【つの版】度量衡比較・貨幣158
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
七年戦争終結後、英国では産業革命が始まりますが、北米植民地では課税に対する反対運動が高まり武力衝突に発展します。同じ頃、欧州ではフランスにオーストリア(ハプスブルク家)からマリー・アントワネットが嫁ぎ、ポーランド分割が始まろうとしていました。経緯を見ていきましょう。
◆波◆
◆蘭◆
波蘭反乱
ポーランド王国とリトアニア大公国は、1569年に同君連合を結んで広大な連邦を形成し、北はバルト海沿岸から南はカルパチア山脈まで、西はポズナンから東はザポロージャまでに及ぶ地域を版図としました。1610年には一時モスクワを陥落させ、1618年には推定面積99万km2、人口1200万人に達し、東のモスクワ・ロシアや南のオスマン帝国を脅かしました。
しかし栄華は長くは続かず、1648年にウクライナで勃発したフメリニツキーの乱を契機として、周辺の大国であるロシア、オスマン帝国、スウェーデンがポーランドを巡ってしのぎを削る乱世「大洪水時代」に突入します。17世紀後半には国王ヤン3世のもと勢力を回復させ、オスマン帝国をドナウ川の南へ追い払いますが、この間に周辺諸国が勢力を強め、ポーランドを傀儡化し始めます。18世紀初めの大北方戦争の結果、スウェーデンはポーランドから追い出され、ポーランドはロシアの保護国に成り下がります。
1733年に勃発したポーランド継承戦争により、ロシアはフランスが擁立した反ロシア派の国王スタニスワフ1世レシチニスキを退け、親ロシア派のザクセン選帝侯アウグストを国王に擁立します。七年戦争終結直後の1763年10月にアウグストが世を去ると、息子のフリードリヒ・クリスティアンが跡を継ぎますが、同年12月に天然痘のため41歳で急死します。彼の子フリードリヒ・アウグスト3世はまだ13歳であったため、ロシア女帝エカチェリーナ2世はポーランドの国王選挙に介入し、愛人スタニスワフ・ポニャトフスキを王位につけます(スタニスワフ2世アウグスト)。
ロシアの在ポーランド全権大使レプニンは、女帝の命を受けてポーランドの保護国化を進め、プロテスタントやカトリックからなる親ロシアの党派を複数結成させてポーランドの国会(セイム)を牛耳らせます。そして1767年から翌年にかけて開催された国会では、ロシア軍が議場を包囲して脅しつける中、ポーランドを正式にロシアの属国とする法案が可決されます。反対派は直ちにロシア軍によって逮捕・粛清される始末でした。
反ロシア派の貴族や正教の聖職者らは現ウクライナ西部の街バールに集結し、反政府武装組織「バール連盟」を結成しました。ロシアとポーランドはこれを鎮圧すべく軍を派遣し、ウクライナのコサックに対しても動員をかけます。しかしこの時「ロシアはウクライナの正教徒の庇護者であり、ポーランドに対する反乱を支援する」という偽情報が出回り、多数の農民やコサックが武装蜂起しました。彼らはトルコ語ハイドゥク(盗賊)が訛ったハイダマーカ、あるいはウクライナ語で「刺殺人」を意味するコリーイと呼ばれ、ポーランド政府を支援するロシアを困らせます。
連盟支援
バール連盟への参加者はウクライナ、リトアニア、ポーランド東南部にも現れ、連盟は各地でロシア軍と戦いつつ、諸外国へ支援を要請します。オスマン帝国はこれに乗じてロシアに宣戦布告し、露土戦争が始まりました。隣国の動揺にプロイセン国王フリードリヒ2世は警戒し、ロシアに対し「バール連盟と和解すべきだ」と呼びかけています。
しかしロシア軍は粘り強く戦い続け、バール連盟は本拠地を西のシレジアに遷したのち、1770年にはハンガリー王国内のプレショフ(現スロバキアのプレショウ)に遷りました。ここはオーストリア/ハプスブルク=ロートリンゲン家の領内で、同家は同年にマリー・アントワネットをフランス王室に嫁がせていますから、バール連盟はオーストリア・フランス同盟を味方に引き込み、ポーランドをロシアから奪還しようとしたのです。
1770年10月、バール連盟の評議会はロシアによる傀儡のポーランド国王スタニスワフ2世の廃位を宣言します。フランスは支援要請に応じて将軍のデュムーリエを派遣し、連盟軍の整備と強化を行わせました。恐れをなしたスタニスワフ2世はいっそのこと連盟に参加しようと画策しますが、1771年11月にワルシャワで連盟側と思われる一味に拉致され、数日間の軟禁状態に置かれます。以後国王は改めてロシア側につくこととし、バール連盟は国王を拉致監禁した逆賊として国際的評価を低下させたといいます(状況的にロシア側が連盟側と偽って行い悪評を流した可能性もありそうです)。
