡り、ドナウ川でバイエルン軍と合流してウィーンへ進軍します。スペインも北イタリアのオーストリア領へ侵攻を開始し、ザクセン=ポーランドもオーストリアとの同盟を解消してフランスと同盟します。英国はオーストリア支持を表明していたものの、スペインとの戦争が長引き、ハノーファー防衛まで手が回らないとして中立を宣言します。孤立無援のオーストリアは絶体絶命の危機に陥りました。

 この非道な侵略戦争に対し、23歳のマリア・テレジアは敢然と立ち向かいます。夫のフランツは弱腰で、プロイセンとの和平交渉を秘密裏に行おうとしますが、マリア・テレジアはこれを断固拒絶し、入り婿で立場の弱いフランツにハプスブルク家の政治に関して口出しさせないように厳命しました。また同年3月には待望の男子ヨーゼフを出産し、国内の士気は回復します。

 マリア・テレジアが頼りとしたのは、自らを女王に戴くハンガリー王国でした。オーストリアとは言語も文化も慣習も違い、歴史的経緯によりハプスブルク家の君主を国王に戴いていたものの、実権は貴族議会が握り、しばしば反乱を起こしていました。彼女は幼い我が子を伴ってハンガリー王国の首都ブラチスラヴァ(現スロバキアの首都)に赴き、議会を必死に説得し、数ヶ月の折衝の末に特権を認めて全面的な協力を取り付けます。

 また10月には英国の仲介でプロイセンと秘密交渉を行い、シレジアの大部分を割譲することで停戦することを約束させました。プロイセンはフランスやバイエルンをこれ以上支援する気もなく、当初の目的は達成したとして承諾します。フランス・バイエルン連合軍はすでにウィーン近郊まで迫っていましたが、フランス側にはオーストリアを滅亡させる意図はなく、バイエルン軍とともに北に向かってボヘミアに侵攻します。

 これにはザクセン軍も加わってボヘミアは蹂躙され、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトはプラハにおいてボヘミア王として即位します。翌1742年1月には選帝侯会議によりローマ王に選定され、弟のケルン大司教によりフランクフルト・アム・マインで戴冠され、神聖ローマ皇帝(カール7世)に即位しました。ハプスブルク家は数百年ぶりに帝位を失ったのです。プロイセンも乗り遅れてはならじとオーストリアとの密約を公表して反故にし、モラヴィア(チェコ東部)やボヘミアに侵攻して領土を拡大しました。

 しかし連合軍はここで足並みを乱し、モラヴィアの占領に失敗します。フランスもバイエルンもザクセンもプロイセンも利権や領土を巡って争い合い協力できず、ウィーンを攻撃してハプスブルク家を滅ぼすこともできませんでした。この間にマリア・テレジアはハンガリーと組んで反撃に転じ、夫の弟カール・アレクサンダーと将軍ロプコヴィッツを元帥に任命、5月に3万の兵を授けてモラヴィア経由でボヘミアに進軍させます。しかし彼らはプロイセンとフランスの軍にそれぞれ敗れ、オーストリアの危機は継続します。

普墺講和

 これを機会に、英国のプロイセン全権公使カーマイケルは改めて両国の仲裁を行い、講和を呼びかけます。英国ではウォルポールが総選挙に敗北して失脚し、反ウォルポール派が政権を握っていましたが、英国王室の実家ハノーファー選帝侯国はプロイセン(のブランデンブルク選帝侯国側)と隣接しており、下手に大陸での戦争に関われば大変なことになります。スペインの同盟国フランスも敵に回した英国にとって、敵が少なくなるに越したことはありません。また英国はオーストリアに対フランスのため多額の軍資金を拠出しており、係争地のシレジアの税収を債権の担保としています。プロイセンもオーストリアも状況判断し、6-7月に講和条約を締結しました。

 これによりプロイセンは対オーストリア戦争から離脱し、次の皇帝選挙で(ブランデンブルク選帝侯として)フランツ・シュテファンに投票することを約束する代わりに、シレジアの大部分とグラッツ伯領を割譲されました。また英国とオランダが有していたシレジアの税収を担保とするオーストリアへの債権170万ターラーは、領土ともどもプロイセンが引き受けます。そしてオーストリアはフランス・バイエルン・ザクセン連合軍が居座るボヘミアへ戦力を集中することが可能になりました。

