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過去の自分を受け入れることができた日

どうしても受け入れられなかった、自分の過去。

小学校に上がるまでの自分。

そもそも記憶が無いのか、記憶に蓋をしているのか分からないが、僕は小学校に上がるまでのことをあまり覚えていない。  


小学6年生の時だ。 
生活の授業で、「自分史」の作成というものがあった。 
これまでの自分の歴史、つまり過去を、スケッチブックにまとめるというものである。

作成には、0歳からの写真が必要になってくる。 

それを知った私は絶望した。 
幼稚園時代のアルバムを開きたくなかったのだ。

アルバムに写っているのは、女の子のように首を曲げて、顎ピースしている写真(ギャルゥ〜) 
とか、 

おジャ魔女どれみちゃんの衣装を着て、写真を撮った5歳の自分(きゃわ〜)  
とかで溢れていたからだ。

当時小学6年生の僕からしたら、どれもこれも「嫌悪」の対象だったのだ。

「昔の自分は存在しない」 
過去の歴史は、自分の中で塗り替えた

   
幼稚園時代の将来の夢は「パティシエ」だった。 それが、小学校高学年に上がると、 
「幼稚園の頃はパイロットになりたかったんだ!」
そう言っていた。
 
子どもながらに、世の中を上手く泳いでいく術を学んでいったんだろう。

また、両親は自分の過去を知っている。 
ふとした拍子に、親が自分のことを話すのでは無いだろうか。    

ならばいっそのこと、「親、兄弟、親戚達。僕の秘密を知っている人全員消えて欲しい」 
そう願っていたこともある。 

そして、アルバムを開いた小学6年生の僕は、幼少期の自分に対して残酷な行為を行う。

スカートを履いている僕。
どれみちゃんの衣装を着ている僕。
女の子みたいなポーズで写真を撮ってる僕。 

そんな「女の子」が見え隠れする小さな頃の自分の写真達を、細かくハサミで刻み、 
公園のゴミ箱、自販機のゴミ箱、道路の溝。 
写真が絶対に繋がることのように、分けて捨てたのだ。

写真は消せても、過去の自分は消せないことなんて知ったのに。

そんな中、どうしても捨てることのできない2枚の写真があった。  

婆ちゃん家に飾っていた、親戚での集合写真。  
スカートを履いた僕は、従兄弟に抱き抱えられていた。

捨てられなかった理由は単純で。
婆ちゃの家の居間にあったもんだから、写真を持ち出そうにも、持ち出せなかったのだ。

結局その写真は、長い間婆ちゃんの手元に置かれることになる、、、。



そして私は社会人になった。
 
実家に帰省した時、2枚の写真を見つけた。
 
否定し続けた自分の過去を切り取ったそれらは、2階のタンスの奥で、そっと佇んでいた。
唯一の事実として残った、私の消したかった過去。
  
 
聞けば、祖母の引っ越しの際に、写真が実家に移動したとのこと。
   

私は、2枚の写真を実家で見つけた時、
「捨てないでよかったぁぁ」 
心の底からそう思ったのだ。  
 
そして歳を重ねた今。 
あの頃の自分を「気持ち悪い」と思わなくなった。
むしろ、当時が愛おしい。
  
どれみちゃんの衣装を着た自分も、残してあげればよかったと、今更ながらに後悔している。 

母さん、見たよ。
どれみちゃんの写真の横に貼ってあった付箋。
「だいすけは、大きくなったらおかまちゃん??」  
当時、どんな思いでこの文を書いたんだろう。   

写真館にて、
ウルトラマンやアバレンジャーの衣装を着て撮る
男の子達に混じって、 
当時5歳の僕は、
「どれみちゃんで撮りたい!」と喚いたのだろう。
 
これまではそういう写真を残してきた親を恨んでいた時期もあった。 
けれど今はこう言いたい。
好きな服で、好きな格好で撮らせてくれてありがとう。 

 
  
そんな、 
過去の自分を肯定することができた日のお話。
 



 






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