2019年の振り返り

2019年は悩んだ年

自我。世界。若者が悩みそうなことについて、ここには書いていないことも含めてたくさん悩んだ気がします

今なら多少笑いながら言えますが、思い返せば割と冗談抜きで辛かったし、また同じような一年を繰り返せと言われたらそれはまじで勘弁してほしいです。

振り返りをしていきます。

そんなわけで少なくとも原因だけは明らかしようと思い、悩みがこじれた原因を考えながら年明けを過ごしました。


悩みをこじらせた2つの背景

悩み方の背景には当事者意識のなさ生き方の知識不足が存在していたという説が浮上してきまして、今の所しっくりきています。

当事者意識のなさ

当事者意識のなさはアダルトチルドレンの中でもロストワン的性質に由来しします。考えようとする自分に対し、考えるという行為自体に集中することができない状態を度々生み出していました。行ったり来たりした原因はもう1つの背景も深く関わっていますが、結果的に当事者意識が生まれた状態と消えた状態を行き来してしまった気がします。例えば自分が役者なのに舞台に立とうと思えなかったり、自分が車の運転手なのにハンドルも握らず前も見ようとしない状態です。

生き方の知識不足

生き方の知識不足は当事者意識のなさに由来します。単純に経験値不足みたいなもので、当事者意識を持たず自分で決断して生きてこなかったので、他人との接し方自分の気持ちの扱い方に関する知識が不足している状態です。この1年間ずっと当事者意識が欠けてわけではありません。考えよう向き合おうとしました。自分が置かれてる状況を見つめ、自分はこれからこうするべきなのではないかと自分に提案しました。ただ何度も挫折しました。原因は様々です。自分は自分を信じ切れない。そんな自分が提案した案だから信頼しきれない。従おうと思えない。面倒くさい(これは当事者意識のなさの発露)。他にもこの世界や他人に対して分からないことが多すぎたり、何が分からないのか理解できない時もあったり。それ故に自分が当事者意識のなさから脱却し自分の課題を自覚し前に進もうとしても、思うように進めない状態を生み出していました。

例えれば、当事者意識のなさから脱却しハンドルを握ろうと思いいざ握ったとしてもギアチェンジの仕方だけがずっと分からず思うような運転ができない状態で、自分が行きたい目的地にだって自分に自信がなかったりわからないことやそれに付随する恐怖が多すぎて進みたいように進めない状態でした。結果的に何度もハンドルを離してしまい運転席からログアウトするっていう事態を繰り返してしまいました。マニュアル車は適切なスピードを出すためにギアチェンジをしますよね。僕は自分のギアの適切な動かし方が分からなくて、ギア1で外周を回りながらずーっとノッキング寸前で走っていたのだと思います。それゆえ坂道発進にも踏切にも挑戦できず、それどころかちょっとの傾斜や障害物でも止まってしまっていました。

以上です。他の人ではそうそう絡まらないであろうこの2つが互いに影響し合ったことが、自分の悩みのこじれた背景でした。まあ人生が進めば違ったものが見えてくるかもしれませんが暫定的にですがそう結論づけました。

そんなこんなで本来解決するべき課題の解決にはあまり至ってない気がします。でも得たものはぎりあったと言えるでしょう。次の項で説明します。

2019年に得たもの

さて、話は変わりまして、ここからは2019年の振り返りです。年中どん底付近を漂っていたかもしれませんが、その中でも得たものがありました。

まずは今読んでいる物語についての本の話からしましょう。

物語の本を読んでいるときに

物語と言っても楽しいお話としての物語ではなく、人間の認知の仕方としての物語です。例えばこの本は、人間は物語的に認知をしてしまうくせがあり、それが苦しみの一因となると言っています。

僕はこの本を読んで、そういった認知の仕方の存在を新しく発見することができてそれに驚きつつ嬉しく思ったのですが、ふともう1つ思うことがありました。

思えば、2019年は悩みまくったけど自分なりに認知の仕方を変えようとしてきた年だったのではないかと。

今回の読書が自分に新しい認知の仕方の存在を教えてくれたように、この一年を通して僕は自分に当てはまるような認知の仕方を知るたびに少し、昔の自分より生きやすくなっている事を感じたのです。

