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富士山と愚問-もののけ姫-

「なぜ山に登るのか」と問われ、登山家ジョージ・マロリーが「そこに山があるからだ」と答えたことは有名に過ぎる。
なるほどとも思うが、少々エキセントリックだとも思う。

富士山に登ろうと思うと言ったとき、それに対して「なぜ」と訊く人はいなかった。
「一度登らぬバカ、二度登るバカ」というように、富士山に登ることについて、改めて説明はいらない。
大方の日本人が「富士山に登ろうと思う」とき、その理由はただ一つ、「富士山が日本一の山で、私は日本人だから」だと、それで十分事足りる。

「富士は日本一の山」。
そういう歌を小学校で歌ったし、ここでの「日本一」の響きには、「日本一標高が高い」という言葉以上のものがある。

あらゆるものを凌ぐ、あらゆるものを内包する、偉大な存在。
それが富士山なのだ、と誰かが声高に言ったとして、多くの日本人は黙ってうなづいてしまうだろう。
物理的な意味を超えて、富士山は日本人の精神論に立ち入ってくる。

そんなわけで。



雨が降りしきる7月の新宿で、「去年、富士山に登ったんだけどさー」という隊長の言葉に、軽はずみに「登ってみたい!」と反応したことがそもそもの発端だった。
深い考えは特になくて、それがどれほどのことなのか、私は全く分かっておらず、単純な思いつきと勢いだけで、その日の帰りに日程を決めた。

約束の2週間前、隊長から旅の心得メールが届いたとき、私は初めて事の重大さを知った。
そこに書かれた準備物の多さに、自分が何に挑もうとしているのか、改めて思い出したのだ。

「地上と山頂の気温差は、25~30℃」

標高3776m。
確かに、季節を飛び越える高低差だ。
東京は猛暑でも、富士山頂は冬なわけで、真夏から真冬への気温変化に対応するための重ね着はもちろん、夜間歩行や雨天に対応するためのヘッドランプや雨具の用意も欠かせない。
「雨は上からだけでなく下からも降ります」というのだから、もはや、この世の果てに行く覚悟が必要だ。

すっかりハイキング気分だった私は、「富士山をなめちゃいけない」という経験者からのコメントを再三投げられて、ようやく現実を知り、青ざめた。
果たして、こんな運動不足のヘナチョコな私でも登頂できるのだろうかと、途端に不安になる。

夜通し歩いて、頂上付近でご来光を見るというスケジュールで、バスは富士山5合目に22時過ぎに到着した。
東京の暑さが嘘みたいに、空気が少し肌寒い。
はかないヘッドランプの灯りを頼りにして、私たちは真夜中に歩み出す。

ほんの最初ばかりは元気だった。
6合目までは傾斜も少ないし、もちろん体力もある。
この先に待ち受ける、どんなことも知らない。

けれど、1時間もしないうちに、口数はぐっと減った。
細かい砂利の坂道は、足元が滑って歩きにくく、なかなか前進せずにすぐバテる。
7合目を過ぎると険しい岩場が立ちはだかり、軍手をはめてそれをよじ登りながら進む。
空気が薄いため息は自然と深くなり、慎重に足場を選ぶ集中力の耳には、自分自身の吐く音と吸う音が交互に響く。
少しずつ肌寒さが増すけれど、それと同時に身体が熱を帯び、汗がにじんで背中や腿にスウェットが貼りつく。

安全が一番大事だから、焦ってはいけない。急いではいけない。
そう頭で繰り返しながら、自分のペースを守る。

時折立ち止まっては短い休憩を取る。
腰を下ろし、チョコレートなどかじりながら、そこで文字通りの満天星に出逢う。
東京では決して見られない天の川に重なって、カシオペア座がくっきりと見えたので、頭の中で「W」の一辺を5倍延ばしてみる。
北極星はこぐまの尻尾で、もっとこちらに北斗七星。

後で知ったけれど、ちょうどその日はペルセウス流星群の当たり日だったようで、ほんの束の間眺めているだけで、何度も星が走るのが見えた。
火照った身体に吹く涼しい風と、瞬きに占領された夜空の姿は、褒美のように心身を癒し、再出発に力をくれる。

