見出し画像

東京ポップカルチャー50年史⑥~大学デビューとイベントサークル

【連載第⑥回】大学デビューとイベントサークル~80年代の愛すべきバカたち

前回の連載⑤では、1987〜1991年の「バブル80’S(バブル・エイティーズ)」におけるサラリーマンやOLたちによる史上最もリッチな青春模様を綴ったが、今回は狂乱のパーティに招かれて同じムードを共有していたもう一つの層=大学生たちの動きについて振り返ってみよう。

1983〜1986年の「最初の80年代(アーリー・エイティーズ)」で有名大学の付属校に通う一部の高校生が渋谷でハイスクール・スピリットを描いて以来(連載②に詳細)、TOKYOには“高校生としてのプライド感覚”で遊びや街文化を一通り体験できる世界が存在するようになった。

それは大学生の特権だったはずの「オシャレして夜の街へ繰り出す」「仲間たちと飲んで騒ぐ」ことが、セカンドチャンスな行為へ降格したことを意味した。以降、「大学生になったから遊ばなきゃ」願望を抱くことは、TOKYOでは「大学デビュー組」と揶揄されるようになっていく。

それに拍車をかけたのが、第二次ベビーブーム世代としての若者人口増加だった。言うまでもなく受験戦争という名の大学受験の狂騒化(*1)を生み出し、失われた日々を取り戻すために“遊ばなきゃ願望”の強い18歳や19歳を量産するに至る。「大学デビュー」はまさに必然であり、世代運命的な若者風俗と言えた。

都内の高校生や予備校生の多くは、渋谷の放課後に生息する同年代の「高校デビュー組」(*2)のオシャレで楽しそうな姿を横目に、相当なストレスや遊びに対する欲求を抱えながら悶々とした受験生活を送る羽目になった。

そして大学に無事合格して上京してくることになる多くの地方出身者は、こうしたシーンさえ知る由もなかった。彼らにとっては憧れのTOKYOで大学生になることがすべてのスタートだったからだ。

種々雑多な大学生の中でも圧倒的なマジョリティとして君臨したのが、キャンパスライフの代名詞的存在=サークルを拠点にする者たちだった。

特に飲み会、夜遊び、出逢い、スキー、テニスなどライトなアクションを延々と繰り返す「ナンパ(軟派)サークル」(*3)抜きにして「大学デビュー」を語ることはできない。

そんなサークルを多数束ねてネットワーク化しながら、六本木界隈のディスコパーティ(*4)や学生ツアー(*5)につなげて運営する「イベント企画団体」(*6)も全盛期を迎え、その動員力やPR効果に目をつけた大手企業(*7)が莫大な協賛金でサポートすることも当たり前になった。

学生たちはバブル景気を背景に、遊びを通じて小遣いや大金を稼ぐ術を身につけていた。また、この頃に登場したダイヤルQ2サービスは学生企業(*8)によって認知が向上し、異業種交流会(*9)は「イベント系サークル」の社会人版に他ならなかった。

「バブル80’S(バブル・エイティーズ)」を謳歌した大学生には、こうした「イベント系サークル」や「大学デビュー」、あるいは年上の社会人と交流した「ワンレン・ボディコン」(*10)系の女子大生といった派手な遊びばかりのイメージがつきまとうが、それは大学生活の出口である当時の就職活動も同じだった。

空前の売り手市場となった就職戦線(*11)は、多くの学生たちにモテるか否か、カッコいいか否かの判断基準だけで就職先を選ばせることになった。希望大学に入るのが今よりもずっと困難だったからこそ、そこはまるで実現された“約束の地”のようなパラダイスだった。

次回は大学生とサラリーマン/OLが共有した「バブル80’S(バブル・エイティーズ)」が生んだ最大のポップカルチャー=宮殿ディスコシーン周辺を描いていく。

(第⑦回へ続く)

画像1


*Illustration : いなばゆみ

【注釈】

(*1) 大学受験の狂騒化 ここ10年ほどは高校生人口の減少もあり、大学全入時代と言われて大学生人口は300万人近くもいるが、バブル期は200万人前後だった。あの頃は人口が多かったために競争率が激しく4人に1人しか入学できなかったと言われている。バブル期に就職した世代は超売り手市場で苦労を知らないと就職氷河期世代からよく揶揄されるが、その前に大学生になることが困難な時代だったのだ。