「アダルトチルドレン」・「アドラー心理学」・「物語論」

2019年僕が触れてきた3つの考え方は、自分を説明するために大いに役立ってくれました。

どう役立ったのか。それをより具体的に考えるための最後のカギは物語論の中にありました。

物語論では、人の中には強力な一般論があると言っています。意味づけとも解釈方法とも言えますが、人は誰しも心の根底に自分独自の解釈基盤を持っているそうなのです。

まあACやアドラー心理学でも同じようなことを言っているのですが、つまるところ、自分が体感する出来事をどう認知するかが大事という話なのです。

僕はACによって今の不幸を外部化し、アドラー心理学によって他者の存在と目的から自身を顧みる考え方を知り、それでもなお悪を生み出す自分の心に対し、物語論によって無意識に因果を生み出す心の作用に自分が張り付けられる必要はないことを知ることができました。

よく見聞きするけど信じきれないこと

3つを体験して言えることは、何も自分を苦しめるために作用はしないということでしょうか。もちろん死は決定づけられているし、事故や病気はある程度予防できてもどこから降ってくるかわかりません。ただ、この時も刻々と変化していく全てのものに対して自分がどう働きかけるのか、という点において自分は本質的な自分でいるべきであり、わざわざ自分から自分の中のトラップに引っかかりに行くべきでないということになります。実はこれは結局自分がネットを検索した時によく見聞きした当たり前(らしいが自分にとっては当たり前でなかった)なんですよね。でも昔はそう思えなかったことを今こうやって余計なことだと思えるようになったのは自分の変化だと思います。あのときの自分を旅立ってからそう思えるほど遠くに来たんでしょう。

それでも自分で発見したから

「真実に対して寛容になれるのは、自分でそれを発見した場合だけだ」という言葉を有名な心理学者を紹介した本で見つけたのですが、自分も自分で発見したからこう思えるようになったのかなと思えました。使いどきがあっているかわからないけど。話はそれますが、アニメで旅に出た主人公が行く先々で仲間を見つける度にエンディングの最後に映る集合写真に写る仲間も増えていく演出ってあるじゃないですか。僕は明らかに成長してきたのにそれと違って目に見えるものって何もないんですよ。そんなことを思って寂しい気持ちにもなりますね。)

だからまあ、何もかも自分が発見しなければならないと思うようになりました。

これからの自分は?

僕の悩みのこじれた原因の1つはわからないことが多すぎたことだったのですが、たぶん生き方から分からないんですよ。若干かかなり大袈裟ですけど。生き方分からない人ってそうそういないじゃないですか(笑)。上手なプレゼンのやり方や初めて入る店の注文の仕方がわからない人はまだいても。

でもしょうがないので開き直って取り戻していくしかなさそうです。

結局、きっとこの3つプラスαで僕の内面世界のダイナミクスは説明できてしまいました。完全にではないですが。

そしてまた結局なんですけど、ACアドラー心理学物語論誰かが作った一般論に過ぎないという気もしています。でも自分の手で自分が信じられる一般論を見つけて自分でそれを信て結果的に今この瞬間を手に入れたので、やはり誰でもない「自分」がやることと、手の届く一般論の重要さを感じています。

あわよくば自分もそんな一般論が作りたくて、他の人のように自分もそれが作れるほどの場所に行きたいと思います。


今だから分かる2019年

さて、最後のまとめに入りますが、僕は就職という課題を目の前にして、自分の一般論への違和感を無視できなくなりました。その結果悩みをこじらせてしまったのです。

今だからわかることですが、僕が2019年始めたこと自分の一般論をマイナスの状態から作り始める行為で、自分の一般論を作り始めた時、今まで体験したことないくらい悩んだのは自明だったかもしれません。今まで当事者意識もなく自分を生きるための知識もなく生きてきたやつがゼロから作り上げてみたら、こんな感じになってしまいましたと。ひとまず死ななかっただけで及第点ですが、こりゃもう100点超えちゃってますね。

ほんとのほんとに何をしたか思い出せない日々はありました。たくさん。

でも2019年として振り返ってみると、何をしたか思い出せない年にはなりませんでした。

良かったです。

なんなら、悩んだのは変わりたいと思ったからでしょう?

自分でもそう思えるほど変われてますよ。




というわけで、いかがだったでしょうか。

ひとまずここで区切りまして、僕の2019年とさせていただきます。得たものの答えとしては「ある程度変わった自分」と言いたいです。またいつか振り返ろうと思います。ありがとうございました。

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