銀河鉄道を追いかけて #1


1st stop よいやみ色の切符

「ヘラは嫉妬深い女神だったので、ヘラクレスにお乳を飲ませることを拒否しました。というのが正しい訳です。ヘラクレスは、英語ではハーキュリーズと言うのは、昨日やったはずなんですけどね?」

 教科書を片手に、先生がじろりと一人の生徒を見下ろしていました。教室の後ろの方の席からその様子を眺めながら、正人は、より一層、英語の授業に嫌気がさしてしまいました。生徒たちが教科書の英文を読んで堅苦しい日本語に訳し、先生が間違いを指摘して、手本の訳を読むばかりで、そもそも少しも面白く感じられません。英字の羅列をにらみながら、いつしか先生のねっとりした声が遠くなっていき、正人は眠りに落ちてしまいました。

「マサ。おい、マサ!」

「うわっ?!」

 にわかに後ろから背中をつつかれて、正人はびっくりして、目を覚ましました。顔を上げると、先生が、片手にチョークを持ち、もう片方の手を教卓について、こちらを睨んでいました。どうやら今、正人が当てられているようです。

「音読だよ。43ページの2つめの段落」

 後ろの席の真吾が、すかさず小声で教えてくれました。

「ああ、ありがと」

 正人はちらりと振り向いてお礼を言ってから、教科書を開き、ページをめくりました。まだ頭もぼんやりするし、目を開けたばかりなので、少し目の前がかすんで見えます。先生は、いらいらしたように息を吐きながら、言いました。

「もう結構。城原くん、教室で寝るくらいなら保健室へ行ったらどうです。ではその後ろ、鐘井くん、読んでください」

 真吾は名前を呼ばれ、少し困った顔をして、正人の背中を見ました。それから、先生の方を向いて、まじめな顔をして言いました。

「えっと……すみません、どこを読めばいいですか?」

 真吾がそう言うと、先生は怖い顔をして口を結びました。真吾はあわてて周りの生徒の手元を見るふりをして、自分の教科書を開きます。そして、やっと最初の文を読み始めたちょうどその時、教室や廊下にチャイムの音が響き渡りました。生徒たちは教科書を閉じたり、座ったまま伸びをしたり、友だちと話し始めたりして、教室のなかはあっという間に騒がしくなりました。先生が黙って何やら帳簿に書き込んでいるのを見て、正人は、自分のせいで真吾まで減点されてしまったのではないかと、心配になりました。真吾はそんなことは何も気にしていないようすで、「ラッキーだったな!」と小声で言って笑いました。

 

 昼休みになると、真吾は正人と机を向かい合わせて座り、弁当を取り出しながら、言いました。

「なあ、マサ。また寝てないの?」

 正人は学校の売店で買ってきた調理パンのラップをはぎ取り、イチゴ牛乳の紙パックを開けてストローを挿しました。今はお腹が空いているので、少しも眠くはありません。

「寝るには寝たよ。ただ、バイトして帰ってから、なんとなく、窓から星見てたら、遅くなったんだ」

 正人はパンをかじりながら、紙パックを手に取りました。ピンク色のなんだか落ち着かないデザインのパッケージを見て、少しためらってから、一口飲みます。

「うえっ、甘い……」

正人は思わず顔をぎゅっとしかめて、紙パックを机の上に置きました。真吾は驚いた様子で言いました。

「なんだ、それ好きだったっけと思ったよ」

「たまたま、これしかなかったんだよ」

口のなかに残った甘たるさをかき消そうと急いでパンを食べている正人を見て、真吾は自分のペットボトルのお茶と、イチゴ牛乳の紙パックを交換しました。

「ああ、ありがと」

「ううん、俺は甘いの好きだし」

 そう言うと、真吾はさっそくそれを飲み、弁当の卵焼きを口に運びました。教室のなかの様子は相変わらず騒がしく、女子の大きな笑い声が耳を刺します。男子が数人、教壇のところで黒板消しを投げ合い始めました。食事中に埃をまき散らされ、その上、あのあたりは自分の掃除場所なので、正人は眉をひそめました。けれども、そのことで、わざわざけんかをすることもありません。正人は目をそらすと、パンの残りを口のなかに押しこんで、真吾にもらったお茶で流しこみました。

「なあ、あのさ、マサ。この連休、暇ある?」

 真吾が、神妙な顔つきで正人を見つめながら言いました。正人は教室の後ろのカレンダーを見ました。今度の日曜日は祝日で、月曜日が振り替え休日です。

「連休、次の休みだったか。うん、今回の休みは空いてるよ」

 正人が答えると、真吾は嬉しそうに笑って言いました。

「じゃあさ、一緒に出かけようよ!」

 そう言う真吾は得意げな笑みを浮かべていました。あんまりはしゃいだようすの真吾を見て、正人はいぶかしげに椅子の背もたれのほうに体を引きました。

「どこに?」

 真吾はしばらく学校かばんをごそごそと探って、小さな紙切れを二枚取り出しました。

「これだよ」

 それは、淡い藍色の和紙でできた新幹線の切符ほどの大きさのカードでした。

「何だよこの紙」

 正人がお茶を飲みながら言うと、真吾は口をとがらせました。

「わかってないなあ。これは正真正銘、ホンモノの銀河鉄道の切符なんだよ!」

 真吾はひとりではしゃいでいます。正人には、真吾がふざけてそう言っているだけではないと、わかっていました。それでも到底、真吾の言っていることがほんとうの話とも思えません。何と答えたものか言葉を探して黙っている正人に、真吾はどういうことなのか、話して聞かせました。

