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202X年、阪神妄想タイガース


1番センター 近本 なあえなりには似ていないだろう?

 近本はもともとホームランは別に狙っていなかった。それよりはリードオフマンとして率が確実に3割ある方がやっぱりいい。だけど最低10本、出来れば15本打てるようになれば、相手チームにとってもっと脅威に感じさせることができるだろう。敵に嫌な野郎だと思われたいよな。巧打中距離長距離なんなら一発出かねない先頭打者。一番打席が回ってくるウザい奴。脚があるからボテゴロでも内野安打になり得るし、塁に出りゃばっちり盗塁がある。去年ゴールデングラブももろたしね。俺実は別に守備は上手くないんよ。範囲広くて、アンツーカあたりで懸命にプレイするからちょっと見には上手く見えるんかもな。特にファインプレイとか全然ないで。スライディングキャッチ出来んし、肩弱いしな。なんつうか、ボールの落下点に向かってただ必死こいて走るだけや。こんな言ったらおかしいけど、相手バッターの打球がカーンと気持ち良く右中間左中間を割りそうな時、あの瞬間が好きやな。沸き上がる悲鳴と歓声。ピッチャーは勿論、チーム全員が、それにファンも、みんなが心の中で叫ぶ声がちゃあんと聞こえる。ちゃんと聞こえるよ。『チカ!』って。『チカ頼む!!』ってね。波動になって。時には自分でも一緒になって叫ぶこともある。『チカ!』自分で。『お前やぞ!』って。特にレフトはドスドスドス、って走るサンズやったしな。いやサンズ好きやけど。最高に良い奴だったよ。もう会えないとしたらやっぱり寂しいな。ドスドスドスドス、ってあいつも一生懸命だったよ。チームの事情次第で3番打ったりすることもあるかもだけど、俺やっぱり先頭がいいな。打って、走って、守って、本気でやればやるほど、もう誰も俺のことえなりかずきに似てるだなんて言わなくなるんだ。野球が好きだよ。本当に好きだ。
 なあえなりには似ていないだろう?


2番セカンド 糸原 それがなきゃ悲惨よな

 糸原はロッカールームのベンチに腰掛けて、頭から蒸しタオルを被ったまま俯いて呼吸を整えていた。いや守備がむたくそ言われてるのは知ってるよ。セカンドだからなあ。ほんまよく飛んでくんねん。当たり前か。当たり前だけど。菊池さんとか凄えよなあ。もう、見てて凄いもんね。ちょっと古いとこでアライバとか。開いた口が塞がらんようなプレイする。そらこのままじゃ俺むたくそ言われんのも仕方ない。わかってるよ。何とかしなきゃ。これでまあそこそこ打つから救われてるけどな。2割7分とか8分とか。ぼちぼちシュアと言うか。ぼちぼちシュアって言い方おかしいか。まあとにかくそれがなきゃ悲惨よな。一軍おれんし。いま佐藤が前を横切りながら、健斗さん、スプライト要ります? と声かけてった。いやいま要らん、ぼそっと返事して、なんであいつの中で俺スプライト好きになってるんやろ? と思う。一回ごくごく飲んでただけなのになあ。やっぱり大打者になるような奴って知能ゴリラなんかな。スプライト別に普通よ俺。いやそりゃ嫌いじゃないけどな、スプライト。

3番ファースト マルテ ラッパンパラッて感じ

 マルテは日本に馴染んだ。この国には驚いた。すげえ、と思った。日本はすげえ。飯は美味いし。ラッパンパラッて感じ。野球のレベルも高い。実際毎日勉強になることも多いぜ。ちと細かいけどな。だいいち人が死なねえし。夜、路地を歩くとき背後に気をつけなくてもいい。それがいったいどういうことなのか、あんたにわかるかい? 涙が出るよ。寿司うめえ。焼肉うめえ。牛丼うめえ。ラーメンうめえよ。トルヒーヨにステロイド提案されたけど断って本当によかった。結構大変だったけどな。ハシシもやめたよ。ついこないだ3塁線オーバーレフトにピシーッと2ベース打って、そのあと誰だったかな? サンズ? サトテルだったかも、誰かが打って、ホームベース踏んで還ってきた。ヤノサンぴょんぴょん喜んでくれて俺も嬉しい。ベンチでサカモトが『引っ張ることがおとこーのー』と歌った。オオヤマが『たった一つの勲章だーって』と歌い継ぎ、ウメノが『この胸に、しーんじて生きてきたー』と歌った。なんの歌? プルヒッターの歌? カラオケに入ってる?

