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事業承継に際して思うこと

先日のがっちりマンデーでnote特集を見て思い出し、数年ぶりにnoteにログインした。
せっかくなので久々に書いてみる。

《家業である製造業の会社》

サラリーマンだった父の突然の脱サラ・起業

時は昭和63年。
私が3歳の頃、父は脱サラして会社を始めた。
田舎の地主家系だから実家の敷地は広く、十分なスペースがあったので、そこにプレハブ小屋を設置して始めたのが【YOU電機】である。
社名は父の名前『勇一』に由来する。
弱電関係の製造業における末端の手仕事、検査や組立て、加工や梱包などの業務を行っていた。
40㎡ほどの作業所内に会議室机を並べ、蛍光灯や電ドラを吊るし、作業手順書を壁に貼り、数名のパートさんたちが勤務している。
作っているものはVHSのデッキだったり車のオーディオパネル部分だったり。

創業間もない頃の様子

約40年前から始まったダイバーシティ推進?もとい【当たり前】

YOU電機には他社とは違う少し変わった特色があった。
写真では分からないかもしれないが、複数の『障害者』が働いている。
あの頃は『障害者』ですらなかったかもしれない。
父の姉(私にとっての伯母)は統合失調症があり、父は姉を精神病院に送り迎えしていて、通院している人たちを見ているなかで「この人たちも働けるはずだ・・・」と感じたらしい。
そんな思いで起業したので、求人も近所の主婦の方々の他に声を掛けたのは『地域の中の少し変わった人たち』だった。
今でこそSDGsやダイバーシティ推進、法定雇用率などで障害者雇用に注目が集まることも増えたが、約40年前にはそんな考えは広まっておらず、『身近なところに生きづらさを抱えた人がいる者たちにとっての当たり前』として、ともに働き、ともに生きてきたのだ。

当時の町内会長が視察に来たときの様子
今で言う『発達障害』や『アスペルガー』などの人も多数

世間体?そんなの関係ねぇ

誰に頼まれるでも、誰に褒められるでもなく始まった障害者との仕事。
働きたいという気持ちを持っている人たちと、その人たちの能力が活きる業務内容があり、WIN-WINの関係性で成り立っていた。
しかし、世間から見ると、その様子は少し奇妙に見えたようだった。
「小林さんち、庭でなにか始めたみたいよ」
「なんか変わった人たちも働きに来てるみたいね」
「こんな底冷えするようなところでウチの嫁を働かせて子供が出来なくなったらどう責任取るんだ」
「小林さんちも地に落ちたわね」
そんな声もあったらしい。
が、それもどこ吹く風。
やると決めたらトコトンやるのが小林家の血らしい。
ちなみに、この頃の私の遊び相手は伯母だった。
父の会社で働く様々な人を見ながら、統合失調症の伯母と遊んでいた。
私にとっての『当たり前』だった。

原体験蓄積中の頃

事業拡大と障害者の戦力化

仕事が増え、人も増え、忙しさが増す中で会社の移転拡大を実施したのが平成3年。
自宅の敷地内のプレハブ小屋から数名で始まった会社は少しずつ成長していたし、それ(小林家)を支えてくれていたのは管理職も含めた近所の主婦の皆さんや、障害のある方たちだった。
30年以上前から主婦(女性)と障害者がバリバリに活躍していた会社って、手前味噌だけど凄いと思う。
それを無理してやっていたわけでなく、それが『当たり前』だったんだからなおさら。

プレハブ小屋の倍以上ある広さの工場
お揃いの制服でチーム意識を醸成
【ELECTRIC YOU】 平成初期にしてはオシャレ?

ちなみに令和のWith Youはこんな感じ

30年前と根本は変わらない
誰もが働きやすい職場

法人化・組織化、さらなる拡大へ

平成7年には新たな会社『有限会社 新潟アパタイト』を創業した。
こちらは物販(おもに口腔ケア用品の販売・代理店)の会社だった。
「芸能人は歯が命」で一世を風靡したあの歯磨き粉の特許成分に由来する社名だが、そこのくだりはまた別の機会で。
そして平成12年には、その新潟アパタイトでYOU電機を合併し、製造業や物販・特定人材派遣の会社 『有限会社 新潟アパタイト』が誕生した。
この頃には最初に移転した工場も手狭になってきていて、平成14年に再度の移転を実施した。
最初のプレハブ小屋から比べたら10倍くらいの広さで、従業員数も30名前後となっていた。
ずっと働いてくれていた主婦の方々の中から数名をキャリアアップさせて管理職として配置し、組織化を図り始めたのもこの頃だった。
この頃の工場の写真が手元になく残念だが、私自身もこの工場の時から働き始めたので思い入れが強く、今でも時々様子を見に近くを通る。
珍しいことかもしれないが、最初のプレハブ小屋も現存し、次の拠点もその次の拠点も、ウチが使用していた物件は今でも誰かが使用してくれているので何となく嬉しい。

