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変わらずにいられない

 今日も読書メモのように書いてみる。いつもの半地下カフェで、珈琲飲みながらタイピングしてる。何も変わらないのだけれど、文体は変わるような気がする。変わらないか。

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西村佳哲著「自分をいかして生きる」ちくま文庫

朝の鏡の前で、ジョブズは<自分自身>に耳を傾けている。

西村佳哲著 自分をいかして生きる p127

 自分の声に耳を傾けている人。

 画家が筆をとめて、描いていた絵を少し離れて見ている時。料理人が出汁を口に含んで味をみている瞬間。会話の中でピッタリくる言葉を探して、話すのを止めている時。わたしたちは自分の奥の誰かに、「これでいい?」とか「どう?」という問い合わせを行っている。今、自分自身が感じていること、つまり自分の実感を確かめている。

同著 p128

 上記の引用文章は、過去のぼく(おそらく2011年のぼく)がこの本を読んだ際に、弱々しい筆致で線を引いていた唯一の箇所だった。過去のぼくがこの文章に何かしらを感じ取ったのだろう。この文章を2024年のぼくが改めて読み返すと、そのように生きたいという、ぼくの願いが表現された文章だったことに気づく。自分自身が感じていること、実感を確かめながら生きていきたいという願い。強い願い。

 自分をいかして生きるの、「いかして」の部分は、自分の奥の誰か、自分自身が感じていること、自分の実感を確かめることではないのか。その実感に出会うと、思わず力が出てしまい、止めることができなくなるのではないのか。

 自分の真実に近づいた言葉を語った人は、心の中のそれまで居た場所にはもう居られなくなる。知ることは、変わらずにいられない体験なので。

同著 p092

 ぼくは長い年月を通して、様々な場面で「知ること」をやってきたつもりだった。だけど本当の「知ること」は、「感じること」だった。「知ること」は知識を増やすとか、情報に触れるということではなくて、知識や情報を増やそうと、その行為に向かう自分自身を感じることだった。自分の奥で響き感じていることを知ることで、自分の真実に近づいた言葉で語ることができるようになる。同時に、それまで居た場所にはもう居られなくなる。感じてしまったら、もういのちが運んでいく。有無を言わさず運んでいく。同著に登場するパッツィーさんも石村さんも、そうやって運ばれていったのだし、響き合ったいのちが運んでいったのだと思う。

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 今日はこんな感じで。


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