 数日前のこと、真吾は部活動で遅くなった帰りに、近道の公園を通り抜けました。すると、そこのブランコにどこか不思議な雰囲気のおじさんが座っているのに出くわしたのです。このあたりでは見かけない人でしたが、あんまり寂しそうな背中を見かねて、真吾が声をかけてみると、いろいろな話を聞かせてくれて、この銀河鉄道の切符をくれたのでした。おじさんは急な用事で乗れなくなってしまったので、使えない切符をどうしたものかと思っていたと言いました。この連休の初めの日の晩、公園の滑り台の上で待っていれば、そこが停車駅の一つなのだということです。

 この出来事を語って聞かせてしまうと、真吾は満足げに座りなおして、得意そうな顔をしています。やっとのことで正人から出た言葉は、これだけでした。

「あのなあ、真吾。知らない人と話したり、ものをもらっちゃいけませんって、お母さんに教わらなかったか?」

 真吾は、正人のとがめるような、たしなめるような言いようがまるで聞こえていないようすで、どう見てもただの紙切れにしか見えないその淡い藍色のカードを、うれしそうに眺めています。

「楽しみだなあ。どうしてもマサと行きたかったんだ」

「えっ、おい。俺はまだ行くなんて言ってないぞ」

 正人はびっくりした声をあげました。手が当たった拍子に危うくお茶をこぼしそうになり、あわててペットボトルのキャップを閉めます。真吾は肩をすくめて言いました。

「マサ、最近疲れてるみたいだったからさ。気分転換でもできたらって思ったんだけど。予定、大丈夫なら行こうよ。星、嫌いじゃないんだろ?」

 そう言われると、正人は何も言い返す言葉が見つからず、一緒に出かけることを約束してしまったのでした。

 

 次の土曜日、あたりがすっかり暗くなって、吹きつける風も肌寒くなったころ、正人と真吾は、公園の入り口で落ち合いました。正人は、携帯電話と小さな財布だけをポケットにつっこんで持ってきましたが、真吾は、何やらたくさんものを詰めこんで大きくふくらんだリュックサックを背負ってきました。正人は黙っているべきか、聞いてみるべきなのか、迷った後、一応、尋ねてみました。

「なにをそんなにもって来たんだ?」

 真吾はなんでもないことのように、答えました。

「長旅になるかもしれないから。ブランケットとか、お菓子とか、トランプとか、いろいろだよ。あ、ゲームの充電ないかも……まあいいか」

 どうやら、必要なものばかりではないようです。正人は自分から聞いたものの、なんと返したものか、困ってしまいました。

「……それで、水筒は持ったのか?」

「ああ、忘れてた。カメラとかも持ってくればよかったな」

 正人のちょっと皮肉っぽい言い方を気に留めたようすもなく、真吾はいたって真面目な顔をして言いました。それから真吾は、リュックサックを肩にかけ直すと、すべり台の階段をのぼり始めました。正人も真吾に急かされて、仕方なく続いてのぼります。

 真吾がおじさんから聞いていた銀河鉄道の発車時刻は、午後7時36分でした。真吾が腕時計を見ると、まだあと5分近くあります。正人は、誰もいない夜の公園で男子高校生が二人、こんな風にすべり台のてっぺんに荷物を抱えてただ突っ立っているのを、通りがかった人などに見つからないことを祈りました。ふと、真吾が正人に声をかけました。

「あのさ、昨日の夜は眠れたのか?」

「うん? まあ、うん、一応」

 いつの間にか、コオロギが鳴き始めています。いつの間にか秋が来ていたのだなと、正人はぼんやり空を見上げました。今夜は月が出ていないので、星のうつくしい夜になりそうでした。正人にも、ほんとうに銀河鉄道が迎えに来てくれるような気がしてきました。7時35分になりました。あたりには人の気配も、車の音もしないまま、ただ虫の声だけが聞こえているばかりです。正人はいよいよ真吾に言いました。

「真吾。なあ、わかったろう。おまえ、かつがれたんだよ」

 真吾は、空を見上げたまま何も言いません。正人はため息をついて、ブランコのそばの灯りのほうへ目をやりました。その灯りは、電球が切れそうになって、点いたり消えたりを、不規則にちかちかと繰りかえしています。正人はそれを見ているうちに、なんだか催眠術にでもかかったように、ぼんやりしてきました。寝不足のためだろうかと考えていると、心なしか、こわれた電灯の光がだんだんとはっきりしてきました。その光はしだいに強くなり、まっすぐに、正人の目に差しこんでくるようでした。

「真吾、あれ……」

正人が真吾に声をかけようとしたときです。どこか遠くからひびいてくるような声が、すぐそばで、「銀河ステーション、銀河ステーション」と言ったかと思うと、にわかに目の前がさあっと光にあふれて、まぶしくて目も開けていられないほどになりました。ちょうど、夜道を歩いていたときに車の真っ白なライトを見てしまったときのような、あるいは、晴れた日の海や川の波のきらめきを集めて一度に浴びせられたような、まぶしさです。痛いほどにまぶしくて、正人は思わず両目をきつくつむって、右手で目の前に影を作ろうとしました。正人が真吾を呼んだような、真吾が正人を呼んだような、そんな気がして、二人は互いに返事をしようとします。

 気がつくと、正人と真吾はさっきから座席にきちんと座って、列車に揺られていたのでした。

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