エリア拡大でお隣の柏崎市へ進出

平成16年には上越市のお隣、柏崎市に進出した。
柏崎市の取引先との仕事が増え、ニーズが見込めたからである。
パートの女性10名ほどの拠点からスタートし、少しずつ仕事が増えていった。
ちなみに、当時の私は上越工場で中間管理職として働いていた。
そして平成18年に柏崎工場の拠点長を任されて柏崎市に移住したのだが、その翌年、平成19年の中越沖地震でモロに被災。
柏崎のスタートは過酷だった。
しかしながら仕事はまぁまぁ順調で、柏崎工場も拡大移転を2度ほど行い、平成24年には、後の株式会社With Youの開業地となる場所に移転した。

みんなで床のペンキ塗りとかしたなぁ
懐かしいw
看板設置

新潟アパタイトとしての『その後』

平成25年には廃業予定の同業者をM&Aして拠点を増やし、平成26年に組織変更で株式会社 新潟アパタイト とした。
そして平成27年、柏崎田塚工場を切り離し独立させ、株式会社With Youを設立した。
私個人としては、このタイミングで新潟アパタイトを退職し、中間管理職から経営者となったわけだ。

看板も張替え
何か感慨深い・・・

With Youの話をし始めたら終わらなくなるので、それはまた別の機会で。(とは言え、既にあちこちに書いているわけだが)
話を戻して新潟アパタイトだが、With You独立後も拡大を続け、拠点も増え、2022年時点では約90名(パート80名ほど含む)の所帯となっていた。

《事業承継は突然に》

宿命?七光り?敷かれたレール?

小学校の中学年くらいから漠然と思っていた。
『いつか会社継ぐんだろうなぁ・・・』
ポジティブでもネガティブでもなく、そういうものだと思っていた。
「プロ野球選手になりたい」とか「漫画家になりたい」とか考えなかった訳でもないが、りんごが地面に落ちるのと同じくらい、疑問にすら思わなかった。
『それが小林家の長男として産まれた宿命だろう』くらい。

中学生くらいから少し考え方は変わったと思う。
『勉強なんて頑張らなくてもどうせ会社継いで社長になるだけだし』と、ある意味ナメていたと思う。
親が家業を営んでいる友人とは【七光りの会】なんてふざけたりw

高校生の頃は会社のことなんて殆ど考えていなかった。
バイクやギャンブル、喧嘩や恋に情熱を注ぎ、敷かれたレールを歩きたくなくて卒業後は家を出て料理の道に進んだ。

年齢や周りの状況で事業承継や家業に対する考え方が変わるのは当然だと思うが、私の場合は本当に紆余曲折で、様々な感情で、あらゆる視点で事業承継について考えてきたと今になって思う。

【社長】というポジションと役割

2019年末にコロナという脅威が生まれ、2020年には世界中がパニックになった。
そんな中でもあったからか、BCPとしても事業承継を具体的に考え始めた。
問題は誰が継ぐのか。
私は独立してWith Youの社長をしている他に、輸入関連の会社も立ち上げて、2社を経営していた。
新潟アパタイトには30年以上に渡って側近として父を支えてくれている叔父がいる。

家族も含めた会社の懇親会で私を抱く父と微笑ましく見つめる叔父

年功序列というか関わってきた年数なら当然のことながら叔父が長くて、私の知らない時代のことも全部知っている。
母は埼玉にあるグループ会社の社長をしている。
私は曲がりなりにも5年ほど会社を経営してきた実績があるが、多忙を極めている。
私の妹は会社の総務経理を担当している。
弟は家業にはノータッチで東京で会社を経営している。
社内には小林家以外で優秀な女性管理職もいる。
さぁどうする?
誰が適任?どんなスキルが重要?
そもそも事業承継ってどうやるの?
何も分からない状態で何度かの話し合いを行った。
勇一社長がどうやって30年間やってきたのか。
何がどうだったから30年続いたのか。
次の30年には何が大事なのか。

背中を押してくれた金言

話がやや逸れるが、2020年に社会起業家を育成するプログラムに参加している中で、社会福祉法人にんじんの会 理事長の石川治江さんが、事業承継について悩んでいた私の背中を押してくれた。(治江さんとの繋がりなどもまた別の機会で)
「資格とか経験とか周りからの信頼なんて後でいい。この会社を残したいって思いがあればそれで十分。あとは周りに助けてもらいながら成長していきなさい」
スッと気が楽になって事業承継について前向きになれた。
『もし自分が承継することになっても大丈夫。会社を残したい気持ちは誰より強いし、同じくらいに会社を思っている社員たちに助けてもらいながらやっていこう』
そう思えた。

急!とにかく急!そして想像以上にラフ!