5番レフト ロハス・ジュニア 神殺しへの切実なる試み

 ロハス・ジュニアは西宮のスターバックスのテラス席で“なんちゃってフラペチーノジャクソン5ラテモカ”みたいな訳のわからない飲み物のグランデサイズを飲みながら、トルストイの『アンナ・カレーニナ』を読んでいた。こめかみを指で揉みながら眉にひどく皺を寄せ、絶えず唇はぶつぶつ動いている。それを横目で眺めるラウル・アルカンタラは、覚えずジュニアに対する愛情が胸の中にふつふつと沸き上がるのを感じた。黙読ということがどうしても出来ないのだ。一文一文を、声に出して読み上げないことには本を読むことが出来ない。アルカンタラはジュニアを同僚として、友人として、人間としても、心から尊敬していた。彼は日々成長する。はじめは、本自体読むことすら出来なかった。やがて大声を出して、辿々しいが何とか読むことを覚えた。ひとつひとつの文章の意味をじっくり考えて、顔を顰めたり頭を振ったり、しばしば悪態をついたりなんかしながら、自分なりに咀嚼して呑み込んで、ようやく次の文章に進む。勿論一冊を読み終えるのに恐ろしく時間がかかる。うん、それでいい。最近は音読のボリュームも、囁くくらいの、ぶつぶつ呟く程度のものになっている。いずれそのうちに黙読も覚えるだろう。電車で乗り合わせた乗客をびっくりさせることもなくなる。
 アルカンタラは、あの内容も文章もヘビーなトニ・モリスンを読みながらしくしく泣いていたジュニアを知っている。ついこないだなんか、彼の読んでいるものに思わず度肝を抜かれた。トマス・ピンチョンの『重力の虹』。それ、理解るわかるかい? と聞くとゆるゆると首を振りながらさっぱり、という答えが返ってきた。さっぱり、これっぽっちも。俺は頭が悪過ぎて。なあラウル、こいつっていったい何考えてんの? アルカンタラの口元にゆっくりと、ニンマリした大きな笑いが浮かんだ。この男はつい最近までピーター・ラビットの豆本を苦労して読んでたんだぞ! 大丈夫、と励ますようにアルカンタラは言った。大丈夫、たいていの人がそう思ってるからな。君はおおむね正しい道の途上にいる。
「ひでえ女だよ、アンナは」ジュニアが言う。
「そうかい?」
「むっちゃ良い奴じゃねえか、カレーニン。 なあ、自身の受難に対する彼のあの姿勢を見たかい? あの偉大な寛容の精神を? 芽生えた慈愛の魂は、あの高潔さはどうだ?」開いた文庫本のページを指でぱんぱん叩きながら言う。
「そうだね。確かに。心打たれるものがある」
「アンナはひでえ」と繰り返す。首を振る。「恋愛対象として旦那を見られなくなったのはまあ悲しいが仕方ねえよな。実際よくある話だぜ。けどよ、あんまりだ。例えひとかけらでもいい、なにかこう……誠実さはないのかい? 最低限の礼儀は? そりゃアホデブ夫人に捕まってゴミ宗教にはまるカレーニンもどうかとは思うけどよ……。遣る瀬ないよな。女だからな。恋愛感情も興味も持てなくなったら、いくらでも残酷になれるんだろうな。いったん感情の濁流に押し流されたら、いくらでも闇雲に突飛な行動をやる」
「そう、ジャンプが出来る。激情パッション。あるいはそれこそが女の強さかも知れないが」
「まあ、な。男はそんなに駄目かい?」
「ガキで、臆病で、弱く、脆く、傷つきやすく、救い難いくらい馬鹿で、傲慢で愚かしく、曖昧に優しく、いつだって夢を見てる。アホだ。薄汚れた惨めな犬みたいに、死ぬまではんちく・・・・さ」
 ジュニアはそれについて歯を爪でコツコツ叩きながら、考えている。アルカンタラはコーヒーを飲み干しラップトップをぱたんと閉じて、言葉を継いだ。
「女は詩と内臓と音楽とミルクで出来てるんだ。欲望と。欲望を肯定できる正しさも。理屈や法則は通じない。論理なんて洟も引っ掛けない。口を隠して笑うこともあるし、あっさり世界を向こうに回して戦うことも出来る。とても敵いっこない」
「いやはや、参ったね」
「さ、球場に行こう。練習だ」
 ジュニアは至って身軽に立ち上がり、一般人には死ぬほど重いボストンバッグをひょいと肩に担ぎ上げる。アルカンタラはその後に続きながら考える。アンナは驀進する機関車に飛び込む時に神の名を呼んだっけ? たしか呼んだような気がするが。アンナの自殺は、ある意味で彼女なりの誠実さの発露という側面はなかっただろうか? わからない。『アンナ・カレーニナ』は最低でも12回は読んでいると思うが、私もそろそろまた再読したほうがよさそうだ。ジュニアがリョービンとキチイのカップルにいかなる希望を見出すのかが実に楽しみだ。
 世界に無数に存在するあらゆる物語はそれぞれの物語を間断なく物語り、と同時にたった一つの同じ物語を連綿と物語っている。かつてウィトゲンシュタインは言った。およそ語られ得るものは全て明晰に語られ得る。そして語り得ぬものについては、ひとは沈黙せねばならない。ウィトゲンシュタインほど頭が良くない私には、それが本当かどうかはわからない。良く出来た哲学は詩に近接する。
「なあラウル」とジュニア。
「なんだろう」
「あんた、俺がひどい打撃不振で落ち込んで相談したら、あんた、本を読むといい、ってアドバイスくれただろう? 読書するといいって。読み方を教えてやるって」
「そうだ」
「その、何ていうのかな。あんたにはすげえ感謝してるんだ。けどよ、これって、野球に関係ある? 案外打撃に効いたりするのかな?」
「まあ、あんまり関係ないだろうな」
 ジュニアはぱちん、と音がするほど自分の額に掌底を叩きつけた。「ああああ、やっぱり? いや、ないんじゃないかなー、とは薄々思ってたんだけど」
「だが、ないとは誰にも言い切れない・・・・・・・・・・・・・
「やれやれ」
「大事なのは」ラウル・アルカンタラと呼ばれる男、つまり私は言う。「大事なのは、世界は日々新たな謎として我々の前に立ち現れるが、我々としてはそれにただもう呆然と驚くことしかできず、にも関わらずやむにやまれぬ気持ちからそれを探究せずにはどうしてもいられないってことさ。物語ることも著述することも、それに耳を傾けたり精読することも、バッティングもリリーフ登板も、いずれも神殺しへの切実なる試みなんだ」
「やれやれ」ジュニアは首を振る。「やれやれ、参ったね」