 ビビったザクセン軍はボヘミアから撤退し、オーストリアと講和します。孤立したフランス・バイエルン連合軍はオーストリア・ハンガリー連合軍による激しい反撃を受け、1742年末にボヘミアから撤退します。マリア・テレジアはボヘミアを奪還し、翌1743年5月にはボヘミア女王に即位しました。さらには皇帝カール7世の本国バイエルンにも侵攻して占領し、ライン川沿いのフランクフルト・アム・マインまでカール7世を退かせます。フランス軍は這々の体で占領地から逃げ去り、ライン川の西のアルザスまで撤退しました。帝位とシレジアは失ったものの、マリア・テレジアは男顔負けの指導力を発揮してハプスブルク家を守り抜き、外敵を撃退したのです。

 フランスではフルーリー枢機卿が1743年1月に90歳近い高齢で逝去し、前年に英国ではウォルポールが失脚していたため、英仏ともに戦争に歯止めをかける実利的平和主義者の勢力が衰えます。フランス王ルイ15世は政治に興味がなく、王妃マリー・レクザンスカへの寵愛も衰え、公然と愛妾を置いて国政に口出しさせる有り様でした。愛妾たちは関係を持つ貴族らの意見を王に吹き込み、国政を牛耳る存在となっていきます。

戦争激化

 しかし、これで終わったわけではありません。カール7世は本国バイエルンだけでも奪還せねば面目が立ちませんし、オーストリアが勢力を強めればプロイセンに「シレジアを返せ」と迫ることは予想できます。プロイセン王フリードリヒ2世はバイエルンやフランスと再び手を結び、スウェーデン王に妹を、ロシア皇帝に家臣の娘を嫁がせて背後を固め、対オーストリア同盟を構築します。一方オーストリアは英国・ハノーファー・オランダ・サルデーニャと同盟し、フランスからロレーヌ/ロートリンゲンを奪還すべく1744年7月にライン川を渡ってアルザス/エルザスへ侵攻しました。

 オーストリアがロレーヌ/ロートリンゲン奪還に目を向けている隙に、プロイセンはボヘミアに侵攻し、9月にはプラハを占領します。しかしフランス軍は8月にルイ15世が重病に罹ったこともありやる気がなく、オーストリア軍はただちに反転し、追撃を受けることなくボヘミアに進軍しました。プロイセン軍は非協力的なボヘミアに孤立して兵站を寸断され、10月には撤退を開始します。オーストリア軍は勢いに乗じてシレジアまで攻め込みますが、長期行軍で疲弊していたこともあり撤退しました。プロイセンはシレジアを確保し、カール7世にバイエルンを奪還させ、フランスにロレーヌを確保させたものの、兵の半分を戦死や脱走で失ったのです。

 翌1745年1月、オーストリアは英国・オランダ・ザクセン/ポーランドとワルシャワ同盟を締結し、プロイセンを囲い込みます。ポーランドはロシアの属国ですから、オーストリアは大国ロシアをも反プロイセン側に引き込んだのです。神聖ローマ皇帝カール7世はバイエルンに戻ったものの失意のうちに病死し、跡を継いだ息子マクシミリアン3世ヨーゼフ(母方がハプスブルク家)はただちにオーストリアと講和します。フランス・スペインも英国を敵に回しており、プロイセンを支援する余裕もありません。

 孤立したプロイセンは必死に兵力をかき集め、再びシレジアに侵攻してきたオーストリア軍を6月に撃退します。5月には南ネーデルラント(ベルギー)でフランス・スペイン連合軍がオーストリア・英国・オランダ連合軍に勝利をおさめており、英国はまたもプロイセンとオーストリアに休戦を呼びかけます。マリア・テレジアはロシアを抱き込んだこともあり休戦提案を突っぱねますが、プロイセンは比較的弱いザクセンに集中攻撃をかけて戦線離脱させ、ロシアが参戦する前にオーストリアとの講和に持ち込みました。

 1745年12月、ザクセン選帝侯領の首都ドレスデンで結ばれた条約により、プロイセン/ブランデンブルク選帝侯はフランツ・シュテファンの神聖ローマ皇帝即位を承認する代わりに、シレジアの割譲を確定させ、ザクセンから100万ターラーの賠償金を獲得しました。この勝利により、プロイセン王フリードリヒ2世は「大王」と称えられることになります。

◆Der◆

◆Hohenfriedberger◆

【続く】

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