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文字と言葉の向こう側

YouTubeでは好きなミュージシャン、Instagramではそれ以外でも好きな俳優さんやタレントさんなどもフォローさせて頂いているのだけど、その中の一人に石田ゆり子さんもいて、彼女が綴る、想い語りとしての言葉が好きだったりするのね。いつもちゃんと読めているわけではないのですが、最近の書き込みがとても印象に残りましたので、下記にシェアと引用をば。

向田邦子さんの書かれる文章を読みながら(読んでいるのは、空から降ってきた短冊)言葉の力というものについて深く考えてしまった。向田邦子展の会場の中で黒柳徹子さんと話す向田さんが
「書くということは、思うこと、考えることのほんの先っぽにある小さな小さな部分で大部分は考えること、感じることに支えられている」というようなことを話されていた。
本当にそのとおりだ。言葉は降りてくるものかもしれないけれど、それを支えているのはその人の思考、感覚、想いの深さ。自分の言葉をもっているひとはほんとうにすてきだ。私は絶対に、今後、自分の人生で、思いもしないことや、調子のいいことを適当に喋ったりしないと決めた。自分の言葉で自分だけの言葉でちゃんと想いを伝えられる人でありたい。そう決めた。
そう決めたらなんだか心のモヤモヤが晴れた。

石田さんて、精神のオクターブが広い方なんだなって思います。感情の奥行深く感受性が豊かで、知識の引き出しも多いというのもあるのでしょうけど、様々なことに対して常に、アンテナを高く伸ばされている方なんだとも思います。と、同時に内省的で物事を深く見つめる方なんだろうな。


さて、向田邦子さんは私も好きで…とは言っても、文章としての小説やエッセイ集は一冊くらいしか読んだことがなく、向田邦子作品としてドラマ化された脚本や作品のファンてだけなんですけど。それも今はテレビがないから、昔見たっきりですね。昭和の作品どまり。「阿修羅のごとく」も良かったけど、田中裕子さんと小林薫さんのコンビでの作品もとても良作揃いで、大好きでした。役者さんも実に重みと円熟味のある、魅力的な人ばかり出ていましたし。

向田さんの作品って、漫画家・山岸涼子さんや近藤ようこさんの作品もそうなんですけど…一見平凡で普通の小市民の顔をした人間の、その裏や奥底にある、静かなる狂気や仮面の下に隠された醜悪さをとても見事に、客観的かつ淡々とあぶりだしてくれる…少し斜めに俯瞰して、したり顔で見つめている人間への観察眼と風刺があったりするから、そこがなんとも魅力なんですよね。あと、あの何気ない日常がちょっとしたことで壊れて、色んなものが露呈していく過程とか、その伏線とかが、実に見事なんです。

私は読書家ではあった方だと思うけれど、普通の一般的な小説はあまり読まなかった人で、ルブランのアルセーヌ・ルパン全集や横溝正史作品は全部制覇したものだけど。ああ、江戸川乱歩も読んだかな。そうですねぇ、児童文学や学校の図書館内にある世界の文学作品もあらかた読んだことは読んだかも。国語の教科書で取り上げられる、純文学なんかも、とりあえずは一通り目は通したかなって感じです。休み時間はよく図書館に入り浸っていたので。たぶん、一番本を読んだのはそんな小学生の頃。

森鴎外の文章とか、三島由紀夫の言葉の選び方とか、とても綺麗だと思ったし、あの時代の文豪たちの紡ぎだす美しい言葉で表現されている、彼らの視線の先にある世界から漂ってくる空気感と時代の香りが好きでした。新聞に載ってたデイリー小説を読むのも子供の頃の楽しみの一つでもありましたし。芥川龍之介の小説は文章そのものというより、人間の生き方そのものや宿業の深さを掘り下げた、あの目線がたまらない作家さんだと思うし、松本清張さんも「人間」を描くことに長けた秀逸な作家さんで、実に魅力的。でも、愛読書というか、ハマったのは「嵐が丘」とか「悪徳の栄え」だったりするww 

日本の作家さんと西洋の作家さんでは、当たり前だけど伝わってくるものも全く違っていて、表現方法が異なっているというのかな。それは文化や宗教、思想や民族としての習慣の違いもさることながら、使っている言語としての言葉の違いでもあるのでしょう。それは音楽(作曲や演奏)の世界もそうだし、歌の歌詞にも言えること。今は貧弱な歌詞ばかりになってしまったけれども、昔の日本の歌を聴いていると、日本語って実に繊細で多彩かつ多様性がある、豊かな言葉なんだなと痛感させられること然りです。ちなみに大人になってからの今は、外国の小説の方が写実的なので(比喩が少なく直接的かつ具体的な表現が多い)読みやすいかなって思ったりします。

片岡義男さんや氷室冴子さん、赤川次郎さん、新井素子さんみたいな、サクッと一冊30分も必要とせずに読み終えてしまうようなライト文学(ジュニアノベル)にはまってた時期もありますけど、それは中学の頃ですね。シドニー・シェルダンも流行った頃には読んだし、ハーレクインなんかも、今はロマンスというより陳腐な恋愛ものばかりだけど、昔は質の良い作家さんもいたし、今もたまに見つけられなくもないかな。

