【つの版】度量衡比較・貨幣157
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
七年戦争終結後、英国議会は多額の債務と防衛費の足しにするため、北米植民地に対し課税を試みます。しかし植民地側は「代表なくして課税なし」として反発し、次第に独立への動きを強めていくことになります。
◆茶◆
◆会◆
湯森諸法
1767年、英国の財務大臣チャールズ・タウンゼンドは北米植民地に対する強硬的な諸政策「タウンゼンド諸法」を制定します。これは砂糖法や印紙法をはねのけた植民地に対し、英国議会による課税と法的な統制を徹底するためのものでした。彼らは「直接税ゆえの反対であり、間接税ならよかろう」との甘い見通しから、茶・紙・鉛・塗料・ガラスなど北米植民地で生産されていない英国の商品に対して関税を課します。またオランダやフランスから密輸される茶に対しては、英国への茶の輸入にかかる25%もの関税を事実上撤廃して価格を押し下げ、植民地への輸出価格を下げました。
一連の関税により年4万ポンド(1ポンド≒10万円として40億円)の歳入増加が見込まれ、北米植民地に駐屯する英国軍の支出(年20万ポンド)の補助に充てられますが、タウンゼンドはこれを改め、「植民地総督と判事の俸給に充てる」とします。総督と判事はそれまで植民地の議会から俸給が支払われていたため、植民地に対して強硬姿勢をとることができませんでしたが、これにより植民地議会から独立した存在として、英国議会の意向を反映させられます。植民地側は負担が減るものの行政と司法の独立性が抑え込まれ、かつ英国議会による代表なしの課税という前例を作られてしまうわけです。
さらに北米植民地のボストンには関税局委員会が設立され、税関職員は捜査範囲を特定しない援助令状により、密貿易に関わる家屋や事業者への強制捜査権を与えられました。植民地人がこれを不服として裁判を起こす場合、ハリファックス、ボストン、フィラデルフィア、チャールストンの4都市に置かれた副海事裁判所(1764年まではハリファックスのみ)で受け付け、陪審員を置かないと定められます。これは英国議会による貿易統制を徹底し、司法の独立性をも植民地から取り上げる措置でした。
またニューヨーク植民地議会は1765年に定められた宿営法(英国軍を駐屯地の住民が世話する)を「英国憲法に反する不法な課税だ」として拒んでいたため、これに対して「宿営法に応じて財政負担を行わねば議会の権限を停止する」と通告します。やむなく議会は資金を供出しこれを回避しますが、宿営法を不法だとする立場は崩していません。タウンゼンド本人は1767年9月に急死しますが、これらの法律は植民地に大きな反発を招き、暴動や英国商品のボイコットが多発しました。英国は大砲を積んだ軍艦をボストンなどに派遣して軍を駐屯させ、植民地を牽制します。
1770年3月には、ついにボストンに駐屯する英国兵と植民地の間で武力衝突が発生します。少年に侮辱された英国兵が口論の末に彼を殴り倒し、現場に集まってきた群衆が怒りを爆発させ、彼らを取り囲んだのです。英国兵は恐れて税関に避難しますが、数百人の群衆に迫られて恐慌状態となり、発砲許可が出ていないのに発砲して5名が死亡、6名が負傷しました。この事件の影響もあり、タウンゼンド諸法は同年4月に一部撤廃されましたが、茶に対する課税や関税局は存続し、対立は深まっていくこととなります。
政略結婚
同1770年5月には、ハプスブルク家女当主マリア・テレジアの娘マリア・アントーニア、フランス名マリー・アントワネットがフランス王太子ルイ(のちのルイ16世)に嫁いでいます。この頃の欧州を見てみましょう。
七年戦争/フレンチ・インディアン戦争/カーナティック戦争に敗北した結果、フランスは莫大な負債を抱えたうえ、北米や西インド諸島、インドにおける多くの植民地を英国に奪われてしまいます。英国も莫大な負債を抱えていますが、オーストリア継承戦争に続いて領土拡大を果たせなかったばかりか、事実上の敗戦国となったフランスの財政状況はさらに深刻でした。
