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ロンドン1.5人旅•その1(1996)

高校を卒業した頃によく遊んでた男性3人組がいた。それぞれを、大学名や実家の家業のジャンルで呼んでいた。

R大、N大、○○屋。

今考えれば失礼な話なのだけど、私は小学校の同級生で、学年で唯一塾に通ってたやつにも「四谷大塚」というあだ名をつけていた。
基本的な部分が昔からまったく変わっていない。


R大がヨーロッパを横断する旅行をするといった。最後にロンドンに入って、帰国するつもりだという。

私の『ロンドン行きたい欲』とそれは重なり、R大がロンドンに入る日程のツアー(終日自由行動)を、新聞のチラシを見て突発的に申し込んだのだった。

当時の値段で15万くらいだっただろうか。
お年玉の貯金がそのくらいはあったので、決めたら行動に移すのは早い。

母親も「一人で行くよりいいわよね」と快く送り出し、事前に実家に電話をかけてきたR大と母があいさつするなどの、ちょっとしたイベントも行われた。


海外旅行は2回目だった。1回目は高2の2月末。同級生との二人旅だったが、今回、行きは一人である。集団行動のツアーじゃない旅行自体が初めてだった。

スカイライナーに乗り遅れそうになって走ったり、荷物検査をうまく通れなくて焦ったりしたものの、ピンク色の髪の毛の私は、なんとか飛行機に搭乗した。

当時のヴァージン航空、座席にゲーム機が付いていて、長時間のフライトをスト2をして過ごした。

いま言えばびっくりされるだろうが、当時は飛行機内で喫煙が可能だったため、わりともくもくした中で寝たり起きたり食べたりゲームしたりを繰り返し、ロンドンに到着した。



ヒースロー空港からは電車をいくつか乗り継いだ。

窓から見えるのどかな景色がだんだん密集したものになって行ったり、地下に入るさまをぼんやり見ていた。

最寄駅からはタクシーに乗ったのだが、案の定ぼられそうになり、戦ったのを覚えている。当時は今よりもっと英語が喋れたから、言葉に不安はなかったな。


ホテルに行くとちょっとした事件が起こった。
「え、部屋がない?」

よくあることなのだろうか、ホテルマンも申し訳なさも見せず、淡々と別のホテルをあっせんした。

よくわからないままタクシーに乗り、指定されたホテルに移動する。それはさっきのよりはグレードダウンの、思ったのとは違う部屋なのであった。

R大には確か実家に連絡するように言っていたのだと思う。
当時の日記がないので記憶だけが頼りなのだが、私たちは移動先のホテルで合流しているので、どう考えても実家がハブになっているとしか考えにくい。

B&Bに泊まっていたR大は私の部屋に転がり込んで、その後2週間居座ったのだった。


この部屋、初日にまずお湯が出ない、シャワーが出ないなどのトラブルがあった。

外国あるあるなのだろうけど、この印象が強くて次に海外旅行に行くなら絶対に水回りが大丈夫なところがいい、できれば日系のホテルがいい、というのが第一条件になっている。

ビデの使い方が最後までわからずじまいだった。
便器に似た形状の、ふたのない、水が張ってあるあの物体、どう使うのが正解だったのだろうか。今は、ああいった形ではなくなっているのだろうか。

朝が弱い私はモーニングの時間に間に合わず、同居人(R大)が私のチケットをもって食べに行った。部屋に清掃も入る。シングルの部屋に2人泊まっているのがばれないわけがないのだ。

我々は早速フロントに呼ばれ、追加料金を払って部屋を変わるように言われる。
「Double or Twin?」

私、ダブルとツインの違いをこの時分かっていなかったのだ。

「え?……ダブル?」

「お前あほかよ!」
このあと部屋を移動する間ずっとR大に罵られるのだった……。


14日間の旅行である。意外とたっぷりだ。

一人っ子、親以外の他人と暮らしたことのない私、R大と喧嘩が絶えなかった。この部屋チェンジ事件のほかにも、洗濯してクローゼットに下着を干していたところ、勝手にクローゼットをあけられて激怒り、ということもあった。

しかし、向こうのほうが年上なので、機嫌を損ねた私に紅茶を入れ、トランプを出し、ババ抜きをし、いっしょにテレビを見て仲直りをする。

そんなことが少なくとも3回はあっただろう。異性の他人と長時間暮らすことのストレス(しかも異国で)を初めて味わった、ある種学びのある旅行であった。
※私、すべてにおいて、いきなり極端なことが多いなあと改めて思う


