見出し画像

修身録-食は命なり、食は運命を左右する

「食を慎めば運が開ける」とは江戸時代の観相家・水野南北の言葉。とはいうものの、肝心の書物はちゃんと読んだことないですっっ どんな内容が書かれているという概要を少しばかり聞きかじっただけで、はい。それもYouTubeの動画でですね。

こちら「人生を変える学校」さんの動画はどれもためになります。私の場合、印刷物としての文字を読むのがもう困難なので、ラジオのように耳で聞くことの出来るこのような情報は本当にありがたいです。色々と助かっています。

もちろん、占いの分野での先輩で偉大なる先人ですから、その存在は昔から知っていました。私は東洋占はやらず、西洋系の占いしか習得していませんけど、日本という国における占術の歴史や先人たちのことを知らずして、占い師という職業を名乗るなかれ、というのはありましたし。

さて、去年は食べることがしんどくて辛くなるくらいに食が細くなりました。もともと朝は食べない人で一日二食しか食べてはいませんでしたが。最初はコロナ禍のせいで、外出の機会が減るなどあまり動かないことでの食欲不振かと思っていたのです。かといって、病気というのでもない。胃がんとかも少し疑いましたけれども。一食はおろか、一口二口食べたところでお腹がいっぱいになってしまい、食欲がない以前の問題でした。夜は果物とかヨーグルト一個で十分という状況で気が付けば、体重が5kgも減っていました。

今は一日2食に戻りましたが、一回の食事量はかなり減りましたね。外食で出された普通の量を食べれるときもありますが、その分、夜はあまりお腹が空かないので簡単な軽食で済ますというように、全体としての食事量はすっかり減っちゃって。甘いものやおやつなどの間食に関しても、食べないわけではありませんが、ほんの少し食べて満足といった感じです。昔みたいにポテチ一袋開けてしまうなんてことはありません。

画像1

結果的に、小食になったことで胃腸の調子がだいぶよくなりました。生来から胃弱で何かあるとお腹を壊し(便秘知らずだが慢性下痢気味)、どこかしらおできがいつも出来ているという状態がほぼ無くなり、顔のむくみもほとんど無くなったかと。とはいうものの、これに関してはコロナ禍で仕事が暇になり時間が出来たことで、顔やデコルテのマッサージとか色々と頑張れたせいもあるのだと思います。

逆に今、夜20時過ぎに食事をすると調子が悪くなります。軽めのものであっても、量が少なくても、胃に食べ物がある状態で睡眠をとるというのがよくないのかもしれません。

確かにそうですね。胃袋を洗濯機に例えて考えると解りやすいです。洗濯機を満杯にして回すのは、汚れも落ちにくいし効率が悪いものです。胃袋も腹八分目が本当は限界なのでしょう。そして、胃袋が常に動いて稼働しているということは、そこに大半の血液が集中しているということです。できればそこに回すエネルギーは100%ではない方がいい。消化のためだけに全エネルギーを専念させられる状況ならいざ知らず、他の事もしなくてはいけないというのに、余力を残さずにいるのはよろしくないです。

食べすぎはよくない、まだ少し物足りないってくらいがちょうどいい。実際に小食になったことで、全体的な体調が改善されてきたなと実感している身としては、この言葉の意味をしみじみ実感しています。

画像2

そして、何を食べるか、どのように食べるか、といった素材とか栄養素とか調理法とかももちろん大事なんですけど、誰と食べるか、どんな気持ちの状態で食べるか、といった美味しく食べるっていう方も、ものすごく大事なのだと思います。どちらかというとそちらの方が重要かな。

だって、気分のよろしくない時、悲しみを感じている時や怒っている時に食べても消化不良を起こしやすいですしね。とくに憤りを感じている時に人は体内で毒素を作り出します。ストレスを感じている時、人の腸内細菌(悪玉菌)の量が増えることは知られています。また、癇癪を起している時の口内細菌は確か通常時の100倍くらい増えてるんじゃなかったっけな。正確な数字は忘れてしまいましたが。子供が普通に笑いながらふざけてて噛みついてしまった時の傷は化膿しなかったけど、怒ってるときに噛まれてしまったならば、化膿したとかなんとか(それ以前に動物じゃあないんだから噛みつくなよと)。