七年戦争終結の翌年、1764年には、国王ルイ15世の公妾(愛人)ポンパドゥール夫人が結核により逝去します。彼女に引き立てられて事実上の宰相となっていた大臣ショワズールは、その後も政権を握り海軍再建につとめますが、穀物取引の自由化など財政改革にも着手したものの、効果はあがりませんでした。また教皇に忠誠を誓う国際組織イエズス会の活動を禁止し、教会組織を国王の権威のもとに置こうとしますが、この件については教皇や王太子ルイ・フェルディナンと対立しています。
1765年にその王太子ルイ・フェルディナンが薨去し、彼の3男で11歳のルイ・オーギュストが王太子に立てられます。ショワズールは勢力基盤を固めるべく、オーストリアの女君主マリア・テレジアと交渉を重ね、彼女の娘を新たな王太子に嫁がせる計画を進めました。
マリア・テレジアは同年に夫のフランツを亡くし、長男ヨーゼフを次の神聖ローマ皇帝に擁立して共同統治を行っていましたが、プロイセンからシレジアを奪還するという目的はまだ諦めていませんでした。しかし独力では難しく、英国やロシアが味方にならないとなれば、再びフランスと手を組むしかありません。腐っても欧州随一の大国ですから脅しにはなるでしょう。
マリア・テレジアと夫フランツの間には多くの子女がいましたが、当時生存していた娘らのうち次女マリア・アンナは健康上の理由もあって結婚を望まず、四女マリア・クリスティーナは1766年にザクセン公子アルベルト・カジミールと恋愛結婚しています。五女マリア・エリーザベトはルイ15世との再婚話もありましたが1767年に天然痘に罹って美貌を失い、六女マリア・アマーリアは恋愛結婚を認められず1769年にパルマ公に嫁がされ、九女マリア・ヨーゼファはナポリ王に嫁ぐ予定でしたが、1767年に天然痘で薨去しています。そのため十女のマリア・カロリーナが急遽ナポリ王に嫁ぎ、末娘で十一女のマリア・アントーニアに白羽の矢が立ちます。
1769年6月、ルイ15世からマリア・テレジアに文書が送られ、15歳の王太子ルイ・オーギュストと14歳のマリア・アントーニアの婚約が決定されました。翌1770年4月、ウィーンにおいて代理人による結婚式が行われた後、マリア・アントーニアはフランスに赴いてヴェルサイユ宮殿に入り、5月に結婚式が挙行されました。これより彼女はフランス王太子妃となり、フランス名「マリー・アントワネット」で呼ばれることとなります。
公妾専横
しかし、マリー・アントワネットはルイ15世の新たな公妾デュ・バリー夫人と対立することになります。彼女は低い身分の娼婦でしたが、貴族の愛人となって社交界での立ち居振る舞いや話術を身に着け、七年戦争後に失脚していたリシュリュー元帥により国王に紹介されました。老齢の国王は彼女を気に入り、1768年に王妃マリー・レクザンスカが薨去した翌年に公妾としたのです。ルイ15世と王妃の娘たちであるアデライード、ヴィクトワール、ソフィーらは彼女を毛嫌いし、アントワネットを味方に引き入れました。
デュ・バリー夫人自身は政治に興味がありませんでしたが、女同士の仲違いは廷臣を巻き込み、アントワネットの後ろ盾であるショワズール派と、デュ・バリー夫人を奉じる反ショワズール派の対立に発展します。またショワズールは国王に批判的なパリ高等法院に迎合的であったため、国王は彼を疎んじ、1770年12月に罷免してしまいました。さらに国王は大法官モプーを登用し、パリ高等法院を改革して弱体化させ、王権を相対的に強化します。
これに対し、ショワズール派と高等法院の法服貴族らはデュ・バリー夫人を誹謗中傷し、彼女を公妾とする国王の権威も失墜します。彼女を紹介したリシュリュー元帥はラングドック総督になったものの中央政治からは遠ざけられ、彼の甥のデギュイヨン公爵がモプーらとともに政権を握ります。
このような状況では、オーストリアとフランスが手を組んでプロイセンからシレジアを奪還するというマリア・テレジアの計画はうまくいきそうにありません。まもなくロシア、プロイセン、オーストリアは中東欧における勢力均衡をはかるため、ポーランド分割に乗り出すことになります。
◆薔◆
◆薇◆
【続く】
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