6番ライト 佐藤輝 明日は明日の風が吹くやろ

 佐藤輝明は特に何も考えていなかった。佐藤輝明は悩まない。佐藤輝明は反省しない。いやあ去年は本当に気持ち良く振らせてもらったね。前半戦はそれこそ天地がひっくり返るほど打って、5月には3ホーマーなんかもあったもんな。あの時ゃもう西武球場の屋根がファンの歓声で吹っ飛ぶんじゃないかと思ったもんね。ホームでの看板越え、月まで届くような一発もあった。監督唖然としてたもんな。実際あのボール、今頃たぶん月に落ちてるんじゃないかな。続く後半戦では打って変わって両手で抱えきれないくらいのどでかい三振の山を築いたぜ。三振の山を築く、ってそりゃ普通ピッチャーに対する賛辞か。がはは。研究されたってのもあるだろうけど、理由とかあんま興味ないかな。まあ明日は明日の風が吹くやろ。誰か知らんが、すげえいいこと言うよな。そりゃそうだ。自明の理だ。明日に昨日の風が吹いたりはしない。明日吹くのは、明日の風だ。別に大して意味だってない。佐藤輝明は気にしない。アイドントケア。アイムオーケー。2軍落ち直前の時に特打で「まあなるようになりますよ、きっと」って言ったら矢野監督の雷が落ちた。「お前が言うない、バカタレ」と特大級の渋い顔された。でもちゃんと見てたよ。目は笑ってたよね。