とある、どう見ても40代にしか見えない70代の現役モデルの女性が、若さと美の秘訣をインタビューにて聞かれたとき、こう答えたそうです。「ストレスをためないことよ。そして、毎日を大好きな人たちと過ごして、その人たちと楽しく食事をすること。高価なレストランでのディナーとか、秘密の食材とかはないわ。美味しく食べるだけよ」

どんなにお高い値段の質の良い素材も、無農薬有機栽培の安全な食べ物であっても、素材の質や調理方法以前に、人が体内に取り入れる過程において毒素に変換してしまったり、せっかくの栄養を吸収できない肉体の状態であるならば、まったく意味がありません。

そういえば私は、東洋医学で虚血という状態でありました。腸が弱いものだから、栄養を吸収する力が弱かったのです。おできが出来るということは場所としては皮膚という体表ではあるけれど、内臓が炎症を起こしている証拠。腸がずっと炎症を起こしていたのでしょう。膵炎もやってるし、原発性胆汁性肝硬変でもあるから。まぁ、ドライアイだの網膜剥離だの眼の問題はここからきているのです。白内障も発症が早かったですしね。

生まれつき単腎で白血球の値が低く、幼少期はおでき体質に加えて、右耳の周辺の皮膚がひどく爛れて膿だらけでした。年がら年中風邪をひいているし、週に一度は高熱が出るし、毎日下痢しているし、気管支炎に咽頭炎に副鼻腔炎もローテーションで掛かるし。走ると吐くし、日光で皮膚がかぶれるし、何もしてないのに身体が紫斑だらけになるし、歩いているだけで足は捻挫するし、よく倒れるし。中学の時には膠原病だろうということで、自己免疫不全疾患との診断。長生きできませんよと脅されて。そして膵炎を何度かやって、原発性胆汁性肝硬変と診断されるに至り。それでも生きてますけどね。気功とレイキヒーリングをするようになって、氣の巡りがよくなり、冷え性が無くなったことも、生命力の回復を助ける土台にはなりましたので。

画像3

だから小食になったというか、食べれない時期、強制的な断食的時期を持ったことが良い結果を生んだのでしょう。それにより長らくダメージを受けていた胃腸が休めたことにより、じょじょに回復していったかと。

はい。前はワイングラス一杯でもお酒を飲むと、翌日にお腹壊していました。去年からほとんど飲まなかったのもありますし、今もだからといってたくさん飲みたいとも思わないし、飲むこともしないのだけど、気が付けば、年末年始少し飲みましたが、そのような反応はありませんでした。もちろん、これからも祝い酒としての乾杯程度しか飲む予定はないですけどね。昔は蟒蛇でしたがww

甘いものはさほど好きではないものの、ポテトチップスやフライドポテトが大好物だったのも、良くなかったですねww 悪魔の食べ物とはよく言ったものです。フルーツや野菜ジュースはたまに飲みますけどコーラとか砂糖入りの炭酸飲料は年に数回飲まず、普段はお茶とハーブティーばかり。水分はしっかり取っていましたが、老廃物が出ていくのはそれだけではないですから。

去年はホント、外食しても残してしまうから、せいぜいテイクアウトで、それを何回かに分けて食べて、自宅では果物とサラダとスムージーとか、シリアルとか、何だったら自分は食べれるのだろうか?? と食べることがしんどいくらいにはな日々。クッキー二枚で事足りてしまうのが信じられないくらいでした。でもね、それだけでも人って生きられるんですよね。食べたいのに食べれないではないわけだし、肉体が拒絶しているだけだから。

量が食べれないから、少量で栄養素の取れるものとかえってその辺りを意識するようになりました。お腹を満たし、膨らます食品ではなくて、栄養がちやんと入ってるものと考えて。お肉とかチーズとか、スムージーとか野菜ジュースとかドライフルーツやナッツなど。

画像4

さて、私が昔から身体が弱いこと。上記に書いたように疾患持ちってことを話すと、マクロビとか、青汁とかクロレラとかモリンガとかスーパーフードとかとか何かまあ色々。そんな風に身体に良い健康食品を薦めてくる人もたまにいましたよね。でも、気持ちは嬉しいのだけど、問題は体質に合っているか、ですよね。例えば、私は胃弱なので、玄米や雑穀は消化に負担がかかってしまって、かえってよろしくないんですね。サプリメントの錠剤もそう。少しくらいなら、いいんだけども。それと美味しくないものはいくら身体に良いと言われても、食べたくないですww

