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鏡に映るものは何? - 現実/非現実とは

昨日投稿した記事の趣旨に基づき、他のクリエイターさんの記事を改めてじっくりと拝読しております。
素敵な記事を読んで、気づきや学びを得ると、ワクワクした気持ちになって自分も書いてみたくなる…… note の素晴らしい相乗効果だなぁと感じます。


早速ですが、今回は企画第1弾として、キャットホース三世さんの記事を読んで感じたことを書かせていただきたいと思います。

キャットホース三世さんは、よく私の記事にもコメントをくださるのですが、その内容が毎回とても興味深くて、ファンになりつつあるクリエイターさんの一人です。

キャットホース三世さんとのコメントのやり取りまでを含めて記事が完成すると言いますか、そんな感覚さえ覚えています。
さらにいえば、コメントのやりとりを記事にしたい!とも思っていたので、今回ご紹介するきっかけを得られてとても嬉しく思っています。

コメンテーターという役割もありますし、コメントもまた note の醍醐味の一つであり、note で「つくる(クリエイトする)」ことの一つのスタイルなのかもしれません。

今日は、私がキャットホース三世さんの世界にお邪魔してみたいと思います。

拝読した記事


タイトルからしてわくわく。読まずにはいられませんでした。

フィクションか?ノンフィクションか?


「大いなるフィクションとして読んでください」と書かれておりますが、フィクション大歓迎!

最近は、「フィクションもまた大いなる仮説なのではないか」と考えています。

フィクションを生み出すのは実在する人間。
その精神世界から生み出されるものがフィクションであるとすれば、それはノンフィクションと連続したものであっても不思議ではない。

私たちが現実世界・物質世界で様々な知覚的刺激を受けて、空想的なものを創作しているとすれば、フィクションは現実を映し出したものなのかもしれない。

実際に、人文科学・社会科学の分野ではポストモダニズムと言われる潮流があります。ポストモダニズムでは、モダン(近代)の科学が客観性・実証性に偏重していたことに対するアンチテーゼとして、主観性を尊重した姿勢をとるようです。

人文科学・社会科学の分野で統計的分析を伴う量的研究だけでなく、質的研究も重視されることからも、数値化されるデータがすべてではないことがわかります。

「水槽の脳」という話もあります。

水槽の脳(すいそうののう、brain in a vat)とは、「あなたが体験しているこの世界は、実は水槽に浮かんだ脳が見ている夢なのではないか」、という仮説。
Wikipedia

実は私たちは水槽の中の脳であり、繋がれた電極から様々な信号を送られてこの世界を体験しているのではないか。今、現実として認識している世界は、実は高度に発達したVRなのかも。
その可能性を否定しきれないわけです。
そう考えると、客観的なものも、絶対的なものだとは言い切れなくなります。


前置きが長くなりましたが、こうした考えもあって、キャットホース三世さんの記事については、「果たしてフィクションと言い切れるのだろうか?」という読後感を覚えました。

現実か?非現実か?


「フィクションかノンフィクションか」、言い換えれば、「現実か非現実か」という問いは、この記事の内容とも関係してきます。

鏡に映る自分の顔について、

本当にあなたの顔ですか?」って思うこともある。

この感覚、わかります。
鏡に映るものは、現実なのでしょうか?

物理の授業で学ぶ 光の反射 の説明に従えば、鏡は光を反射して正面のものを反転して映す理屈は理解できます。

写真に写った自分が鏡で見る自分と違ってみえるのも、

・写真は像が反転していない
・反転した姿に見慣れているため違和感がある
・単純接触効果により反転した姿に好感を覚えがちである
・鏡の像は動くのに対して、写真は静止画である

といった理由からなんとなく理解できます。

でも、どこか違和感が消えない。

ゲシュタルト崩壊の話も興味深いですね。

ゲシュタルト崩壊(ゲシュタルトほうかい、独: Gestaltzerfall)とは、知覚における現象のひとつ。 全体性を持ったまとまりのある構造(Gestalt, 形態)から全体性が失われてしまい、個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象をいう。
Wikipedia

心理学には疎くて、テレビ番組「トリビアの泉」で観たくらいの知識ですが、例えば同じ文字を見続けると、「こんな形だっけ?」と違和感を覚えるのはゲシュタルト崩壊でしたっけ。

鏡の前でのゲシュタルト崩壊は、鏡に写った自分の顔を見続けると「自分はこんな姿だったっけ?」と思うようになることでしょうか。

あるある。

そして、その違和感は、鏡が映すものは果たして現実なのだろうか?という疑問にも繋がってきます。

物理的世界においては「現実」をそのまま映しているのかもしれない。
でも、心理的な印象も含めて、その人の世界が形成されているとすれば、鏡に隔たれた2つの世界は別の世界なのかも。

メイクをするときによく体験することです。

鏡に映る自分はまさに別の自分。
普段とは姿も変わっているので当然といえば当然ですが、他人と対面しているような感覚があります。

多分、メイクをすることで私はもう一人の自分を鏡の向こう側に召喚しているのだなと。
普段、心の内面に潜んでいる自分が鏡の向こうで生き生きとしているんですよね。
(客観的に見れば、鏡の前の自分も生き生きとしているのでしょうけれど)

そう考えると、いつも鏡の前でしているメイクが魔法のようにも思えてきました。変身魔法というよりは召喚魔法。

白雪姫でお妃様が「鏡よ鏡」と問いかけるのも納得です。
ん?そうなると、あのシーンで鏡に写っていたのは何なのだろう?
鏡の中に悪魔や精霊がいたのか、それとも、お妃様の内面が写っていたのか?

鏡と信仰/鏡と呪術


キャットホース三世さんの記事の後半では、信仰や呪術と鏡との関連性について言及されています。
これもまた興味深いので、ぜひ引用元の記事をご覧いただきたく存じます。

日本を含め、世界中には、鏡に関する物語や信仰があります。

なぜだろう?なぜ、鏡を信仰の対象としているのだろう?
また興味深い問いが生まれました。

考えてみれば、鏡をみて、それを鏡写しの現実と認識するのは恐らく人間ならでは。
猫が鏡に映る自分を見て、びっくりしたり威嚇したりするように、自然界で鏡は特異な存在であることがわかります。
(もちろん、水面に映る像を見ることはあったとは思いますが)

鏡の原理を理解していなければ、鏡は魔法の道具のように見えることでしょう。

現代では、鏡の原理が説明されていますが、それでも残る鏡に対する不思議なイメージの正体は一体なんなのだろう?

そして、鏡に限らず、今では自分自身をうつす道具がたくさんあります。

あえて「うつす」を平仮名表記にしてみました。
道具によってうつされるものは、視覚情報に限定されないと考えたからです。

スマホでの自撮り、加工アプリ、VR、アバター、音声配信、文章での投稿も含め……

すベて自分自身がモデルや発信源になるものですが、自分だけど、自分でないかもしれないものです。

「盛って」加工して現実離れした自分かもしれませんが、それもまた自分。

VTuberなどもそう。
中の人がどんな人であるかは問わず、その人の内面性がファンを集める世界であると考えています。

ある意味、これはポジティブな捉え方もできます。
つまり、鏡に映る自分だけが自分じゃない。

現実とは何か?という問いを考えることは、自分とは何か?を考えることにも繋がっていきます。奥が深い。考え始めると際限ないので、ここで筆をおくことにします。

キャットホース三世さん、とても興味深い記事を投稿して下さってありがとうございました!

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