7番ショート 中野 正しい時に、正しい場所にいること

 中野拓夢はまだ一人前の男ではなかった。そう言われた。誰に? 守備走塁コーチに。いや童貞とかねんね・・・だとかそういう話ではない。うん、まあそれはそれでそうなんだけど。僕は晩生おくてで、女の子とはまだ車の中でヘビー・ペッティングまでしか……プロ入り前までには済ませたかったんだけど、あの時は結局手と口でしてもらって……すごく良くて自分でも情けないけど思わずしくしく泣き出してしまった……てそんな話と違う。まったく、プロ野球のキャンプというのがこんなに過酷だとは思わなかった。テレビとかYouTubeで見るのと全然違う。だいたいここは何処なんだ? 合衆国アリゾナ州ユマ。信じ難いくらい暑い。まるで一度も拭いたことのないケツの穴みたいな土地だ。そこら中にインディアンがうじゃうじゃいて、愉しみといえばドミノ・ピザのチラシを繰り返し両面ひっくり返して読むことくらい。お陰でピザの種類、値段、サイズ、トッピング、耳の違い生地の厚さサイドメニュー店の電話番号に至るまで全部覚えた。ていうか阪神球団てこんなとこにキャンプ持ってたの? 聞いたことないけど。守備走塁コーチは何故かカウボーイの格好をしている。テンガロンハットに、ちゃんと拍車のついたカウボーイブーツ。あのビロビロがついた訳のわからない服。あのビロビロって何なんだ、あれ? 何の意味があるんだろう、あのビロビロ。お洒落? いつも芦毛の愛馬を連れてグラウンドに入ってきて、曲乗りも軽々こなす。片方のあぶみだけに乗って、立ち乗りしたままダイヤモンドを一周したり。いつでも、のべつ幕なしポールモールを吸っている。あ、いいんだ? グラウンドで馬も煙草も。それにホルスターに収まってるのは、まあ当然っちゃ当然だけど銃だよね。一度江越の頭の上に乗せた桃を目にも留まらぬ早さで撃ち抜くのを見たことがある。彼はろくろく江越を見もしなかったと思う。抜いたと思ったらもうとっくに撃っていて、撃ったと思う間もなく銃はホルスターに収まっていた。
 格好はさて置き、寡黙で口数は少ないけど、コーチは真剣に、親身に、これ以上ないくらい真摯に教えてくれる。この土地は地獄の三丁目みたいに暑いし、その練習の厳しさといったらそれこそ過酷を極めているが、中野はすぐに彼に全幅の信頼を寄せることになった。馬もすごくすごく好きになった。鞍を外して、よくブラシをかけさせてもらう。自ら進んで飼い葉や水桶の世話もする。マウンドに落ちた糞も掃除する。そうしないと秋山さんアッキャマンや西さんがすごく怒る。あのクソ駄馬に俺の神聖なマウンドに糞をさせるな。次に糞を見たらお前をファーストベース代わりに使ってやるからな。なんで僕が怒られるのかわけがわからない、と中野は思う。首を叩きながら、芦毛の名前を呼ぶ。あれやこれやと馬によく話しかける。コーチがよくそうしてるから、まあ見様見真似だ。
「いいか、タクム」コーチは陸軍歩兵大隊支給のジッポで煙草に火をつけて言う。帽子のつばを親指で押し上げてあみだにする。「真の男というのは、いつだって正しい時に正しい場所にいるもんだ・・・・・・・・・・・・・・・・。わかるか? いや、お前が分かってないのは分かってるが」
「聞いてますよ、ボス」中野は言う。「全身を耳にして、あんたの言葉を待ってるんです」
「野球の話だが、野球に限った話でもない。間違った時に、間違った場所にいる間抜けが多過ぎる。まずい時に、まずい場所に居合わせる奴が。そうやって男共はそれこそあっと言う暇もないうちに死んでくんだ。そりゃもうバタバタとな。走塁死、盗塁死、牽制死、ボーンヘッドにフィルダースチョイス。用心深ければ防げたはずのエラー、エラー、エラー」
「俺にどうして欲しいんです、サー? 言ってください、死ねと言われれば死にますよ。いつ、どうやって死ねばいいんです?」
「お前の一年目はブリリアントだった。誇っていい。非力だが悪くない打率に、盗塁王。ファンの記憶に焼きつくような超ファインプレイの数々。それと同じくらいのエラーの山」
「反省しきりです」直立不動で中野は答える。
「褒めてるんだ、馬鹿野郎」コーチは薄く笑う。「ピカピカの一年生だぞ。よくやった。上出来だよ。お前には素質がある。ファンに愛される素質がな。それが何よりも重要な素質だ。この世界で生き延びていくための。お前は人の記憶に残った。それが一番難しいことなんだ。お前はそれをやってのけた。だがこの先、それだけじゃ駄目になる」
 中野は黙して待つ。さっぱりわからないが、コーチが何か大事なことを伝えようとしてくれていることは少なくとも分かっている。
「繰り返すが、常に正しい時に、正しい場所にいるようにすることだ、タクム。守るのが遊撃手ショートなら尚更、そうすることが肝要だ。お前がどうしてそこにいるのか誰にも分からないようなやり方で、お前は既にそこにいなくちゃならない。お前が必死こいて打球に追いついたり飛びついたりするんじゃない、お前がいるところにボールが自然に飛んでくるんだ。捕球という概念を捨てろ」
「なんか夢物語みたいに、ぶっちぎりに難しい話に聞こえますね、ボス」
「その通りだ、これはぶっちぎりに難しい話だ。簡単にできることじゃあない。細かい話をすれば、お前は相手バッターだけを見ている。まずそれがいけない。相手が打って、それに対応しようと動く。当然最初の一歩が遅れる。後手に回る。味方ピッチャーを見ろ。キャッチャーを見ろ。全部を視界に同時に収めて、その上で敵バッターとぴたりと呼吸を合わせろ。バッターが打つ前からもう、ボールがどこに飛んでくるのかわかる。先の先をとる。それが出来る奴が実際にプロには何人かいる」
「最善を尽くします、サー」
「だが技術的なことは後回しだ。もっと大事な部分が先だ。挨拶をいつでもきちんとしろ。野球賭博には絶対に関わるな。麻薬もだめだ。バットにコルクを詰めたり、サインを盗もうとこすっからい真似をするな。成績がいいからと決して思い上がっちゃならない。天狗になるな。でかい面をするな。給料はなるべく取っておけ。翌年どかんと税金を払わにゃならん。どうせ金の使い途などろくに知らんだろ。美味いものを食う程度にしておけ。ファンを大事にしろ。馬鹿みたいにじゃらじゃら金のネックレスをするな。一本ならまあ許す。変な宗教にハマるんじゃない。難しいがヤクザとの付き合いはなるべく避けろ。おかしな女に引っかかるな。良い女房を見つけることだ。こいつはお前が考えてるより何倍も何十倍も大変だぞ。お前の野球選手としての知名度でもステータスでもない、数千万ウン億の年俸でもない、お前自身を好きになってくれる奴だ。それから自分の為に野球をするな。それは悪いことじゃないが、それだけだといずれ行き詰まる。子供のファンがいつだって、まんまるに見開いた目で球場でお前を見ている。いつだって誰かが、金を払ってお前を、お前を見に来てるんだ。そいつを忘れるな」
「肝に銘じます」
「俺らはみんな片輪者なんだ。野球しかすることがない。野球しかやってこなかった。阿呆だ。野球を取り上げたら、邪魔くさいでかい図体と間抜け面しか残らん。年齢相応に、当然身につけているべき世間知すらない。馬鹿なオランウータンよりひどい。オランウータンには少なくとも愛嬌はあるからな。大飯食らいの大便製造機、存在するだけで迷惑な動く粗大ゴミだ。頭を下げろ。頭を低くしておけ。用心するんだ。いつかしんどいときが来る。いっそ死んじまいたいようなきつい時が。その時に、ありったけの勇気と、金と、なけなしの矜持と、人生で折々振り返りたくなるような、心を温めてくれる良い思い出がたくさん必要になる」
「正しい時に、正しい場所にいること」中野は繰り返す。
「そうだ、それがわかってりゃ幾らか凌ぎやすくなる。死なずに、生きろ。持てる力を総動員して、どうにかして生き延びるんだ。お前はきっといい野球選手になる。体を大事にしろ。風邪引くな」
 何も分かっていない中野拓夢は、アリゾナの厳しい西陽と微風を受けて、さらさらと爽やかに笑っている。

