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うつ病から学んだ事(1)死を考えた日

先日シェアしたうつ病のマインドマップの記事ですが、多くの方に見て頂いたようです。

ちょっとびっくりしています。

では、当時を振り返りながら少し書いてみたいと思います。

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うつ病になって自分が変わったと思うのは、他人との関係性かなと思います。

これには、以前は私はどんな人間だったのかという話をするのがいいのかなと思います。

まずは、子供の頃の話をしてみたいと思います。

少しお付き合いください。


1.子供時代

私は長野県白馬村という所で生まれ育ちました。

この白馬村には、高校まで住んでいました。(その後は大学で金沢に引っ越します)

1998年に冬季オリンピックが開催され、ジャンプ競技が行われた村なので、この白馬村という名前をご存じの方は多いかと思います。現在は、海外からの旅行者も多く、スーパーに行くと、外国語の表示が何種類もあり、海外の方がオーナーの宿や食事処があったりします。
(下の写真の中央がジャンプ台です)

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(上記画像は、こちらの画像です。https://4travel.jp/travelogue/10460391)

今でこそ、観光で成り立っている村ですが、昔は雪は厄介者でしかありませんでした。

私が育ったのは、白馬村でも、東側の山の中にあり、車で家まで行く事は出来ず、車を降りてから山道を30 分ほど登ったところにありました。

人が一人通れる細い道で、バイクが登れるだけの道でした。

この家の前の道路の先は、深い崖となっており、春には福寿草が咲き乱れ、それはそれは見事でした。

保育園までは祖父がバイクで送り迎えしてくれていましたが、冬になると雪が2m程積もるので、雪が降ったら保育園はお休みしていました。

私は兄弟がおらず、近くに遊ぶ子供もいなくて、周りには大人しかいませんでした。

だから、同じ年の子どもと話すのは苦手意識がありました。

又、自分を良く見せたいという気持ちが強かった事もあり、失敗して恥ずかしい思いをするのはまっぴらごめんと、苦手な事はやらずに逃げてばかりいました。

小学校1年になり、山の中から平地に引っ越しましたが(母が父と結婚する時の条件として、私が小学校にあがる時までに山を下りて欲しいと懇願したそうです)、近所の子供たちは野球をやって遊んでいましたが、野球を上手く出来ない私はそこには参加できず、自宅で本を本を読んだり、TVを観たりという事をしており、友人はいませんでした。

これには、次の様な状況もありました。 父は忙しく、私とキャッチボールする時間も取れない程働いていました。私は父とキャッチボールをしたいな~という希望をずっと思っていましたが、なかなか忙しい父にはそうは言えず、さみしかった思いを抱えていました。 これは、おそらく父も同じで、兄弟が多く、長男だった父は、祖父からあまり遊んでもらえなかったのだろうと思います。

そんな事もあり、私が話すのは祖父の所にくる祖父の友人や親せきの大人た達、そんな私が身に着けた処世術といえば、「いい子」でいる事でした。

いい子でさえいれば、お年玉も沢山もらえましたし、褒めてもらえました。

誰にでも基本敬語を使い、他人とは距離を保つようにしていました。

学校の中では、皆が楽しくなるような話も出来ないと思い、なるべく目立たない様に振るまっていました。(そうは言っても、からかわれたりしたことはあります)

中学、高校に入り、好きな子も何人かいた事はあるのですが、それを人に知られては一大事と思い、誰にも相談できませんでしたし、もし告白してフラれたら恥ずかしいという思いがとても強く、一度も告白したことなく、学生時代をすごしました。

恋人いない歴は結婚する35歳まで続きました。

大学は私立大学に進学し、情報処理工学を専攻します。

そして、東京の大手通信機のメーカーに就職します。

2.会社員生活がはじまりました

まだバブルが始まる前でしたが、同期は600人程いました。

一つ上の先輩方も人数が多く、合わせると1200名を超えていました。

そんな中、周りは一流大学の出身ばかり。

自分は私立大学出身で、それも工業高校から推薦入試で入ったダメなやつと勝手に自分にレッテルを張って自分を卑下していました。

そして、事あることに、地下のトイレの個室に入り、ぶるぶる震えているという時期がありました。

自分は仕事が出来ないのだから、残業でカバーしようと思い、とにかく残業で仕事をこなす毎日でした。

結婚式の寄せ書きには、「奥さんが待っているのだから早く帰るようにね!!」と書かれていました。(^^;

今の時代は残業するなですから、まったく逆の時代だったのです。

新人の頃は、トラブル案件のプロジェクトに入った事もあり、残業は200Hを超えた事もありました。当時のお給料はボーナスよりも多かった時もあります。

当時、会社の仮眠室に泊まり込み、昼夜なく過ごすという事も若さもあってやっていました。 カップラーメンを買い込み、夜の仕事をこなす人たちに1個100円で分けていました。

先日書いたストレングスファインダーでも書きましたが、私の資質には「責任感」という資質や最上思考という資質があるので、厄介な事に、「やらなければならない」という気持ちで支配される事が多い傾向がありました。