(*2) 高校デビュー 群れて騒ぐ遊びは高校時代に一通り済ませてしまっているので、大学生になると落ち着く者が多い。付属校出身者の場合、大学では自分たちを「内部」、そうでない者=受験して入学してきた素性の分からない「外部」との区切り意識が高い。「内部サークル」と呼ばれるものもある。渋谷の放課後が原点となった最初の高校生だったので、バブル期では気分次第で社会人カルチャーと高校生カルチャーを行き来することができた。

(*3) ナンパ(軟派サークル) ほとんどが大学非公認。インカレ(インターカレッジ)と呼ばれる同じ大学を問わないメンバー構成も目立った。下記の企画団体も含めて「イベント系サークル」と総称することもある。

(*4) ディスコパーティ 合同パーティと呼ばれる、六本木界隈の複数のディスコ店舗を10ハコ以上同時に借り切って昼から夜まで出入り自由にしたパーティが有名。1店舗あたりの集客は1000人前後。パーティ券の売り上げ数千万円のほか、数百万〜1000万クラスの協賛金がついた。それを一次会として、主要メンバーを中心に別のハコや飲食店で二次会を行った。芸能人ゲスト、ミスコン、ゲーム、ショー、豪華賞品、協賛企業のサンプリングなどが主要コンテンツで、新入生歓迎シーズンやクリスマス前などは絶好のタイミング。男はサークル名を刷った名刺を配ってナンパに励む。同時期には東大・早稲田・慶応・医学部主催のパーティも人気だった。

(*5) 学生ツアー 主にスキーツアーやテニス合宿のこと。アフターでディスコが使える苗場や斑尾といったゲレンデが人気だった。旅行代理店もバックアップ。

(*6) イベント企画団体 もともとは早稲田や慶応の学生が1980年代初期にこの種の団体を立ち上げたとされている。その後そこから派生する形で、ストロプス、ガーラ、Yトラップ、エピック、トランスウェーブ、フロンティア、KIAIプロジェクトなどが登場。「リーグ」とも呼ばれる。

各大学に生息するネットワーク持ちの学生が集まって事務所を構え、仲介や協賛取りや接待など大学生の広告代理店的機能を果たした。六本木の星条旗通りのマンションに多く存在したので、その一帯を「イベントストリート」と呼んだ。加盟しているサークル部員に向けてディスコや飲食店の割引が可能な会員カードを配布するところもあった。遊びの企画重視から儲けの営利目的へと変わったのがバブル期。卒業すると、多くはマスコミや代理店、企業のマーケティング職に就いた。

また、広告研究会やプロデュース研究会など「メディア系」と称されるサークルもパーティ、ツアー、学園祭、ミスコンなどに密接に関係した。マーケティングコンサルタントの西川りゅうじん氏はその祖として知られる。

(*7) 大手企業 煙草や飲料のほか、自動車や化粧品やスポーツ用品や就職情報など大学生マーケットが絡む企業。VISAやJCBが顧客囲い込みを目的に、学生専用のクレジットカードを発行したのも1987年4月というバブルが始まって間もない頃だった。

(*8) 学生企業 学生企業と言えば企画やマーケティングが主だったが、1989年から始まったダイヤルQ2を舞台としたポータルメディアビジネスを原点にして、後のネットベンチャーブームを起こしていく。こちらはまた別のエピソードで触れたい。

(*9) 異業種交流会 丸の内青年倶楽部など。ビジネス人脈作りから結婚相手探しまで参加の目的はバラエティ。

(*10) ワンレン・ボディコン 連載⑤で詳しく解説。

(*11) 就職戦線 就職に失敗などあり得なかった時代の語録。「OB訪問に行ったらその場で内定が出そうな勢いだった」「説明会に行ったらその場で内定をもらった」「会社回りに行くと交通費としてけっこうな小遣いがもらえてお土産まで渡された」「内定したら海外旅行に連れて行かれた」「ホテルで豪華なコースを食べさせられた」「みんなで吉原に連れて行かれた」「内定を断るのが大変だった」などはよくある話。

1人に複数社から内定が出ていたので、学生は人材確保したい企業側から接待を受けていた。転職行為がブームにもなり、終身雇用制度が否定された。映画『就職戦線異常なし』や書籍『バブルアゲイン』(シャインズの伊藤洋介著)があの頃の空気を思う存分伝えてくれる。


この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
中野充浩(文筆家/コンテンツ制作者)

最後までありがとうございました。最初は誰かの脳に衝撃が走り、左胸をワクワクさせ、やがてそれが何人かに伝わって周囲を巻き込み、みんなで動き出しているうちに同じ血と汗と涙となり、最後には目に見えるカタチとなって現れる。そんなことをやり続けます。応援よろしくお願いいたします。