8番キャッチャー 梅野 野球しかねえんだよ

 梅野隆太郎は深夜の山中で死んだ女を埋めていた。ああ、くそ。くそったれ。なんでこんなひでえことに。悪い夢でも見てるみたいだ。掘り出した土を穴に放り込む手を少し止めて、地面に突き立てたスコップに縋りつくようにして、今の自分に出来る範囲で気を落ち着けようとした。けれど落ち着けるべき気など、辺りを見回してもどこにも見当たらなかった。暖気したままの(バッテリーあがりが怖かった。こんなところで車にエンコされたら多分俺は気が狂うだろう)ボルボのハイビームに照らされた現場は、あまりの非現実感にまるで火星の最果てか何かみたいに思える。ああ。なんてこった。何もかもが滅茶苦茶だった。ひどく寒かった。真冬の、深夜の、山ん中、だから当然といえば当然だが、それにしても異様に思えた。骨身に沁みるような、魂も凍りそうな寒さ。存在も存在の思いや希求も一片の容赦なく排撃するような、万物の成り立ちや法則など微塵も顧慮しない、あまりに苛烈過ぎる寒さ。一刻も早く帰って熱湯みたいにぐつぐつ沸かした風呂に浸かり、毛布を何枚も被って全てを忘れてひたすら眠りたかった。だが梅野は心のどこかでもう既に知っていたかもしれなかった。この寒気がとれることは生きている限り二度とないのだと。投げる入れる土が女の顔に被さっていく時には思わず顔を背けた。いくら糞馬鹿女とはいえ見るに耐えなかった。あらぬ方を向いたままかろうじてスコップを動かし続けた。
 ビクトリノックスの腕時計を見る。自宅ガレージでトランクを閉めたあの瞬間から、少なくとも百年が経ったのは疑いようがなかった。だが時計の夜光盤は6時間半が経過しただけだと主張している。わけがわからない。きっと俺はあちこちに、そりゃもうどっさりと山程の証拠を残してるんだろうな、かつて梅野であったものはわずかに考える。血痕は? 髪の毛や皮膚片から採取されるDNAとやらは? べたべたそこら中についてるだろう指紋は? ガソリンスタンドで対応した店員は? スコップを買った店は? スマホの通信記録は? 位置情報を間断なく抽出してる衛星は? 日本中、至るところにある監視カメラは? だがそれらは最早どうでもいいことだった。二の次三の次、四の次ですらなかった。気力も体力も失って、ふらふらとボルボの運転席に戻った。暖房を最強にしたいと思ってぶるぶる震える手をコンパネへ伸ばしたがそれはもう既に最強だった。ふと目を遣ったバックミラーに知らない男が映っているのに気づいて、思わず総毛立った。数十秒固まった。俄には信じ難いがその男はどうやら自分らしかった。それはかつて梅ちゃん梅ちゃんと周囲から慕われた男の残骸だった。震える汚い指で頬を撫でる。なんだか映画『シャイニング』のジャック・ニコルソンを思い出すな。redrumレドラムか。逆から読んでmurderマーダー。自分では意識していなかったが、車内にはごく小さな音でラジオが鳴っている。サム・クックが『Bring It On Home To Me』を歌っている。梅野はステアリングに額をつけて、啜り泣き始めた。
 野球なんだよ。野球しかねえんだよ。野球しかねえんだよ。野球なんだよ。俺には野球しかねえんだよ。野球だけが。くそが。いつだって。野球だけなんだよ。野球だろうが。野球なのに。あのくそったれの馬鹿女。どうしてそんなに馬鹿なんだよ。邪悪なほど。邪悪なほど馬鹿で。俺には野球しかねえんだよ。野球が。野球で。いつまでだって強請られてやったのに。阿呆かよ。カモから飯の種奪ってどうすんだよ。馬鹿なのかよ。いったいどうなってんだよ。野球に。野球なんだよ。野球だろうが。野球だけが。野球しかねえんだよ。野球しかねえんだよ。野球しかねえんだよ。野球だけなんだよ。野球ってなんなんだよ。知るかよ。もうわからねえよ。野球が。野球に。野球の。野球だけが。野球は。
 野球は。
 野球を。
 野球だけが。
 野球だけが。
 野球しか。
 ただ野球だけが。

9番ピッチャー ガンケル 一緒に日本に行ってくれるかい、シュガー?

