才能を持つ人、平凡な私たち

歌手、スポーツ選手、アイドル、ユーチューバー、起業家・・・


エンタメを提供してくれたり世界を換えたりするのはこうした人々だ。
彼らがたぐいまれなる能力を忌憚なく発揮してくれるおかげで、そしてそれを受け取れる場所があるおかげで、私たちは日々の生活の中に楽しみをより見出すことができる。

彼らは途方もない価値を私たちに提供してくれる。彼らの活動を目の当たりにしているだけで、気分は優れる。悲しい時に励ましてくれたり、勇気を出したいときに背中を押してくれたりもする

こうした偉大、な力を持つ彼らからたくさんのものを受け取った私たちは、「自分も彼らみたいになりたい!」と夢を持つようになる。自分も、悲しみに打ちひしがれている人や勇気を出したい人の力になりたい、と。

そうすると、私たちはなにか“確固たる能力”や“才能”が必要だと感じるようになる。事実、彼らのようになるにはそれらが必要になってくるのは間違いない。
しかし、万人に確固たる能力や才能など備わっているだろうか。人にはそれぞれ才能がある、との言葉はよく聞くが、それは全ての人が上記のようなタレントになれることを意味するのではない。せいぜい適材適所というところだろう。

言いたいこととしては、「私たちの殆どの人は特別ではない」ということである
私たちの殆どは、歌手やプロスポーツ選手、アイドルになれないのだ。そのような形で誰かを感動させるほどの力は持っていないのだ。

自分のやりたいことやできることを考えるとき、往々にして“高すぎる”理想を抱いてしまう。万人にはないような能力を持った人は目立つし、多くの人に価値を与えられるし、それ故に待遇もいい。
同じ人間だから、と自分にもできるように思えてしまう。ましてやスマホを開けばそんな人が大量に出てくるものなのだから、余計にそう思ってしまう。世界でも数%しかいない人々が結集しているだけだから、たくさんいるように見えるだけなのに。

こうして高すぎる理想を抱くと、平凡な人生に嫌気がさしてしまう。“素晴らしいはずの自分”には今の環境はふさわしくないと言って。
もう一度言うが、世界中で大半の人は大したことないのだ。
自分の胸に手を当てて考えてみてほしい。あなた“個人”の力だけで、何かを成し遂げられるほどの才能はあるだろうか。ただ、胸を当てる時点で大した才能は持っていない。自分のコミュニティ内の人々の中でちょっと優れているものが少しある程度だ。それで世界を変えるほどのインパクトはないに等しい。

ただ、それで十分なのである。世界を変える人々としてテレビやスマホに出てくる人が大きく取り沙汰されるが、彼らだけで世界は変わるわけではない。世界をリードしてく人々は彼らかもしれないが、リードされる私たちも一丸となって取り組まなければ世界は変わらない。
二人のスティーブは世界を180度変えるデバイスを生み出し世に売り出していったが、大企業になり世界に広めていく過程においては、彼らを支える“平凡”な社員が必要不可欠であったはずなのだ。

人類が誕生し20万年ほどが経つ。世界史に登場する人物は教科書に収まるほどしかいない。彼らだけで現在の人間社会をつくったわけではない。
アームストロングの力だけで月へ行けたわけじゃない。メッシ一人の力でワールドカップを優勝できたわけではない。総理大臣一人の力だけで、国が変わるわけではない。
教科書にはのっていない、無数の人々がそれぞれの役目を懸命に果たしてきたからこそ、今の私たちの生活がある。
人間“個人”の力はたいてい非力すぎて生きていけない。だからこそ私たちはグループを作り、手を取り合うことでしか生きていくことができない。さらに言えば、そうしてできるグループはいわば「命綱」であり、しっかりと維持していかなければいけない対象となる。

一つ一つの歯車こそが、私たちの世界史をつくってきた。
一つ一つの無味乾燥に見える作業や、取るに足らないような、風が吹けば飛んで行ってしまうような個人こそが、これからも続く社会を築く上で重要になってくる。

社会の歯車になりたくない、なんて言っている場合じゃない。

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