そんな私も年齢を重ねるうちに、いろいろなプロジェクトを経験し、プロジェクトマネジメントも行う様になっていきます。

そして、問題のプロジェクトに入る事になったのです。

3.問題プロジェクト

当時、M君という同期と一緒に仕事をする事になりました。

彼は、入社以来SE(システムエンジニア)という部署におり、お客様に提案するという仕事をしていました。

彼は実際に物を作った事はなく、お客様に提案しかしたことがありません。

彼は、いかにお客様に魅力的に見えるかという事に力を入れ、技術的に無理な事も提案するスタイルでした。

一方私は、技術職であり、システム設計やプロジェクトマネジメントという立場で仕事をしており、いかに正しくシステムを動作させるかという事をモットーとしていました。なので確実なシステムを良しとしており、飾りの機能はいらないと考えており、彼とは真逆の考えをしていました。

そんな私が、提案をする部署に異動となり、彼と提案書を作る事になります。

私は安全安定なシステムを提案するので、M君からみたら、物足りないのです。 彼は提案を長くやっているので、彼が正しいのだと私は考えて仕事をしていきますが、彼からは私ならもっと出来るはずだと、怒鳴られる事が良くありました。 彼は関西出身なので、長野出身の私からみたら、脅されている様な感覚になります。 私にとってはそれほど言われるのは初めての経験だった事もあり、彼の様に出来ない自分はなんてダメなんだろうと自分をどんどん責めていってしまったのです。

徐々にですが、会社に行くのもだんだん嫌になり、どんどん気持ちは暗く落ち込むばかりです。

そんな状況の中、とあるシステムを提案する事になります。

受注後すぐにシステムを入れる必要があり、先行してシステムを作りながら、提案する事になりました。

実際に物作りが始まるのですが、仕様も定まらず、スケジュールも極端に短く、どう考えても動かないシステムが出来上がっていくのです。

私には、これはダメだという事が分かるのですが、それを上手く説明する事もできず、どんどん精神的に追い込まれていきます。

もう会社から逃げたい、辞めたいという気持ちでいっぱいになるのですが、そこに休むとか、「もう無理です」と言うという選択肢は自分の中にありませんでした。 それは、先ほどの「責任感」や「最上思考」の資質が影響していたのだと思います。

当時、居室は5階にあり、トイレの窓が少し空いていて、ここから飛び降りたら楽になるなと思ったり、ビル通しを繋ぐ地下通路の大きな梁にロープをかけて、首をつったら楽になるかなと思ったりもしていました。

そして、システムの最終試験を実施しているさなか、そのシステムの入札が行われたのですが、他の会社がそのシステムを受注したのです。

私はその時、心底ホットしました。

失注した事を受けて、慰労会も開かれましたが、彼とは一緒にいたくなくて、断りつづけました。

そして、そこを離れ、別の仕事に移っていくのです。 しかし、そこでも、また、プロジェクトのリーダーを任されます。

4.数億円のシステム開発の始まり

そのプロジェクトは、数億円の金融機関向けのシステムで、失敗すると会社へのダメージが大きいのです。もし失敗したら、会社が傾くとまで思っていました。(実際は、そんな事はなく、びくともしないのは後からわかりましたが。当時はそう思っていました)

その頃私はその前のプロジェクトで、精神的にかなり限界にきていたのですが、人一倍プライドが高く、弱みを見せてはいけないと思いこんでいましたし、この仕事は自分には荷が重いという事は言えませんでした。なぜなら、いい子は仕事は断らないものだと自分の中で勝手にルールを決めていたからです。(今なら、平気で無理で~すと言えますか、当時は自分の中にそんな選択肢はありませんでした)

又、その時は、自分が鬱になると全くも思っておらず、鬱になるのは精神的に弱いからなるんだと思っており、ただただ頑張る毎日を過ごしていました。

その時も会社の仮眠室に泊まり込み、夜中の3時まで仕事をして、朝の8時から起きて仕事をするという毎日を過ごしていました。寝不足で、毎日意識がもうろうとしていました。当時食堂が朝の定食を提供してくれており、食堂のおじさんに、頑張るね~と言われ、それが唯一の心の救いだった様な気がします。

この状況から抜けだすには、もう、死ぬしかないという所までますます追い込まれていきました。 電車が入ってくるたびに、ここから一歩踏み出せればいいなとも思いながら、踏みとどまるという日を過ごしていました。

しかし、その一歩を踏み出さなかったのは、白馬にいる母親が悲しむだろうという事と、妻と幼い子供がいるというという状況があったからでした。

もし、結婚していなかったら、子供がいなかったら、最後の一線を越えていたのかもしれないと思います。

そしてある日、家に帰りお風呂に入っているとき、もう、この先どうでもいいやという気持ちになります。

そして、お風呂に入りながら、寝てしまったのです。

このままおぼれて死ぬのもいいかなと思ったのを覚えています。


続きは、またの機会に。。。


今日もお読みいただき、ありがとうございました。



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