【中国大都市見聞録4】深セン - 現代中国都市のプロトタイプ
春休みの中国旅行で得た知見をまとめています。とにかく街を歩いてみて、感じたこと、気になったことを調べながら、中国の都市の思想・形態・制度を理解しようと努めています。本日は2都市目・深センです。連載の詳細は以下から。
1. 深センへ
いよいよ中国本土に入る。香港MRTの東港線に乗って約40分、イミグレのある羅湖駅に着くと、そのまま国境を隔てる深セン川を渡る通路を通り、大量の人でごった返す入国審査場に出る。一番左に数ゲートだけある外国人用の列に並ぶ。本当に多くの人達が毎日中国本土と香港を行き来していることがわかる。
40分ほど並んで入国審査を済ませると、そこはもう深セン駅の構内だ。香港側の羅湖駅と中国側の深セン駅はイミグレを通じて直結している。外に出ると、高層ビル群に囲まれた整然とした広場空間に面くらう。唐楼が所狭しと立ち並ぶ香港のカオスとは全く違う、まさしく中国の景色。権威主義と資本主義の結婚が生んだこの都市では、ブロックも建物も、すべての単位が巨大だ。振り返ってみると、深セン駅の厳つい駅舎が目に入ってまた驚く。羅湖駅は普通のMRT駅と少しも変わらなかったのに。たった1つ川が、香港(新界)と中国本土の99年にわたる異なる歩みを隔てている。場所も住む人も文化も同じで、ただ上に立つ者の思想が違っただけ。
東京都を優に超える1700万人以上の常住人口を誇るこの街は、驚くべきことに、産声を上げてからまだ45年しか経っていない。20世紀後半まで、漁村と少しの市場があるだけの街とさえ言えない集落だったが、1978年の改革開放と2年後の経済特区指定がすべてを変えた。宝安県の一部から広東省直轄市の深セン市へ、そしてわずか2年後に副省級市へと昇格した。今では北上深広として中国4大都市の1つに数えられ、主要IT企業の集積から中国のシリコンバレーと呼ばれる。この街で広東語がほとんど通じず、普通語が話されていることは、この街の急速な発展が中国全土から人々を惹きつけてきたことを示している。わずか半世紀で1700万人が暮らす都市が作られただなんて、人類史に類を見ない、前代未聞の出来事だ。
2. 訪問エリアの紹介
a. 羅湖区 - 深セン駅~東門老街
深センの街は中心部が分かりにくい。いくつか地区の名前は出てくるが、事前に調べてもどこに行くべきなのかつかめなかった。その理由は時期によって都市の役割や位置づけが変化していることにあると思う。1979年に深セン市となった直後は、香港からの玄関口深セン駅がある羅湖区周辺から市街地が形成されていった。当時の深セン駅は現在よりも2キロほど北にあり、駅周辺の東門老街が賑わいの中心となった。国内初の証券取引所、初の地方商業銀行、初の先物市場がここで生まれたらしい。
現在は、国境付近にある現在の深セン駅~東門老街にかけて、南北方向を軸として巨大なブロックで街並みが形成されている。南の深セン駅付近には住宅とホテルや商業機能が多く、北に行くとオフィスが増えていく。深センらしいテック系のオフィスは少なく、政府系や銀行が多い。
b. 華強北 - 世界最大の電子部品問屋街
東門老街から20分ほど電車を乗り継ぎ、世界最大の電子部品問屋街・華強北に着いた。今でこそ深センと言えばIT産業のイメージが強いが、初期には安価な労働力を活かして香港の製造業を代替することで成長していった。その工業力を足掛かりにして深センに地場産業を育てるべく、秋葉原を参考に電子部品企業の集積を目指して作られたのがここ華強北だ。今では本家・秋葉原の30倍の規模とされ、「ここにない部品はこの世にない」「ここでの1週間はシリコンバレーでの1ヵ月」とまで言われる。この華強北がイノベーション都市・深センを育んできたと言っても過言ではない。
c. 福田 - 行政・金融機能が集まるCBD
再び地下鉄で西側に移動し、行政機能の中心・福田地区に着くと、深セン駅付近に輪をかけて巨大な街区とオフィス群が出迎えてくれた。完全な計画都市で、これまでの人生で一番幅が広い道路だったと思う。ジェイコブズやアレグザンダーが見たら発狂しそうだ。土曜日なこともあり歩いている人は殆どいない。これに近いものは、ルーマニアの首都ブカレストの「国民の館」に至る道路だろうか。この国が市場経済である以前に社会主義の独裁国家であることを思い出させてくれる。
d. 高新園 - 中国のシリコンバレーを求めて
