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変わる世の中、変わる学校。『日本人のしつけは衰退したか』広田照幸


少年の凶悪事件が起こる度にマスコミで繰り返されるのは、「最近、家庭のしつけや教育する力が低下している」という見方。何だかとても説得力がありそうで、文部省もそれに応えて、「心の教育」「道徳教育」なんかを対策してみたりする。

でも、本当?

過去を単純に美化することなく、きちんと歴史的にたどってみようと試みたのがこの本。著者の広田さんは教育社会学、教育史、社会史が専門。

さて、一般的にというと、だいたい戦前のことをイメージするようです。でも、戦前の文献や資料をみると、農村は何かを家庭単位で生活できなくて、すべてが村のおきて親戚関係がすべてだったそうです。

貧しい親は、子供を身売りに出すのも仕方ない状態で、農作業の片手間にするのが子守り。だから、厳しい村のしつけとは、長男と次男の差別、男女の差別、家柄の差別なども含まれる理不尽なルールをわきまえて振る舞うように教えられるのがしつけでした。

学校で習うのは、読み・書き・算術。でも、こういう町の商家の子供に必要な技術は、農家にとっても子供にとっても、あまり重要ではありませんでした。そして、実は町でも、明治まではごく一部の超エリート家庭だけに読み・書き・算術が必要で、それは農村と同じくらい重要じゃないものだったそうです。

大正時代になると、都会では比較的裕福で、地域社会に縛られない家族がうまれるようになりました。つまり、母親が専業主婦をし、共働きせずとも生活がなりたつ家族の誕生です。彼らは専門的な用語で新中間層と呼ばれていますが、この階層の人たちにとって、学歴は子供の人生を左右します。だから、学校教育や家庭教育、受験勉強をとても重視しました。母親のためのマニュアル本や雑誌も、たくさん出版されたそうです。ただ、それでも、まだ彼らのような人たちは少数派でした。

日本の家庭と教育の関係を大きく変えたのは、戦後の高度経済成長です。地方から都市へ多くの人が流入したことで、村や町のコミュニティは崩壊。その結果、家族や親子の絆は強まりました。学歴は、貧しい農村や都市の低賃金労働の生活から自分を救ってくれる救世主になり、広範囲の子供たちが受験勉強に励むようになりました。しつけも含む教育全般から、就職斡旋まで面倒みてくれる学校は、地方の親たちにとってありがたい存在となったそうです。

ところが、高度成長期が終わり、それぞれの家庭が近代化してしまうと、学校は保守的で時代遅れの管理組織になってしまいました。高校進学率が90%を越えた時点で、受験勉強は生活向上のためではなく、学歴社会で地位を争うゲームになったのです。学校不信の時代になると、家庭は子供への社会的なしつけから学習にいたるまで、あらゆる面で責任を負わなければいけない場所になってしまいました。

その結果、密着しすぎて子供を成長させられない母親とか、子供の問題を抱え込んでしまって、とうとう子供を殺してしまった父親などの悲劇が生まれてしまいます。子供の非行はしつけの失敗といった見方が定着して以来、親は親であることの責任から逃げられなくなり、子供は親の前でいい子であり続けなければならなくなってしまったのです。そして、それは親子のどちらにとっても息苦しい状態です。

『犯罪白書』をみると、戦後直後から1960(昭和40)年代に比べて、現代の青少年の凶悪犯罪は4分の1に減っています。昔は、青年のナイフによる殺傷事件も現在よりはるかに多く、1960年代には青年に刃物を持たせない運動が起こったのも、殺傷事件が続発したからだそうです。もし、「昔は凶悪犯罪が少なかった」というお年寄りがいたら、それは単純にその人の周りで事件がおこらなかっただけだと広田さんは力説します。

現代は、青年が何か事件を起こすと多くのマスコミが殺到し、連日連夜報道します。これは異常な状態なのに、視聴者は一般的なものとして錯覚します。親は、子供をよりよく育てたいと思うので、過剰反応してしまいます。先の見えない不安もあって、自分が若かったころの高度成長期を、脳内でバラ色の思い出に変えてしまいます。そのとき、厳しかったお父さんや横暴で理不尽だったおじさんのことは忘れています。

広田さんは、最後のまとめで、親や子供にパーフェクトを求めないことや、家族の多様性を認めることを提言しています。まずは、我が子といえど、所詮他人という考えから出発すること。そして、昔はよかったの思いこみを止めることが重要だといいます。そこからどこへ向かうかは、その家庭次第だと。なるほど、納得です。



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