 真冬のキッチンで、もう夜更けだったよね、ジョー。寝る前に、キッチンテーブルで君はショウガとシナモンを入れて温めたミルクを飲んでいたところだった。まるで家の中にまでしんしんと雪が降り積もっているような夜。子供たちもとっくに寝かしつけて、今頃はきっと夢の中で遊んでる。かかってきた電話を切ったばかりの君は、あまりのことに呆然と立ち竦んでいたね。
《真夜中に悪かった》と通話相手の男は言っていた。《でも、どうしても今伝えたかったんだ》
 静寂は耳をつんざくほどだったね。凍え切った爪先の感覚がなかったよね。現実感が薄れている。「ジョー?」ほら、夫婦の寝室からメグがナイトガウンを羽織って出てきたよ。寒そうに、腕を組むようにして肘の少し上のところをぎゅっと握ってる。彼女が不安を感じているときによくやる仕草だね。彼女を心配させるのは感心しないな。君はまるでハンマーで心臓を一撃でもされたばかりのような、ショックのあまりバラバラに人生が吹き飛んでしまってどうしたらいいかわからない、とでもいいたげな様子をしているよ。
「ジョー、お願い。嫌よ」メグが言った。「お願い。いったい誰が死んだの?」
「5500万だ」君はぎこちなくメグを見て言う。首の腱がぎしぎしいうような気がした。
「え?」
「5500万円。5500万円っていったいなんのことだって聞いたら、50万ドルだってさ」
「あああなたまさかそんな。嘘でしょう? 嘘だと言って。ジョー」
 ようやく凍りついていたものが緩々と解けるように、君の口元にもどうやら笑みに似たものが浮かんだ。いつしか泣き出してもいたから、君の微笑みは中途半端で情けない、なんだか変な泣き笑いになる。そして君は言うんだね。
「メグ。一緒に日本に行ってくれるかい、シュガー?」
 彼女は悲鳴を上げた。大丈夫、言うまでもなく喜びの悲鳴さ。それから子供たちのことを思って両手をぱっと口に当てる。君はよろよろと彼女に歩み寄り、どちらかといえば彼女に助けてもらいたいみたいに、縋りつくかのようにその肩に手を回す。もちろん最愛のひとからは強い強いハグが返ってくるよ。涙も、シャワーみたいに顔中に降り注ぐキスも。それからは、抱き合ったまま、ふたりで台所中をよろよろ、ぐるぐる、うろうろ。
 ジョー。君は、君も知ってる通り、メジャーリーガーじゃない。メジャーリーガーだったことは一度だってない。7年間、マイナーリーグを這いずり回った。そのあいだ渡り歩いた球団は15を数える。マイナーの給料なんざ高が知れてるよね。お話にもならないような涙金。とても暮らしていけやしない。シーズンオフはもちろん無給。残業代なし、交通費なし。蛆の涌いた便所に蜘蛛の巣の張ったロッカールーム。長距離バスでの移動の最中になんとか眠る、拾い集めるようなきれぎれのその眠り。オフには主に臨時教師をやってどうにか凌いだ。ガンケル先生。生徒には人気があった。優しいガンケル先生。ボイラーマンをやった。土方をやった。皿洗いをやりウーバーイーツをやり引越業者の手伝いをやった。それが違法じゃないならなんだってやった。奥さんと子供がいた。奥さんの働きに頼らざるを得なかったから、“野球ジゴロ”というのが二人だけの秘密のジョークになったよね。でも奥さんはいつだってくすくす笑ってくれた。教師の仕事は好きだった。野球を廃して教師に身を埋めようかと何度考えたか知れない。50万ドルあれば何が出来るだろう? ああ、借金をきれいさっぱり払える。子供たちに自転車を買ってやれる。保険に入れる。母親を病院に入れてやれる。トランスミッションが3年前からおかしくなってる車を修理できる。メグがあんなに羨ましがっていたミシンだって買える。それから、それから……。
 抱き合う彼女の背中が壁についた。いつしか二人のキスはなんだか甘く変質していた。ほんの僅かな変化。でも確かな変化。ふたりならわかるよね。洩れ出る吐息と、喘ぐ声のトーン。それで彼女を壁に押しつけたまま駅弁スタイルでの愛の行為になった。
 おっと、これ以上は遠慮するよ。野暮はよそう。良かったね、ジョー。本当に良かった。一足先に、日本で待ってるからね。

4番サード 大山 さよならだけが人生だ

 大山にはある重大な秘密があった。こんなことはチームメイトやファンにも、家族にもとにかく誰にも言えない。例え口が裂けようが言えるわけがない。大山は別に野球に何ひとつ賭けちゃいなかった。それが大山の秘密で、本質だったのだ。それは致命的だった。何もそこまで野球が好きなわけじゃなかった。これが誰にも明かすことの出来ない大山の秘密で、負い目で、取り返しのつかない弱点だった。流されるまま、なんとなくそれなりに野球してきただけだ。自分で言うのもなんだけど、まあ多少は素質や才能があったんだと思う。でなきゃ今ここにおらんしね。高校の監督が、やっぱり鋭くて『随分つまらなそうに野球する子やな』て俺見ながら思ってたらしいね。あとでそんな話をちらっと聞いたよ。なんだか知らんうちにうまいことドラフト1位でNPBに入って、気がついたらあっという間に阪神の、猛虎打線の4番だった。信じられないよ。厳しい世界なのはわかってるけど(まるでわかっちゃいなかった、と後で頭を抱えたけど)、一生懸命頑張れば、引退までにサラリーマンよりは多少稼げるかな、程度の認識だった。特にやりたいことも、これといった趣味も、何もなかった。そう、何もなかった。
 大山のぼんやりした曖昧な時間感覚から言えばこうだ。高校の野球部部活の帰り道にコンビニで買い食いするファミチキやブタメンが美味かった。可愛い同級生の女の子にろくろく声をかけることもできないまま失恋した。ごはんはそれでももりもり食った。部活は辛かった。本当にしんどかった。何度も、数え切れないくらい辞めようと思った。けどまあ、よく考えたら他に大してやることもなかった。大学では同じように野球ばかりした。ぼうっとしてたらあっという間に時間が経った。そしていま、