空が、近い。星が、近い。

夜の中では、行く先も来し方も闇に沈んでいる。
それでも、年中で最も登山者の多い8月盆の土曜日だったので、ごった返すほどの人の気配が心細さを感じさせない。
上を見上げても、下を見下ろしても、人々が額の上にくくりつけた懐中電灯の行列が、さながら送り火のように浮き上がっている。

黙々と、ただ頂へ導かれていく、数え切れぬ灯り。
富士山を霊峰と呼んで、それを登ることに宗教的な意義を透かしてみるとしたら、こういう光景は象徴的な気がする。
「なぜ登るのか」という愚問の解を奪う、偉大な求心力が働いている。

8合目を過ぎる頃には、全身を相当な疲労が覆っていた。
再び砂利道で、わずかな歩幅の積み重ねで前へ進む。
もどかしく、息苦しく、精神力の糸も張りつめてしまう。
数分進んでは、数分休む。

ギリギリで堪えているものを解放してくれたのは、白み始めた東の空だった。
大きすぎる山の肩にとまる私たちの背後から、さらに大きすぎる太陽が猛スピードで差し迫り、闇に沈んでいた視界をみるみると透明にしていく。
「もう、これ、いらないね」
立ち止まって額のヘッドランプを外した。

周囲の至るところで、同じような具合に東を仰ぐ人々がいた。
まだそれは地平の下にあるが、放つ光が寒色から暖色へ奇跡的なグラデーションを織り成している。

朝が来る。
生命が吹き返る。
それを待っている、私たちもただの命。

ご来光と呼ばれる、その特別な朝の光は、ピンクゴールドだった。
比類のない輝きは、まるで貴い宝物だ。

私たちの踏みしめている大地が喉が渇くほど赤い色だということを、そのとき初めて知った。
見上げれば、遥か遠くに頂上を確認することもできた。

新しい一日の始まり、生まれ変わった世界に、もういちどザックを背負い、靴紐を締めなおし、私たちは再び歩き始める。
それから後に襲われたものは、忘れていた眠気と、右脚の痛みと、鋭い真夏の陽射しだったが、もう引き返すタイミングは遠に失した。

頂上を前にして、そこらじゅうに倒れこむ数え切れない人々。
その様子は、さながら地獄絵図のようである。
疲れ果てた顔、苦痛にゆがんだ顔、皆、どうして自分はこんなところに来てしまったのか、何をしているのか、自らの選択した苦行に激しく後悔している顔だ。
けれど、ここまで来たら、行くも地獄、戻るも地獄。

「なぜ登るのか」、再び脳裏を襲う愚問を振り払うように、「あと少し、もう少し」と呪文のように繰り返し、ただもう寡黙に一番高いところを目指す。

とにかく、あそこまでたどりつきたい。

だから、登頂は、それだけで救済となる。
清々しい風が胸に吹き、何者かにただ感謝したくなるのだと思う。

頂上からは雲海が見えた。
もくもくと湧いて、まるで硬さがあるように見える、潔白の雲海だった。
はぐれ雲は湖の上に影を作っていた。

すっかり太陽は、星から天を奪い取っていた。
空は青く、塗りこめた夏の青だった。

それから、樹海の緑。
それは、日本にもこんな光景があったのかと思う雄大な緑で、悠久の時を抱えこんでいるようだ。
森には、「もののけ姫」の世界のように守り神がいる、そういうふうに思わせる。

この登山のうちに、何度、神様に出逢っただろう。
季節を越え、夜を越え、時を越え、自分を越える、ひとつひとつの歩みが常に異なる場所に続いている。
苦しみを一つ乗り越えた先には、また違う景色が見える。

帰りのバスは当然のようにぐったりで、身じろぎ一つしたくないほど、疲れ果てていた。
舞い立つ火山灰で顔は真っ黒になり、唇の皮が全部むけてひりひりとした。
髪は指が通らないほどこわばって、新品の靴と上着は埃だらけになった。

土曜の夜から日曜の午後までの小旅行だというのに、本当に様々なことが凝縮されていて、長い夏休みを過ごした気持ちだった。

もう二度と登らない。
少なくとも、下山直後はそう思う。

けれど仮に二度登ることがあっても、そのときもやはり「なぜ登るのか」は愚問だと思う。

もののけ姫(1997年・日)
監督:宮崎駿
声の出演:松田洋司、石田ゆり子、田中裕子他

■2007/8/17投稿の記事
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