あと、無理にでも量を食べさせようとする人いますよねww  やせすぎだ、太った方がいい、と。アレルギーがある、嫌いだと言っているのに混入させて食べさせようという人も。困ったことにね。「食べてみれば美味しいんだから」などと言って。

アレルギーも好き嫌いも体質ですよね。私の体質は父親譲りなんですが、父は背が160cm位しかないのもあるけど、体重は40kgしかないガリガリの人。でも建具職という肉体労働者をしていました。とび職ではないけど、高いとことかすいすい命綱なしで上ってたし、木材とか重いものの運搬に支障はないわけです。母は子供の頃から肉体労働をしていた体育会系の人だから筋肉質でしたけれども。だから、親が平均よりやせ型でそれと大差ないなら、極端ということもないような気がします。

あと消化酵素って自分の代だけで作られるわけではなくて、親の代、祖父母の代にも関わってくるから、先祖代々がどんなところに住んで、どんなものを食べてきた人かってのも考えないといけないですよね。それが元となる肉体と骨格、遺伝子を作ってきた栄養素なんだから。山側の民族なのか海側の民族なのか、とかね。肉を多く食べてきたのか、魚ばかり食べてきたのか、とかとか。それは同時に風土病たる遺伝病を調べる手がかりになるけど。うちは両親とも鹿児島出身だから、サツマイモばかり食べたきたのかなーって。その反動でサツマイモはもう食べたくないと拒絶反応出てるのかもですねww  

まあ、それはそれとして。この身体が受け付けやすいもの、受け付けにくいもの、それも少しは知ってたほうがいいかな。幼少期に食べてたものもね、それはこの身体の基礎を作ってた食べ物だから(細胞は7年サイクルで生まれ変わるから、もう残ってはないけれど)。

画像5

けれど、食事の質と量って、職業とかライフスタイルを考慮しないとって思います。肉体労働の人と頭脳労働の人では消費カロリーが異なるし、必要な栄養素とかも違います。年齢もですよね。育ち盛り、成長真っ盛りの子供や若者と中年や老年期の人では、身体を作っている途中の人と衰えていくばかりの人ということで、同じに考えてはいけないわけです。

そして私は霊媒だから、頭脳労働とも肉体労働とも違う。霊媒のための医学がスピリチュアリズム本場のイギリスでは発達していたりしますけどね。日本ではそれを知っている医学者はほとんどいない。まぁ、その話はちょっと置いておいて。

同じ労働作業でも、若い時にそれをするのと、年を取ってからそれをするのでは、カロリー消費は異なるわけです。何年もその仕事・作業を続けていると、カロリーを消費しなくてもその仕事が出来るようになる。別の言い方で言うと、その作業をし始めて一か月の時と10年継続している時では、カロリー消費量が減っている、すなわち省エネになっているというわけ。だから、同じ食事の量は必要ないってことです。むしろ減らす必要があるんですね。でないと余剰分のカロリーが出てしまう。

だから年を取ったならば、若い頃より食べる量を減らすのが自然なんですね。いつまでも同じ量を食べていてはいけない。どんな仕事をしているのかにもよりますが。

水野南北さん曰く、40代過ぎたら一日1000カロリーでいいって話。医学的には少ないよそれじゃダメだよってなる量ですよね。

でも、一日一食の人って結構多いし、私も昨年はほとんど食べれなかったことを考えると、だいたいそのくらいで済んでたのでは??とも思います。下手したら、1000カロリーも取れてなかったかもですが。それで病気になったりはしませんでした。むしろ体調は良くなりましたからね。

去年に関して言うならば、意図せずに低炭水化物状態を半年以上続けてしまったわけです。ダイエットしようと思ったわけでもないのに、結果的にダイエットになってしまった。抜いてたわけではなくて、量をたくさんは取れない状態に陥っただけなんですけどね。

画像6

そんな感じで、自分の身体を使って臨床実験ではないけれど、まったくもって無意識的に小食は健康に吉であるという結果にたどり着いたわけです。

はい。現代人は食べすぎです。飽食はよろしくない。欲望のままに忠実に食べ続けることは、肉体を壊すことになる。胃腸に負担をかけ続けるということは、健康を害することであり、病気を身体に招き入れる源となりうると思いました。