何度かの打合わせや個別面談、専門家への相談なども行いながら考えていた。
ただ、いずれにせよまだ数年先のことだと思っていた。
そんな2023年2月。
「よし、やっぱりお前だ。今期の決算後からいこう」
と、『ピッチャー交代!』くらいのノリで回ってきたバトン。
理由は色々あったらしい。
・向き不向きの問題
・それなりの労力かけて数年でまた承継では勿体ない
・誰が社長で偉いとかじゃなく、管理職みんなで助け合って自分の役割を果たしていけば良い
・父は70歳から人生最後の仕事を立ち上げたいから69歳の1年間はフリーになりたい
・いろいろ深く考えるのが面倒になってきた(多分)

兎にも角にも、半年後には株式会社 新潟アパタイトを承継することになった。
よその会社がどんな感じで事業承継を進めるのかを知らないから何とも言えないが、私としてはとても急だった。
でも、前述したように、腹は括れていた。

そうと決まれば・・・

半年後には事業承継。
当然ながら初めてのことなので何をしていいやら・・・
様々な諸手続きは士業の先生方や総務経理担当の妹に任せておけばいい。
自分がやるべきことはWith Youのガバナンス強化や、初期の頃からずっと自分でやってきていたバックオフィス業務の移管など。
それと、承継する新潟アパタイトの社員の顔や名前を覚えて、日常的に少しずつでもコミュニケーションを取ることなど。
38歳の海馬は日々のアルコールの影響も手伝って衰えが加速しているから、新しく90名近い人物の顔と名前を覚えたり、仕事内容を覚えるのは大変。

日々の社長業、自己研鑽の研修やセミナー、講演活動や講師業、製造業としての営業やバックオフィス業務、配送業務などの力仕事、接待や懇親の場、などに加えて上記のような事業承継に向けた準備の動きが加わった。

2023年前半の記憶があまりないのはその為だろう・・・

《繋がれたバトン》

一生思い出に残る誕生日

2023年7月24日(月)から株式会社 新潟アパタイトの代表取締役を務める運びとなった。
7月が決算月で8月からは29期目が始まりだすので7月中の手続きを取った。
私の誕生日が7月29日なので少し早めの誕生日プレゼントのような感覚でもあった。
『こりゃ39歳の誕生日は例年より記憶に残るな』と思っていたバースデイイブに発熱して、翌日の検査でコロナ陽性が発覚した。
39℃の高熱が2晩続き、起き上がることも困難な誕生日を過ごしたのだった。
色んな意味で忘れられない誕生日となった。

なにはともあれ、ひとまずバトンは繋がった。

これからのこと

事業承継から4ヶ月、未だに半分の社員との面談を実施出来ていない。
様々な問題も起きている。
不甲斐なさや自分自身の要領の悪さに嫌気が差すこともしばしば。
経営する3社で計160人、埼玉のグループ会社も含めたら200以上の社員が働いてくれている。
本当は一刻も早く全員に直接感謝を伝えたい。
綺麗事みたいだけど、実際に継いでみて心底そう思った。
30年以上に渡って、たくさんの人たちに、そして多様な人たちに支えられてこれまでやってきたのがよく分かった。

小さい頃から見てきた『かいしゃ』
小さい頃から見てきた『おしごと』
小さい頃から見てきた『しゃいんさん』

文字通り 三つ子の魂百までも である

プレハブ小屋で批判も浴びながら始まった小さな家業の会社は、今や厚生労働省から表彰されたり、そこから派生して独立した会社も福祉分野で国を動かしている。
決して立派な人間などではなく、欠陥も多かった。

ビフォーアフターw
蛙の子は蛙w

でも真っ直ぐ進み続けた結果だと思う。
我々はこれからも多様な社員や仲間たちとともに社会に求められる仕事をしながら会社や事業を継続させ、その多様な戦力の重要性を社会に広めていく。
それが小林家の宿命だと思っている。

原点回帰 ~始まりの地で再び~

父の最後の事業。
ここでもういちど。

中央あたり、チェレステカラーのプレハブ小屋が原点
ご先祖様が見届けてくれる庭
拠点とする実家

承継していくのは事業とストーリー

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