「人間性不要論」コラム:ふてほど
人間性不要
結局は人柄だという
押し付けがましいオヤジやオカンに
うんざりしているのはのどこのドイツだい?
ルクセンブルク.…..
人柄は良いにこしたことはない…
しかし‼️Amazon黒金曜日や楽天半額特売で検索しても
人柄本体の販売事例はない
もしも「人格大安売り」という
商品が販売されたら。。。
怪しい啓発セミナーか?
虚偽広告?
もしくは
小生並みに脳細胞が不自由なかたの妄想だろう。
簡単に手に入らないから
人間性は重要なのだろうか?
良い人間性は販売していない・・・
レベル5やレベル7なら・・・
在庫は深大寺蕎麦甚大無尽蔵だが
しょせんレベル6ではない
【ろくでなし】は供給過剰で倉庫ギュウギュウで窮々だが・・・。
人格者を自己申告可とすれば重大事故が生起する。
一芸入試などの面接で
「あなたのアピールポイントはなんですか?」
と問われて
「一番は人柄の良さです」
そんな回答をすれば
面接官は
「その人柄良さは誰の基準で判断された尺度ですか?」
とさらに質問を畳かけてくるだろうか?
小官のか細い
「面接官」と「受験者」両方の経験・・・
から判断すれば
そういう回答にはサラ問としてを
「相手の反応を探る質問を投げかけるように!」
という事前指示が想定される。
「面接官必携」のような虎の巻にも
「具体的に評価可能で公平な尺度」
と・・・書いてあったような気がする。
面接官のサラ問に
「自分基準で判断した絶対的な尺度です・・・」
そう答えたら
「おもしろ枠」が適用されない限り不合格は必須だ。
人間性論 vs. 人間性不要論
「人柄が大事」という意見に対する反発は
「その基準ってなに?」という疑問から生ずる。
人柄を評価する明確な尺度は存在せず
結果として自己の価値観や第三者の主観を
「借り物競争」のように
事前に知らされていないのに・・・
観客席の第三者から「赤いタオル」を寸借する※
無茶ぶり指示に対して懸命に対応せねばならない。
曖昧さが多い設問は面接官に対する信頼度を
激さげするが・・・
緊張感を解く良薬ではある。
良薬も用法用量を守らなければ
結局は「押し付けがましい・いやな面接」となり
不満は翌年の受験者を劇的に減らす
「酷評コメント」を誘発するだけだ。
問題の本質:人柄は売っていない
たとえAmazonの黒金や楽天特売で
商品としては見つからなくとも
「良い人柄は努力や経験から形成される」
と世間では漠然と伸二小野信じられている。
安売りされるものではないから・・・
「簡単に手に入らない」からこそ価値があると
レア・アイテムと勘違いしているようで不気味だ。
面接での攻防
面接官に「あなたの強みは?」と聞かれ
「人柄です」と答え
「その基準は?」という問いに
無言で右ヒトサシ指を内側に向け
👈と自信を持ってポーズをとれば・・・
「つまみだされるか・・・?」
「面白味のある人間だと勘違いされるか?」
いずれかだろう。
勘違いで採用された尺度は「人柄」ではなく
面白味だが・・・
それも人柄の一部である!
そのことに異論はない。
面接官が求めるのは具体性ではなく
「悪びれず・・・瞬発的にどのような回答ができるか!」
そして
「その答えには説得力があるのか?」
その点だ。
「人柄の良さ」を証明するために
具体的な行動や実績を事細かに説明して・・・
①自己の実績
②自己の将来性
③自己が体験した具体事例
④自己の信念
そんな説明を滔々と列挙する受験者が
高得点で採用されるようであれば
「入社(入学)を断った方が良い」
「以前の職場で(高校のクラスで)全体の士気を
上げるために①○○を行い②の成果を得ました」
といった具体例は説得力も訴求力も薄い。
人柄論争の落としどころ
1. 人柄は大事だがそれだけでは人間性を証明できない
人柄は重要だが・・・
それがスキルや経験の不足を補ってもお釣りが出ない場合がある。
「欠損価値の損失補填」ができるほどの人材なら
「人間性うんぬん」という面接を受ける以前に
「ひくてあまた」で社会に埋もれる必要はない。※
単に「私はいい人です」というだけで
人間性が良いと証明できるなら・・・
人間性は人物を評価する尺度として不適切であり
・・・誰も説得できない。
2. 具体的な行動も評価基準が問われる
人柄を示すのに具体的な行動やエピソードが必要だという妄信が
「ボランティアで自己の点数をかさ上げ」
という短絡的な行動を誘発する。
「ボランティア精神は自己犠牲で成立する」
自己の承認欲求や面接合格に利用される「ボランティア活動」は
自己犠牲ではなく
「自分のため」の行動・・・自己利得行動だ。
たとえ
「自分の行動によって周囲に多大な影響を与えた」
という人物も
自己利得という野望を粉飾した作為者かもしれず
「お人好しが感化された巻き込まれ事故」
が実社会で発生しただけかもしれない。
実証的に「人柄の良さ」を示すことは困難だ。
3. 「人柄不要論」は極論だ
人柄を完全に無視することも現実的ではない。
人間性が職場の雰囲気やチームの連携に与える影響は大きい。
これを軽視すれば組織全体のパフォーマンスが低下するリスクもある。
ただし
「当社(当校)は人物重視・将来の可能性や成長性のある人物を求めています」と
募集広告や受験案内に書いてあったら
「その場所には近寄らない方が良い」
「私たちには人間を見抜く面接官はおりません。」
と白状しているのとおなじだ。
具体的な評価が難しい事項を堂々と掲げている時点で
「縁故や学歴・自己評価で合格させている」
とゲロしているのと実質的な差異はない。
言い訳の裏返しに「人間性」を騙っているだけだ。
試験成績や具体的な尺度以外で合否を決定していると
暗に認めているから「人物本位」という言い逃れる必要が生ずる。
「人間性採点官は・・・神様・仏様・お天道様とエンマ様だけ」
まとめ
人柄は測りにくい。
押し付けがましいが
服を着ているだけという小生のような人間が
「人間性不要だと・・・公言しているから」
尚更訝しい。
「反対の反対は賛成なのだ!」
という人間性学会長・・・バカボンのパパ
その論旨に従えば
「人間性は重要?」
そうなるのかもしれない。
「これでいいのだ!」ろう
ただし「人格」や「人間性」は自己申告も不適切で
第三者が判断しても
「自分の価値観が入り込む余地が多い」
不明確な尺度である。
具体的な行動や成果を通じて評価されるべき・・・
とはいえ
「私の人間性はお墨付き」という
但し書きを付けるために
「ボランティア活動をすすめるノーハウ本」
に迎合する会社や学校には
「そもそも人を見る目がない」
適切な評価を受け続けるのは
「つねに自分以外の他者」
であり
「人を見る目がない」とは
「自分の本性を見透かされた人間」の逃げ口上にすぎない。
人間性は人物を評価する尺度としては
「不適切にもほどがあるのに・・・」
「ふてほど」なんて使ったことがない!
と憤慨している時点で
「感受性という人柄が不足する」
ふてほどな人間性の持ち主だ。
人間性不要論を
「もしもAIが語ったら・・・」
どれほどおそろしいことか・・・
極端な意見ばかりではなく
適切なバランスの中で評価されるのが
電子回路を搭載しない人間であり