見出し画像

小3の息子との風呂場での会話を議事録調にしてみた #天国と地獄編

こんにちは。かすとりです。

今年、息子が小学校3年生になりました。
そのせいか、最近の息子との会話は、幼いころの「断片的な会話」から、論理的というと大げさですが、ある程度「ストーリーをもった会話」にシフトきているように思います。

この会話が結構面白いので、議事録調に加筆修正した上で残しておこう、という思いつきです。

今回は、天国と地獄について。
ではどうぞご覧ください。

議 題:天国と地獄について
日 時:2022年5月3日(火)19:00~19:20
場 所:かすとり家の風呂場・浴槽内
発言者:かすとりの息子(以下、「S」)
    かすとり   (以下、「M」)
内 容:以下のとおり

S:以前、「悪いことをしたら地獄に落ちる」と聞いた。先般、過失ではあるが蟻を踏み潰してしまったが、私は地獄に落ちるのか。

M:落ちないのではないか。

S:蟻を踏み潰すのは悪いことだと思えるが。

M:確かに良いことではないが、社会通念上そこまで悪いことだとも思えない。地獄に落ちるかどうかは、何か絶対的な基準があるわけではなく、相対的な軽重判断のもと決定されるのではないか。

S:というと。

M:「悪事Aをしたから地獄」ではなく、Aという悪事が「現代の社会においてどの程度悪事か」が検証された上で、「重たい悪事」の場合地獄に落ちるのでは、という仮説である。

S:そのように考える理由は。

M:私含め、悪いことを一つもしない人間などいないので、絶対的な基準が適用されるのであれば、人類全員が地獄に落ちることとなってしまう。また、閻魔大王の存在が、私の仮説の裏付けではないか。絶対的な基準を適用するのであれば、そもそも裁定者は不要と考えられる。

S:主張については理解。では、その相対的な基準というのは、どのように設定され得るのだろうか。

M:これは推測でしかないが、天国と地獄には一定のキャパシティがあり、望ましい両者の人数バランス等があるものと考えられる。そこから逆算された解を適用する形で、弾力的な基準が設けられているのではないか。

S:そうであると仮定すると、時代によって基準が変わるのは不公平では。

M:そこは、あの世サイドも課題認識を持っていると考える。私が先にあの世に行くと思うので、その際には、私からも当該課題認識を提示したいと思う。

S:ぜひお願いしたい。また、別の議論となるが、「地獄に落ちるほどの悪いことはしていないが、天国に行くほど良いこともしていない」者も一定数いるのではないかと思う。天国と地獄以外の「中間」のような空間はないのか。

M:小乗仏教では、生き物は死後即座に輪廻転生するのでそもそも「霊」というステータスを認めていないし、大乗仏教においてもそのような場を提唱している宗派は知っている限りない。

S:そういった場の設定が必要であるような気がする。

M:ちなみに、その空間の特徴は。

S:何もない、真っ白な空間である。

M:そのような場は、地獄よりも地獄ではないのか。

S:というと。

M:何の五感的刺激もない空間に永久にい続けさせられることは、地獄で身体的拷問を受けることよりも辛いことではないか。そのことについてはどう考えるか。

S:のぼせて来たので、そろそろ風呂から出ることとする。

M:承知した。

以 上



またお風呂で話したら、投稿したいと思います。
お楽しみに。  

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?