いずれにしても、基本的にはフィクションよりはノンフィクションが好きな人なので、ノベルよりも実用書、実在の出来事や人物に関する記録本、図鑑や辞典などを読む方が好きですし、小説も映像化(映画やドラマ化)されたもので知ることの方が圧倒的ですけど。それと漫画ねww

で、私の読む本の趣味嗜好の話はこれくらいにして。

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「書くということは、思うこと、考えることのほんの先っぽにある小さな小さな部分で大部分は考えること、感じることに支えられている」

と言う向田さんの言葉には同意するというか、本当に頷かされるしかない。

書き言葉にしても話し言葉にしても、本当にそれは(表面的というよりは)部分的に思考や想いを伝えることの出来るアイテムでしかなく、思っていること、考えていることのほんのわずかな表面をなぞって、一番近いものに例えてみるだけの手段にしか過ぎないので。それには、伝えたいと思っている考えや気持ちのすべてどころかそのかけらさえも、伝えられない歯がゆさやもどかしさも含まれているのだけども。そこは語彙力がないから、などという言い訳で決して逃げているわけでなく。

何気なく発する言葉、いつも選ぶ言葉は、まるで海上に見えている氷山のように、ほとんどが海の下に隠れてしまって、せり出す上部の支えともなっている全体としての氷山の大きさ、根幹・基底のような、その人の人としての生き様やこれまで生きてきた全人生の足跡から成っている、ということでもあるだろう。その人が経験してきたこと、見てきたもの、聞いてきたこと、集めてきた知識や情報、それらを通して感じたり考えてきたことなど。頭の中で組み立ててきた思想や信念、他人への想い、使ってきた言葉などすべて。

十の出来事から一しか学ばない人もいれば、一の出来事で十を学ぶ人もいる。有言不実行の人もいるし、不言実行の人もいる。意味のない、内容のない会話や言葉をたくさん駆使するコミュニケーション能力に長けていると言われる人もいれば、コミュ障と言われ、無口で人付き合いが苦手な人であるが、重みと含みのある、誠実な一言のみ語る人もいる。

相手の言葉の中に、実を見出すか、無駄な情報や戯言として聞き流すかは、聞く人次第でもある。

言葉はかく語りき (ツァラトゥストラはかく語りきってかっっww)

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しかし、人とというのは雄弁な言葉にいつも騙されたりもする。表面的な、上っ面をなぞるだけの、自らの耳に優しい砂糖菓子のような、真実のない言葉の中毒性の方を、人というのは好む生き物でもあったりする。

言葉の裏側にあるもの、文章の行間を読み、その下に隠れた想いを読み取ることを得意としているのが、日本人の特性であったのにも関わらず、いつしかそのような特質は失われてしまった。使われることが無くなってしまったが故の退化と言うべきか。今はもはや、言葉は単なる記号でしかなく、意味のない戯れの日常消耗品で、飾り物のようなものに成り下がってしまった、と言ってしまうのは、言いすぎだろうか。

ネット社会になってしまい、文章のマナーやエチケットなど死語になってしまった今では、とくにそう思う。lineとかメッセンジャーの、学生時代の授業中、友人たちと回しっこをした切れ端の落書きのようなコミュニケーション方法が日常会話となり、当たり前の基本になってしまった現代では、とくに。

読解力がない人が増えたなあ、と思う昨今。行間を読まず、文章に書かれていない「間」を想像できず、相手の意図を組めず、文章に書いてあることややり取りの流れを無視して、一部として使われた言葉への印象だけで勝手に思い込みで内容を判断する…そういう人が増えたような気がする。

上っ面の言葉だけを聞いて、表面的なものだけを見て、その人そのものを見ずに、中身や内容を見ない人たちが相も変わらず多すぎる。その裏の真実を知ろうとせず、メディアの誘導や扇動に乗り、浅はかな醜聞やフェイクニュースに騙される人も減らなかったりするが。

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言葉には神が宿るのだという。そして、言語の複雑さは、その言語を使用する民族の知性だけでなく精神性や霊性をも表すものでもあるという。

言葉はlogosであり、神そのものである。logosとは言葉・理性という意であり、万物の真理そのものを表し、神たる創造主の与えたもうた贈り物である。人が人であるが故の、神が内在する証としての論証でもある。

故に、言葉の豊かさ、表現される文字や言葉の多さとは、精神性の豊かさと霊性の高さをそのまま示している。豊富な言語(表現能力とその手段)を持つものほど、神に近しい存在であるとも言える。

その意味でも、日本語ほど豊かな表現方法を持つ言語は世界に類を見ない。色一つにとっても、日本人は実に鋭敏で繊細な感覚を巧みに発揮して、たくさんの色の名前を生み出してきた。季節を表す言葉も、時間や空間の概念も、曖昧さや心の天気模様を著す言葉すらも。日本語ほどに多種多様な表現方法は世界共通言語たる英語にはありえないし、日本語には英語には存在しない表現方法がたくさんあるし、それぞれの言語には的確に訳すことの出来ない言葉もたくさんあったりする。そしてそういった日本語ならではの美しい言葉や繊細な表現方法としての言葉が、失われつつあることをとても残念に思う。

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