栄養はもちろん必要だけれども、食べ過ぎないことって大切です。一日の中で胃腸を休める時間を作ってあげること。もしくは週末だけでもいい。プチ断食の意義を実経験で悟りました。

でもまぁ、たまに美味しいもの食べたいなって、誘惑に負けるときはあるんですけどね。近所には、神楽坂ってグルメな美食エリアがあったりしますので。それも、週に一度とかの楽しみとか、そんなのがちょうどいいのでしょう。もしくはランチで美味しいもの食べたらば、夜は粗食で簡単に、かな。何事もバランスって大切だし、無理に我慢させたり、欲望を抑え込むものではないです。

例えば、私は「お酒はダメです」ってドクターストップがあるわけですが、「タバコは止めてもいいけど、お酒飲めない人生なら意味がない」って言うくらいには酒好きだったので、「飲んではいけない=飲めない」ってのが辛かったんですね。でも、「一か月に二回だけ、グラスに二杯まで飲んでいい」って発想の転換をしたらば、禁止ではなく許可なんで「月に二回のお楽しみ」になりました。そうすると苦しくはないから、頑張れる。

今はもうその二回の楽しみが無くても、十分セーブできるようになりましたけどね。ケーキとかもそうです。食べてはいけないではなく、週に一回美味しいケーキを買ってきて食べる、にすると、これまた楽しみになるから苦はないので続けられたりするわけです。

画像7

早い話が、食をコントロールする話なんですよね。自分を律していくことににも繋がるのかなあ。自分自身の欲望をコントロールできるようになるって話。小食になると、それが出来るようになる。

もしかしたら、それが食欲をコントロールできないアメリカ人(欧米人)と全体的に小食な日本人の違いなのかも知れません。上記の方たちの方が理性のブレーキが働きにくく、暴走しやすいし、集団生活のルール守らない傾向にあるしなあ。

とにもかくにも、食とは命を頂くこと。それを考えると、食べることと向き合うことは人生(命)と向き合うことなのかなと痛感させられます。また、食を考えることは、生きることを考えることであり、命の大切さを考えることであるとも思います。

今回のコロナ禍では、飲食店さんそして生産者さんたちが次々に廃業に追い込まれています。一度ダメになってしまった産業が元に戻るのは難しいです。とくに畑は一度荒れさせてしまうと、元の作物を得るための力を失ってしまいます。土地というのはそういうものです。都会の人たちはそうしたことに対してあまりにも無知すぎます(私も都会の人間ですが、いちおう父方実家の家業が農業ですので)。

食料自給率が40%しかないこの国で、その40%の生産者さんたちがその職を失われてしまったら、私たちの食料は輸入ものに頼らざるを得なくなってしまいます。実のところ、水でさえ私たちはすでに輸入に頼っているんです。森林の管理に困ってお金に換えざるを得ず、水利も他国に売り渡す人が多い昨今。これといった対価にする資源のないこの国で、水も食料も輸入に頼るしかないなんて、今はよくてもこの先どうなるのでしょうね。飽食でモノ余りで、大量の食糧廃棄が今も行われているこの現代。インスタ映えでと撮影をして、食べずに捨てる人々も増えているとか。そういう人たちはいざ食べるものが無くなってから、後悔するしかないのかしら。その時には昆虫でも何でも食べて下さいって感じかな。

このコロナ禍の最中、私たちは自分たちの食も通して、もっとそういうことを考えていくべきでしょう。「お残しはいけません」と言われていた時代、食べ物に「頂きます」と手を合わせて、ありがたく茶碗の隅々にまでこびりついた米粒の一つひとつを丁寧に食べていた時代を思い出して、どのくらいが私たちにとってちょうどいい食べる量であるのか、残さずに頂くためにどう工夫すべきなのか、とかも合わせて。命を与えて下さる食べ物のこと、私たちの食べ物になってくれている命のこと、それを作ってくれている人々への感謝とねぎらいの気持ち、美味しいものを作ろう食べてもらおうと工夫して心を込めて作ってくれている調理人の方たちの存在のこと。

私たちはもっともっと気づくべきだし、考えるべき時に来ているのでしょう。


この記事が参加している募集

#最近の学び

182,116件

もし、こちらの記事を読んで頂いて、面白かった、参考になった…とそう思って下さったり、サポート下さいましたならば、心から嬉しく思います💛