 そしていま、大山悠輔は甲子園球場のネクストバッターズサークルへ向っている。

 体が重い、引き摺るバットが重い。心はもっとずっと重い。調子が悪い、頭が悪い、顔もまずい。なんにもいいことがない。もう嫌だ。もう辞めよう。厳しい世界だ。日本中から、いや世界中から天才や怪物や化物がゾロゾロ集まってきては、日々血ヘド吐くような練習を死に物狂いでやっていやがるのだ。今思えば、実家の親父の蕎麦屋を継ぐぐらいが自分の相場というか、ぶんだったと思う。へい、らっしゃい。ありあとやしたっ。またお待ちしておりゃすっ。いや、それだって俺に満足に出来たかどうか疑わしい。親父は偉い。

 9回2死1塁。巨人対阪神。伝統の一戦。ビハインドは2点の2―0。投げてるのは先発で菅野のアホタレ。1塁にはラッキーヒットで出塁した糸原。バッターボックスのマルテは神経質にタイムをとって間を外す。スイングを確かめる。カウントは2―2ツーツーの平行カウント。この試合を落とせば、今シーズンの阪神の優勝の可能性はまずなくなる。

 ネクストバッターズサークルの大山は、打つなよー、打つなよー、とマルテにさっきから必死に念波を送っている。繋がれても俺は打てないぞ。保証する。打つんじゃない。いや半端に打つくらいだったらむしろ豪快にラパンパラしてくれ。一発かっ飛ばして同点なら延長戦。たとえ俺が打てなくても、望みのない未来も、辛く苦しい現在いまもほんの僅かに先送りできる。菅野は既に120球を超えている。他のピッチャーに替わればまた風向きも変わる。まだ反撃の芽も出てくるんじゃないか? マルテ、打ってくれ、頼む。いや打つんじゃない。打つな。もう終わろう。楽になろう。頑張ったよ、俺ら。俺ら阪神タイガース。阪神、妄想、タイガース。

 3−2フルカウントからマルテは死ぬ思いで菅野のアウトロー、するするっとボール1個分逃げていく球を見送った。ゾッと血の気が引いた。四球フォアボール。命を削るような選球だった。ストライクを取られてもおかしくない、凄い球だった。マルテは装備を外しバットを置いてヨロヨロと1塁へ歩く。糸原健斗は2塁へ進む。甲子園が物凄い歓声に包まれる。

 甲子園が物凄い歓声に包まれる。グラウンドがビリビリビリビリと容赦なく震動する。大山は泣きたいような気持ちでバッターボックスへ向う。怖えええ。帰りてええ。お母ちゃああん。「おおおやまあああああっぜえっったいうてよおおおおおおおおっ」ファンのおっさんのがなり声が一際高く聞こえる。ふざけんな、と大山悠輔は思う。絶対打てるか。誰が絶対打つか。自由自在に絶対打てたらな、そりゃ十割バッターなんだよ。そんな奴が存在した時点で、野球は終わるんだ。野球の終わりだ。野球の終焉だ。くそったれ野球の。

 大山はビビっていた。完全にブルってしまった。チビってるんじゃないか、さり気なく股間に手をやって確かめる。よくわからないが、まだ大丈夫みたいだ。金玉はまだここにあるだろうか? すっかり縮こまっちまって、存在を感じられない。ひょっとしたらロッカールームに置いてきたかも、と思う。大変だ。キンタマ。キンタマが。俺のキンタマ。タイムを取りたい。ちょっとタンマ。キンタイム。キンタンマ。キンタマイム。そうだな、2時間くらい。そんなルールない? 金玉置き忘れちまって。お願いします、今急いで持ってきて、すぐくっつけますんで。足が震えて、膝ががくがく笑う。相手キャッチャーに悟られまいと、屈伸運動を繰り返して胡麻化す。腿を拳でばちばち叩く。「おおやまさあああん! おねがいうってええええーっ」女の黄色い声が聞こえる。あれは明美だろうか。

