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【つの版】度量衡比較・貨幣156

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 七年戦争終結後の1760年代から70年代にかけて、英国では産業革命が始まります。英国は欧州諸国の混乱を尻目に、経済力と海軍力で世界を支配する帝国へとのし上がっていくことになりますが、英国の北米植民地はこの頃に独立運動を開始しています。

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境界宣言

 1763年2月のパリ条約により、英国とフランスの戦争は終結し、北米におけるフランス側の植民地は英国に割譲されます。しかしフランス側にも英国側にも多数の先住民の諸部族が味方しており、フランスが敗れたからといって、彼らが英国と講和して友好関係を結んだわけではありません。長年にわたり行われた土地や民の奪い合い、虐殺、疫病の蔓延などにより、先住民と入植者の間には互いに強い敵対感情が横たわっていました。英国の北米総督アマーストも先住民に対して圧政を行い、反感を買っています。

 同年5月、オタワ族の酋長ポンティアック(オブワンディヤグ)らによる英国領デトロイト砦への襲撃が始まり、これに呼応して各地で先住民の襲撃が相次ぎました。入植者らは必死で反撃しますが、先住民は数の上で多く、フランスや英国との交易で入手した銃で武装し、馬に乗っていました。入植者は毛布に天然痘の膿をなすり付けて贈るという邪悪な作戦を行いますが、長年ヨーロッパ人と接触してきた先住民には効果が薄かったようです。

 同年10月、英国首相グレンヴィルは国王ジョージ3世の名で「1763年宣言」を行います。これは広大な北米植民地を組織化し、土地の購入や入植、先住民との交易について規則を定め、先住民との関係を安定させることを目的とするものです。これにより北米東部のアパラチア/アレゲーニー山脈が英国と先住民の(暫定的な)境界線とされ、入植者はその西への入植や移動、私的な土地購入を禁止されます。またこれ以後は王室(の許可を得た役人)が先住民との土地取引を独占すると取り決められました。政治的には英国の版図のうちであっても、先住民の領土は彼らの所有物とみなされたのです。

 これに対し、すでにアパラチア山脈の西に土地を所有していた入植者らは「自分たちの権利が侵害された!」と激怒します。英国としては七年戦争に従軍した兵士たちに土地を公平に分配するため、政府による一括購入を図ったものでしたが、入植者や投機家の働きかけにより境界線は徐々に西へ移動していき、先住民との関係はこじれ続けることになります。

 新しく獲得されたケベック(五大湖周辺)、フロリダ(旧スペイン領、西部はフランス領ルイジアナの一部)、およびカリブ海のグレナダ諸島(旧フランス領)には各々に植民地政府が設立され(フロリダは東西に分割)、英国政府の指名する総督あるいは評議会の下で議会議員を選出することが認められます。また英国や植民地の法に基づいて地域固有の法律・条令を制定することが許可され、これらの植民地で生まれた者は英本国で生まれた者と同等の権利を有すると定められ、民事・刑事裁判所が設立されました。当時としては先進的ですが、これらの権利は北米東部諸州の入植者が長年の政治運動で獲得したものであるため、彼らの反感を買うことにもなります。

ルパート・ランド

 なお、ケベックの北にはハドソン湾会社が管理する広大な英領ルパート・ランドが1670年から存在しています。同社は「ハドソン湾に流入する全ての河川の流域における毛皮取引の独占権」を王室から与えられていますが、名目上の版図は広大でも実際の入植地は拠点となる港程度しかないため、七年戦争後も特に変更なく存続しました。これらの地域から購入された毛皮は、入植者の間でも一種の通貨として流通しています。

北米課税

 英国は七年戦争/フレンチ・インディアン戦争に勝利して多くの海外領土を獲得したものの、その代償として多額の国債を抱えていました。七年戦争前の国債は7500万ポンド(1ポンド≒10万円として7兆5000億円)でしたが、七年戦争末期の1763年1月には1億2260万ポンド(12兆2600億)から1.3億ポンド(13兆円)、当時の税収総額の半分にも膨れ上がっています。その後もポンティアック戦争など紛争が続き、防衛のためには植民地に軍隊を駐屯させざるを得ず、その維持費だけでも年20万ポンド(200億円)かかり、英国財政は破綻寸前でした。これを解決するには増税しかありません。

 1764年4月、英国議会は「砂糖法」を制定しました。これは1733年に制定された「廃糖蜜法」を強化したものです。廃糖蜜(モラセス)とは粗糖などの原料から白い砂糖を精製する時に出る黒い液体で、西インド諸島ではこれを蒸留してラム酒を作り、消費・輸出していました。のちこれは大西洋三角貿易に組み込まれます。すなわち西インド諸島から輸出された廃糖蜜が北米植民地でラム酒に加工され、このラム酒が英本国へ輸出され、英国商人がこれを積荷として西アフリカに輸出し、黒人奴隷を購入します。そして奴隷は大西洋を渡って西インド諸島に送られ、サトウキビ農園の労働力として購入される、というサイクルが生まれたのです。奴隷は大量に消費されて死にますが、この悪辣なサイクルは英国に莫大な富をもたらしていました。