市民中心駅から、テック系スタートアップが集積している西側のエリアを目指して電車に乗る。中間のエリアは地理的には深センの中心にあたるが、基本的には緑地帯になっているので、「世界の窓」というテーマパークを除くと降りる人は少ない。
なんとなく高新園(ハイテクパーク)駅で降りてみた。今度は深センらしいテック系のオフィスと大学施設が立ち並ぶ。ブロックごとに1棟ずつ大きなビルが建っていて、ガラス張りの建物が多い。少し街区の中に入ると比較的新しい高層住宅群がある。基層部のモールと高層マンションというユニットは香港のニュータウンと似ているが、香港ほどの密度や賑わいはない。
駅の北側には万象天地という深セン有数のショッピングモールがあった。ファーウェイをはじめとするいくつかのスマートフォンブランドがフラッグシップ店を構えているなど、まさしく深センの勢いを象徴するスポットになっている。大通りからの引き込み動線はキャットストリートのような3F建てのブランド店が立ち並ぶ歩行者空間になっていて、モールの奥には噴水広場などもある。
その日は広州のホテルに宿泊予定だったため、足早に東の深セン駅まで戻り、在来線で1時間ほどかけて広州に行った。土曜日だったこともあり、深センのスタートアップ集積をあまり実感できなかったのが心残りだった。
実はこの日は本当にいろいろな人のやさしさに助けられた日だった。深セン駅の荷物預かりサービスが無くなっていたため、お店のおばちゃんに1日荷物を預かってもらった。広州行きの鉄道のチケットを諸々の障害で購入できずに2時間近く格闘していたが、中国SIMを買ってチケット購入を手伝ってもらい、更にはアリペイで決済できなかったため余った香港ドルをおばちゃんに渡して代わりに支払ってもらった。電車の中で充電が10%を切ったときには隣に座っていたおじちゃんが周りの乗客にモバイルバッテリーを持っていないか聞いてくれて、近くにいた人に貸してもらった。声が大きいしずっと中国語で話してくるから怖いこともあるけど、基本的に優しい人ばかり。世界は優しさでできてるんや。
3. 深センとはどんな街か
さて、深センはどんな街だっただろうか。街の基本ユニットは香港と似ていて、基層部のモールと高層マンションで構成されている。しかし異なる点はいくつもある。香港ほどの密度はなく、同じブロック内にファサードが連続して建ち並んでいるわけではない。街区のスケールはより大きく、どの道路も車線数が多い。歩道は広いものの、何台もの原付バイクが行き交っていて、信号はより歩行者に不親切だと感じる。建物は基本的に新しいし、ガラス張りのオフィスが多い。香港のように雑居ビルにオフィスと住宅が混在することはなく、オフィスは1棟で建っていて、住宅以上に目立っている。香港のようにビジネス機能が1か所に集中しているわけではなく分散していて、テック系は南山や宝山、政府系・金融系は福田や羅湖などすみわけがある。香港のような昔ながらの雑然としたマーケットはなく、グローバル資本の綺麗なお店が多い。
深センは改革開放および経済特区制度における最高の成功例となった。中国では、ある地方で顕著に成功した政策事例を拾い上げ、トップダウンで全国的に実装していく傾向がある。既存の都市機能を活かしつつアップデートしていくのではなく、市場経済システムに適合した全く新しい都市空間を出現させてみせた「深センモデル」は、新しい都市のプロトタイプとして中国全土の都市に輸出された。後に広州や合肥で触れるような、歴史的な街の中心部から少し離れて建設されたCBD(矛盾!?)はまさに深センでの成功を基にした都市開発だ。そして、この深センモデルが最も成功を収めたのが上海の浦東地区だ。たった45年間でゼロから巨大な人口を抱えるイノベーション都市を作り上げた深センでの成功は、中国全土の都市開発の基本思想となっており、現代中国都市を理解するには深センを理解することが必要不可欠だと感じる。
そして現在、中国共産党は北京と天津の間に位置する雄安にてサステナビリティとスマートシティを軸にした全く新しい都市のモデルを作ろうとしている。現代中国にとって大都市とは、新しい技術と価値観を実装していく場所であり、望ましい未来を見せる場所である。改革開放ドリームを実現してみせた深センは、これからも中国で最も「新しい」都市であり続けることができるのだろうか。
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