 プロ入り後割とすぐに、明美と名乗る女子高校生から大山はファンレターを受け取るようになった。明美は今年高校三年生、大学受験の勉強の真っ最中だ。書いてある内容に、これといって特別なことは何もない。凡庸で、退屈だが、一生懸命で真面目で可愛らしい。大山もいつしか手紙を楽しみにするようになった。自分のことがたくさん書いてある。受験のこと。好きな本や音楽の話。クラスメイトの話。抱えてる悩み。家族の話、将来の希望。大山のどんなところが好きか。大山のことはどんなに小さなことでも、どんなに些細なことでも知りたがった。好きな色は、好きな食べ物は何か。音楽は聴くか。どんな映画を観るか。彼女はいるのか。あの試合、あの打席で何を思っていたか。ショートカットが好きかロングヘアが好みか。犬派か猫派か。いつもホームランを打った直後、喜びを表さずぐっと感情を抑えるように見えるのはどうしてなのか。もっと笑ったらいいのに。4通か5通に一度は、大山も忸怩たる思いを込めて汚い字で返事を書いた。

 一度だけ、かなり際どい内容の手紙があった。こんなことを言うのは死ぬほど恥ずかしいけど、朝起きた時、ひどくムラムラしてることがある。乳首はぴっと敏感になっているし、下腹はなんだかずーんと重い。太腿に力を入れて、ぎゅって締めたり緩めたりを繰り返すと、なんだかとろんと甘い気持ちになって、胸もお腹もきゅんきゅんして切なくなる。心臓の鼓動と脈拍が早くなって、呼吸が浅く忙しくなる。かすかに声が出てしまう。そんな時、少しだけ自分に触ってみることがある。左手は胸に、右手はその部分に。指を入れたりするのは怖いから、その周りをゆっく撫でてみる。自分でも恥ずかしくなるくらい濡れている。このままじゃ濡れて溶けてベッドからも世界からも零れ落ちていってしまう。嫌だよ。受け止めてほしい。誰かに、しっかりわたしを抱き止めて欲しい。そんな時に、大山さん、あなたのことを考えるのです。あなたの大きな手に触れたい。その素敵な両頬のえくぼにキスをしたい。あなたの右顎の傷跡に舌を這わせたい。カピバラみたいなすごく可愛い顔をしてるあなた、大山さん。

 バッターボックスに入った大山は精一杯の虚勢を張って、自分に出来る限りの怖い顔で菅野をぐっと睨みつける。漫画みたいに、自分の身体からズズズ……とか威圧感のオーラみたいなものが出てればいいと思う。けれどいくら見下ろしたところでそんなものは全く出ていない。ああ、勇気が欲しい。胸を張っていたい。みっともなくても生きていたい。どうすんだよ、今更野球を好きになって。遅えよ。手遅れだ、何もかもが手遅れだ。覚悟もねえ、誇りもねえ、顔もまずい。とても駄目だ。処置なしだ。ここで打てるんなら悪魔に魂を売り渡したって構わないんだが。畜生め。

 あなたのツイッターやインスタなどSNSを見てみると、ひどいコメントがたくさんありました。死ねとか、殺すとか。阪神から出ていけとか。無能は必要ないとか。なんで。どうして。どうしてそんな事が書けるんだろう? あたし、悔しかった。本当に悲しかった。悲しくて仕方なかった。でもわたし、大山さんのために何もできない。何ひとつ、力になれることがない。そう思うと、わたしまでとっても落ち込んでしまいました。ううう。そんなことをここ数日ぐるぐるぐるぐる考えていたのです。それで、思い余って、ええいって、なんだかこんな恥ずかしいことをつい書いてしまいました。ね、大山さん。可愛い処女の女子高生が、あなたのことを想って、すごく濡らしてるんだよ。そんなふうに、こんなふうに、あたしたちはいつでも有機的に繋がっているの。絶対。でも本当に、そうなんだよ。そんなの、ダメかな。何にもならないかな。何にもならないよね。うう。いまあたしは、鎖骨のあたりまで真っ赤になりながらこれを書いています。ほっぺたがぽっぽと火照っています。あなたは、きっと脳足りんのイカれたインラン女だと思うでしょうね。嫌われてしまうかもしれない。でもこの手紙は、なんとか勇気を奮い起こして、えいやってポストに入れちゃうつもりです。

 ああ、明美。どうしていま俺のそばにいないんだ? 俺がいまこんなに君を必要としてるってのに? 野球はやめだ。もうやめだ。何もかも馬鹿馬鹿しい。インローにずばりと決まるフロントドアのスライダーから、インハイへの拍子抜けのサークルチェンジ。これはかろうじて後方へファール。キャッチャーが猛然と追いかけたがなんとかダグアウト上へ落ちた。あっという間に追い込まれた後に、高めファストで一球外してきた。生きた心地がしない。1−2ワンツー。次の球は全く読めない。もう一球誘い気味に外すか。仕留めにかかってくるか。何が飛んできてもおかしくない。くだらん球遊びだ。球をぶん投げて、棒で思い切りひっぱたく。ひっぱたいたら必死こいて走る。くだらん。実にくだらん。いい大人のやることじゃない。卒業だ。金輪際野球はやめだ。さよなら、野球。さよなら、さよなら、さよなら。花に嵐の例えもあるぞ、さよならだけが人生だ。ああ、これからどうやって生きていこう?
 ああ、これからどうやって生きていこう?  
 ああ、どうやって生きていこう?
 どうやって生きていこう?
 どんなふうに生きていこう?

 さあ、さよならだ。

 さようなら、野球。

 
 さよなら。

 さよなら。



 サヨナラ。






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