大西洋三角貿易

 しかし黒人奴隷を用いたサトウキビのプランテーションは英領以外の西インド諸島や南米でも盛んでしたから、英国の北米植民地の貿易商は原料を安くするため、これらの地域から格安で廃糖蜜を購入(密輸)していました。廃糖蜜法はこれを取り締まり、英領西インド諸島の利益を保護するため制定されたもので、英領以外の植民地から輸入される廃糖蜜に対して、1ガロン(アメリカ液量ガロンとして3.785リットル余)あたり6ペンス(1ポンド=20シリング=240ペンス≒10万円として6ペンス≒2500円)の関税を課すと定めていました。しかし本国から遠いこともあり、貿易商や税関の役人は結託して廃糖蜜法を無視し、関税を納めようとしませんでした。なにせ莫大な利益ですから、下手に納税を迫れば民間暴力や暗殺者が飛んできます。

「砂糖法」はこれを強化し、関税率を1ガロンあたり3ペンス(1250円)に減額する一方で徴税の強制力を強めたもので、砂糖や糖蜜のみならずワイン・コーヒー・衣類・木材などにも課税対象を広げました。また商船の船長には積荷の詳細な目録を準備し、照査を受けることが義務付けられ、違反者は現地での陪審員裁判ではなく、本国の副海事裁判所に委ねると定められます。グレンヴィル内閣はこれにより毎年推計7.8万ポンド(78億円)の歳入増加が見込めると試算しましたが、植民地に軍隊を駐留させるための防衛維持費だけでも年間20万ポンドかかるのですから、多少の負担増は耐えてもらわねば本国が困ります。しかし植民地では当然大きな反発が起き、貿易商やラム酒製造販売業者をはじめ、各方面に経済的な損失が出始めます。

 同年、英国議会は新通貨法を制定し、植民地における紙幣発行の禁止および戦時紙幣の回収などを定めます。英国は重商主義政策により本国への貨幣の一方的流入をはかっていたため、植民地は慢性的な通貨不足に悩まされていました。そのため植民地は独自の貨幣を鋳造・発行したり、フランス領やスペイン領から外貨を輸入したり、地域銀行を設立したりしますが、英本国はこれを禁止し続けていたのです。また同年には「宿営法」が定められ、英国の兵士はその駐留する植民地の住民が世話するように命じられたため、植民地の負担は増える一方となります。

 翌1765年3月には「印紙法」が英国議会で制定され、北米植民地における全ての出版物や証書、許可証、トランプのカードなどに有料の収入印紙を貼ることを義務付けます。17世紀オランダでは物品税の納税証明を文書に型押し(エンボス)したり、直接印刷したりすることが行われていましたが、それ自体を紙片にして貼り付けることが始まったのは英国が初めてです(郵便切手は収入印紙の一種として1840年に発明されました)。

植民反発

 英本国による一方的な課税に対し、植民地の法律家らは法理論に基づいて反対論を唱えました。植民地人は英本国人と同じ権利を持ち、同じ先祖を持ち、言語・宗教・文化においても同じであるのに、本国の議会に代表を送り込めず(議席を持てず)、ゆえに課税に反対することすら許されないのは、古来の英国法によれば不法・違法であるとしたのです。これは「代表なくして課税なし」という標語として人口に膾炙しました。一般の植民地人も英国商品のボイコットや暴動、脅迫、暴力によって不法な課税に反対します。

 また1764年には、北米植民地南部のノースカロライナ州で「世直しの戦争」と呼ばれる暴動が勃発しています。これは英本国による課税に対する反発というより、地域の富裕層と癒着して私腹を肥やす地方役人に対する下層階級の反乱で、1771年まで続きました。

 英国商品のボイコットにより、1764年には225万ポンド(2250億円)あった北米植民地の輸入高は、翌1765年には194万ポンドと31万ポンド(310億円)も減少しました。本国への経済的打撃は大きく、弾圧すべく軍隊を送ればますます財政が圧迫されるとして、英国議会はようやく北米植民地への課税を取り下げます。また1765年7月には首相グレンヴィルも国王と対立して罷免されており、ロッキンガム侯が首相に任命されて組閣します。

 1766年、ロッキンガム侯内閣は砂糖法と印紙法を撤廃し、糖蜜にかかる関税は英国産にしろ外国産にしろ1ガロンあたり1ペニーに引き下げられます。また本国の権威を守るため「英国議会はいかなる場合でも植民地に対する統治権を有する」と宣言しますが、植民地人の反発を買っただけでした。

 同年7月にロッキンガム侯も罷免され、安定政権を望む国王ジョージ3世により、植民地に対して宥和的なウィリアム・ピットが事実上の首相に任命されて組閣します。しかし彼は貴族に叙せられて貴族院議員になったため庶民院での人気を失い、躁鬱病を発症して政治能力を失い、対植民地強硬派閣僚が実権を握る羽目に陥ります。1767年、財務大臣タウンゼンドは北米植民地に対する強硬的な諸政策「タウンゼンド諸法」を制定し、さらなる植民地側の反発と武力衝突を招くことになります。

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【続く】

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