貯金20万の中の15万を使って旅行に来ている。残高を考えると贅沢はできない。食事はすべて、スーパーで買った4個入りのスコーンだった。

イギリスのスーパー、カートが有料で、コインを入れて鍵を外してカートを持っていく。そして詰めるのはセルフなので、日本のつもりでボーっとしていると指摘されてしまう。これに慣れるのには時間がかかった。

一回だけ、カップヌードルのチリトマト味のようなものを見つけて買った。

結果からいうと、こんなにまずいものは食べたことがない!というレベルのまずさ。今はさすがにもっとおいしいものが流通しているだろうか。

外食では、バーに入って、黒ビールをセルフでジョッキに注いで飲んだのを覚えている。ぬるいのだが、炭酸が苦手な人にはちょうどいいかもしれない。

そして、今は日本でも多く見かけるが、車で出店しているケバブ屋。ロンドンだからケバブがまずいということはまったくなく、これは美味しかった。

しかし、帰国したすぐあとに、イギリスでのBSEのニュースを見て青ざめるのであった……。

一回だけアフタヌーンティに行ったのだが、おおむね3000円以上はする価格設定に諦め、テーブルにクロスの敷いていない店を探してお茶だけはした。
(テーブルにクロスの敷いてある店は高い)


髪の毛がピンクだったせいか、日本人と思われることは皆無で、現地の日系人と思われていたし、私もそのふりをして楽しんでいた。一人で行動していたことも大きいだろう。

かなりの回数、日本人観光客におぼつかない英語で道を尋ねられた。こちらが日本語で答えると急にほっとした彼女たちと仲良くなることもあった。

同い年のカップルに道を尋ねられたことがあった。

K大生だというその二人とは意気投合し、チャイナタウンにご飯を食べに行くことにした。
話を聞きつけたR大も同行し、4人で中華屋に向かう。

『にぽんのギョザ』
『玉子ごはん焼く』
『ちャはーン』
『うーメンー』

などと書かれたメニューに大爆笑。
しかし、味はロンドンで食べた料理で一番おいしかった。
※夜は治安があまりよくなかったので注意

K大カップルとは帰国後も仲良くし、一度実家に遊びに来てもらった。
それ以降会ってはいないのだが、どうしているだろうか。


だいたい起きるとすでにR大は出かけており、部屋には私一人という状況。午前中はテレビを見て過ごすことも多かった。

「きかんしゃトーマス」のナレーションをリンゴ・スターがやっていることを発見したり、ニンジャタートルズが人気で、タートルズのドリンクなども売られていた。

そういえばロンドンではコンビニを見かけなかったなあ。たまたまない地域にいたからだろうか。


タバコのはなし。

日本でマールボロライトメンソールが250円だった時代。イギリスでは500円位ではなかったか。しかもパッケージの半分を占める「ガンになるぞ、死ぬぞ」の文字。初めて見るとぎょっとする。

当時イギリスではマールボロライトメンソールが流通しておらず、仕方なしにメンソールではないライトを吸ったり、現地の謎タバコ(?)を買ったりした。

タバコ屋に立ち寄るとインド系のおじさんが店番をしており、レジで話すと「お前の英語はアメリカ英語だな、イギリス英語を勉強してこい」とダメ出しをされるのだった。

「お前の英語、めっちゃインドなまり!」って思ったけど、それはそれとして。


一人で行動していると、同じように単独行動をしている日本人と仲良くなることもあった。

彼女とは一緒に買い物に行き、写真を撮ってもらったり(これは一人だと難しい)楽しかったんだけど、私が他者とのコミュニケーションをめんどくさがったせいで、そのままになってしまった。

今のようにケータイもない時代である。一期一会も旅の醍醐味、といえば格好もいいのだが。


大英博物館で日本のマンガの展示をやっていたと記憶している。中は見た記憶がないのだけど、売店でマンガ本を買ってきた。AKIRAが表紙の「MANGA MANIA」というもの。

カムデンロックのマーケットに行った。
当時インディーズのような形で活動するデザイナーがたくさん集まって、テントで商品を販売していた。それを偵察に行くのが一番の目的だったのだ。

蛍光で光る素材のスカートや、マンガのコマがプリントされているTシャツをたくさん買った。『CYBER DOG』というブランド名だった。

カムデンはとても刺激になる場所だった。近年はオカダヤなんかでも見かける、髪の毛を派手な色に染める染料?なんかも売っていたし、タトゥー屋さんがいて、彫られてる人を目の当たりにもした。

近くのレコード屋さんでテクノのレコードをいくつか物色、試聴をさせてもらい、スリップマットも買った。

ロンドン、住める!

それがわたしの、この街への印象だった。

(つづく)

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