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どう在りたいか
西村佳哲著「自分をいかして生きる」を読んでいる。読んだ箇所を引用して感じたことを少し書いてみる。
たとえばここに高校生ぐらいの女の子がいて、「美容師になりたいんだ……」と相談してきたとする。僕ならその彼女に、「どんな〇〇〇になりたいの?」という問いを戻すと思う。それは、「美容師になりたい」と言っている彼女のなりたいものが、美容師とは限らないと考えるからだ。
私たちの周りにはたくさんの職業カテゴリが用意されていて、ある一つのカテゴリに向かって努力する風潮があるように感じる。小さい頃ぼくは野球選手になりたかった。野球選手になることを夢見るだけで、どんな野球選手になりたいのか、なんて考えてもいなかった。そこにロールモデルのような選手たちはいたが、「どんな〇〇〇になりたいの?」、とは自分自身に問いかけなかった。大学を卒業して今の職業に就いたが、カテゴリ分けされた〇〇〇に自ら縛りをかけて、「どんな〇〇〇になりたいの?」、と問いかけることはしなかった。「どんな〇〇〇になりたいの?」、の問いに自分自身が答えることができて、その<どんな>を十分に感じる働きができれば、なにをしていても良いような気がしてくる。ぼくは、温もりを感じる場を創り出せる〇〇〇になりたい。それは、今就いている職業〇〇〇でできるかもしれないし、別の職業〇〇〇でもできるかもしれない。西村さんの視座は、大切なことに気付かせてくれる。
なにがしたいということより、それを通じてどんな自分でいたいとか、どう在りたいかといったことの方が、本人の願いの中心に近いんじゃないかと思う。
西村さん、ぼくもそう思います。
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