そもそも周辺諸国も、バール連盟を支援し続けてロシアと一戦構えようという意志はありません。1769年にはオーストリアがポーランド領の一部を混乱に乗じて制圧していますし、プロイセンは七年戦争末期以来ロシアの同盟国で、オーストリアとロシアが開戦すればロシア側で参戦することになり、またぞろシレジアにオーストリア軍が攻め込みます。オスマン帝国もロシアとの戦争で手一杯で、ポーランドまで遠征するようなパワーはありません。財政破綻寸前のフランスは言わずもがなです。となれば連盟をポーランドの不安定要因として適度に支援しつつ使い捨て、ロシアと交渉してポーランド領をいくらか割譲させるというのが現実的な落とし所となるでしょう。
波蘭分割
1770年、ロシアはオーストリア・フランス同盟のポーランド侵攻を牽制すべく、プロイセン国王フリードリヒ2世に対して「ポーランドの領土をいくらか割譲しよう」と持ちかけ、矢面に立たせようと図ります。これを察したプロイセンは「オーストリア、プロイセン、ロシアの三国がポーランドの国境地帯を一斉に併合すべし」と提唱しました。これならプロイセンは代理戦争に巻き込まれずに済み、自国の領土を減らすこともないばかりか、戦わずして領土を増やすことができます。またオーストリアに多くの分け前をやれば、シレジア奪還の執念を少しは和らげることができるでしょう。
ロシアとしても、ポーランドを保護国化したことで大規模な反乱を招き、オスマン帝国やオーストリア、フランスから一斉に圧力をかけられている現状は憂慮すべきでした。反乱鎮圧にも防衛戦争にも多大な軍事費がかかり、制圧した地域に駐屯させる軍隊の維持費も馬鹿になりません。オスマン帝国とオーストリア・フランス同盟が手を組めば、ロシアは南と西から脅かされることになりますが、オーストリアにポーランドの一部を割譲すれば、少しは大人しくしてくれるでしょう。かくて周辺諸国の利害が噛み合い、ポーランドは理不尽にも領土を分割・削減される運びとなりました。
各国間の交渉の末、バール連盟の反乱がおおよそ鎮圧された1772年2月、ロシア・プロイセン・オーストリアはサンクトペテルブルクとウィーンでポーランド領の分割に合意し、8月に「ポーランドの国土と国民を無政府状態から保護するため」と称して割り当てられた領土の占領が開始されます。
プロイセンは「王領プロイセン(西プロイセン)」やポメラニアの一部を獲得し、ブランデンブルク選帝侯領と飛び地だった東プロイセンが地続きになります。面積は3.6万km2、人口は60万と三国中で最小の取り分でしたが、プロイセンはポーランドからバルト海南岸の大部分を奪い、内陸国にしてしまいました。ポーランドの対外貿易はバルト海に依存しており、そこを塞がれて高額の関税をかけられたため、同国の衰退は加速します。
ハプスブルク家の女当主マリア・テレジアはポーランド分割には反対でしたが、息子のヨーゼフ2世は宰相カウニッツとともに乗り気で、シレジアは奪還できなかったもののポーランド南部の広大な領土(8.3万km2)と三国中で最大の人口(265万人)を獲得しました。クラクフを除くガリツィアの全土、ヴィエリチカの塩鉱山、現ウクライナ西部のリヴィウも含まれます。
ロシアが獲得した領土は最も広大(9.2万km2)な北東部で、ダウガヴァ・ドルト・ドニエプル川の東側にあたり、現ベラルーシの東部が含まれます。人口は130万人と三国中では2番目で、経済的には大したことはありませんが防衛上は有利です。当然ポーランドにはロシア軍が駐留して睨みを効かせ、ロシアの政治家が全権大使として政治の実権を握り続けます。
三国の軍はそのままワルシャワに集結して国王と議会を脅しつけ、反対派を粛清しつつ領土分割を承認させます。一連の分割によりポーランドは国土の3割にあたる21.1万km2の領土と人口の1/3にあたる400-500万人の人口を失い、ロシアの保護国かつ周辺諸国の緩衝国として存続を許されました。バール連盟は叩き潰され、残党はフランスなどへ亡命し、抵抗運動を継続することになります。
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【続く】
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